第20話
病院から帰宅し、力無く椅子に座る。誰も喋らずじっとテーブルを見つめた。もうすぐ昼だ、しかし母は昼食を作ろうとしない。彼女にはもうその気力は残されていなかった。
心情を察した父がキッチンへ向かう。しばらく何かを炒める音が聞こえた後、チャーハンが盛られた皿を五つお盆に載せ、戻ってきた。大好きな父のチャーハンなはずなのに三人とも喜ぶことができない。
母はチャーハンを見て父にこう言った。
「ごめんなさい…。わたしが作らないといけないのに…」
「気にしないで食べて」
そう言うと椅子に座り、自分の作ったチャーハンを食べ始める。昨夜の夕食の時よりも重い空気が流れていた。みんな物思いにふけっているため、味がわからない。そのまま気づかぬうちに食べ終わり、無意味な時間を過ごした。
「ご飯ができたわよ…」
母の沈んだ声に他の四人が顔を上げる、時計を見ると八時を指していた。時が経つのを忘れてしまうほど落ち込んでいたのだ。再び会話の無い食事が始まる。本当は食欲は無いのだが、母が無理をして作ってくれたので誰もそのことを言わない。昼よりもさらに重い空気が流れる。今は夜なので窓から光が入ってこず、尚の事不気味だ。
早く食べ終わって部屋に戻りたい、そう思いながら食べ進める娘たち。昨日と同じく最初に柚華が食べ終わった。しかし席を立とうとしない、じっと妹たちの食べる様子を見つめている。一人で動くのが怖かったのだ。この屋敷に来て、こんなことを思ったのは初めてだった。少しして、妹二人が食べ終わり席を立とうとする、それに合わせて柚華も立ち上がった。
「歯を磨いてから寝るのよ」
「うん」
三人は母の言葉にそう返事をした。まさかこれが、親子の最後の会話になるとは誰も予期していなかった。
深夜、眠っていた三人は目を覚ました。一階で大きな音がするのだ。聞き耳を立てていると、隣の部屋のドアが開く音がした。父か母かはわからないが、一階に降りていくようだ。
その足音はゆっくりで慎重な様に聞こえる。しばらく大きな物音と、小さな足音を聞いているとやがて足音が止んだ。次の瞬間、母の驚いた声が響く。
「何してるの?!」
すると誰かの唸り声のようなものがした。
「やめて!」
母の悲鳴が聞こえ、何かが倒れる音がした。
「お母さん!」
華那子が慌ててベッドから起き上がり部屋を出ようとする。
「だめだよ華那子ちゃん!」
次女の腕を掴もうと柚華が手を伸ばすも、届かない。華那子は勢いよく扉を開け駆け下りていった。
「きゃああああ!」
悲鳴が屋敷中に木霊する。そして誰かが床を踏み鳴らしながら、こちらに向かってきた。明らかに華那子ではない、とっさにそう思った長女はベッドから起き上がると急いで扉の鍵を閉める。
「涼華ちゃん起きて!」
ベッドに戻り妹の手を取る。すでに目を覚ましていた涼華は体を起こした。その直後鍵のかかった扉が強い力で引っ張られた、開くことはないが凄い音を立てている。
「開けろ!」
聞いたことの無い父の怒鳴り声に二人は震え上がった。再び扉が引っ張られる、柚華は妹の手を引き部屋の奥にあるクローゼットの中に隠れた。
何度も何度も扉は怒鳴り声と共に軋み、その度に姉妹は震えた。耳を塞いでいても聞こえる程の音だった。
「声を出しちゃだめだよ…」
今にも泣き出しそうな涼華に、柚華は涙声で優しくそう言う。妹は頷き姉にしがみついた。轟音にじっと耐える、涙が次々と頬を伝った。
かなりの時間耳を塞ぎ目を固く閉じていた。さすがに疲れてしまい手が緩んでしまう。
「あれ…」
音がいつの間にか止んでいた。恐る恐る手を耳から外す、轟音が聞こえないくらい塞いでいたため耳が痛い。静かに目を開け耳を澄ますと、やはり轟音も怒鳴り声も聞こえなくなっていた。
クローゼットをゆっくり開けると空が白み、部屋が少し明るくなっているのがわかった。もう一度耳を澄まし何も聞こえないかを確認する。先程のことが嘘だったかのように静かだった。
「涼華ちゃん…」
小さな声で話しかけると涼華が顔を上げた。
「外に出てみよう」
涼華は頷くと姉と一緒にクローゼットを出た。
部屋の中は寝る前と少しも変わっていない、いつもと同じだ。震える足で一歩ずつ音を立てない様に扉に近づく二人。そんなに距離があるわけでもないのに遠く感じる。時間をかけて扉の前まで行き、柚華はドアノブを掴んだ。
勇気を出し、扉を開ける。姉妹はお互いの手を固く握り、薄暗い廊下を歩いた。階段は母と同じく慎重に降りていく。一階に近づくにつれて二人はあることに気づいた。
「おねえちゃん、なんのにおい…?」
「わからない…」
今までに嗅いだことの無い臭いがするのだ。臭いは一段降りる度に強くなる、涼華は思わず片手で鼻を覆った。嫌な臭いで、嗅いでいると怖くなってきたのだ。臭いは台所からしているようだった。
しかし姉は、それとは反対のリビングへ向う。涼華は手を引かれるままについて行った。台所から離れると臭いは薄まり、鼻を覆っていた手を外した。
リビングに入りテーブルと椅子が規律よく並んでいるのを見ると二人は少し安心した。部屋を見回し家族を探す、だが誰もいない。
「他の部屋にいるのかな…」
柚華は独り言のようにそう言うと再び歩き出した。一階にある部屋を次々と見て回る。どこもいつもと同じなのだが、どんなに探しても見つからない。とうとうずっと避けていた台所だけになってしまった。台所の前で立ち止まり、お互いのてをさらに強く握る。
窓が少ない台所はどの部屋よりも暗い、その上嫌な臭いが漂っているため歩くのがさらに遅くなる。僅かな頼りは奥の方で仄かに光っている電灯だけだった。様々な物が散乱している床を慎重に進む。他の場所とは明らかに違う、何があったのだろうかと姉妹は揃って思うも暗くて何もわからない。
「おねえちゃん、こわい…」
涼華は姉の服を強く掴む。
「大丈夫だからね…」
小声で返事をする柚華。早く明るい所に行きたい、しかし二人とも足が竦んで思うように歩けない。それでも確実に少しずつ電灯に近づいていた。
もうちょっとで着く、そんな時柚華の足が止まった。
「どうしたの…?」
目の前に灯りがあるのに動こうとしない姉に不思議そうに訊く。姉は電灯でもなければ妹でもなく、暗闇を見つめていた。
「おねえちゃん…?」
涼華の呼びかけに答えず、目を大きく見開き暗闇を見つめ続けている。何を見ているのかと妹も同じ所に顔を向けるも闇しか映らない。それでも見ようと目を見開いていると次第に目が慣れてきた。そこには恐ろしい光景が広がっていた。
「おかあさん…」
母が床に倒れていた。服は真っ赤に血で染まっている。そのそばには父と華那子が同じように血まみれで倒れていた。
「おかあさん…!」
涼華は母の元に駆け寄ろうした、しかし姉が反対に引っ張ったため離れてしまう。どんどん倒れている三人から離れていった。
手を振りほどこうとする妹を柚華は引きずるようにして歩き続ける。先程と違い迷い無く出口を目指して進む、床に散乱している食器に目を向けることも無い。そのため落ちていた皿を何枚か踏んでしまった。
あっという間に台所を出る二人、だが柚華は立ち止まることはせず、そのまま玄関へ行き外に出た。早朝の薄暗い森の中を何の頼りも無く歩く。あまりにも夢中だったため二人とも靴を履いておらず裸足のままだった。
妹の手を強く握り、歩き続ける。しかしその目に光は無い。どこを見ているのかわからない程だった。森の中は二人の足音だけになっていた。
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