第9話

 天気は晴れ、外出するには絶好の日だ、駅に向かいながらそう思う。どこに行くかは決めていないけど、とりあえず駅まで行こう。今日は一日会社のことを忘れ、自分のために使う。そのために時間をかけて服を選んで化粧をしたんだから。…と言っても、ブラウスとスカートにパンプスは普通の格好なのかもしれないけど。もう少し考えれば良かったかも、と一瞬思ったが時間をかけ過ぎると外出するのが遅くなってしまうのに気づき、仕方ないかと思い直す。


それからすぐに駅に着いてしまった。なんだかいつもより足が軽いような気がする、いつもならここまで来るだけで疲れるのに。通勤ラッシュはもう終わっているため、毎朝見ている光景とは違い人は多くない。電車も空いているのに乗ることができた。


普段会社に行くのとは反対方向の電車だ。これだけは即決できた。だが、乗ったはいいが目的地をまだ決めていない。こちらの方面には一度も来たことがないので、どの駅に何があるのか全くわからない。


スマホで調べるという手もあるが、それだと何だかつまらない気がする。それに昨日から充電していないため電池の残量も多くはない、使うなら道に迷った時にしたいのだ。


まあ、気が向いたら降りる、そんなのも悪くないかな。ちょっとした冒険みたいで楽しいかも。そう決め、顔を上げる。向かいの席には誰もおらず、大きく空いている。窓の外を眺めるには丁度良かった。


こっちはビルとかが少ないかも。流れる風景を眺めながら、いつもと違う一日を送っていることを改めて実感する。毎日決まったスケジュール通りに動き、遅くまで残業して家に帰ったら寝るだけ。


でも今日は会社をサボり、一人で知らない街に行こうとしている、本当はこっちが普通なのかもしれない。もちろん無断欠勤は悪いことだけど、今まで他の企業の社員の何倍も努力したんだから一日くらい…。


慌てて小さく頭を振る、油断するとすぐに会社のことが浮かんでくる。そんなの絶対に嫌だった。会社のことは忘れる、自分に言い聞かせた。気を取り直して再び窓の外を見る。名前もわからない街が次々と通り過ぎていた。


あの街にはいったい何があるんだろう?そう考えると楽しくなってきた。しばらく色々想像して気分を高める。そうしているうちにあることに気づいた。お腹空いたな…。


朝から何も食べていなかった。次の駅で降りようかな、美味しいお店が見つかるといいんだけど。少ししてアナウンスが鳴る。


「次は桜城、桜城です」


桜城か…。昔のお城でもあるのかな?席を立ち扉の方へ移動する、ほとんど同時くらいに電車もスピードを落とし始めた。たくさんの木がゆっくり流れていた。もしかしてこの木はみんな桜なのかな?


今は桜の季節ではないが、どの木も新緑が美しく窓から見える街並みにとても映えていた。降りたら写真撮ろうかな。電車がゆっくりホームに入り停車した。初めての駅に第一歩を踏み出す、必要以上に気分が高揚している気がした。


早く駅の外に出たいというはやる気持ちを抑え、ホームを見渡すと自分がいつも使っている駅とあまり変わらないことに気づく。ホームはどの駅も同じようなものなのかな…。ちょっとだけ残念なきもするが、気を取り直して改札口へと向かう。


歩き進めるにつれ外の景色が見えてきた、自分の見たことの無い街が広がっている。改札を通り外に出ると電車の中から見えた木々が彼女を迎えた。立ち止まって深呼吸をする、新緑の香りがして清々しかった。


どのお店にはいろうかな。駅を出てすぐの通りには様々な飲食店が並んでいた。名前をよく聞くチェーン店から、恐らく個人で経営していると思われる喫茶店などがある。どうせならこの街にしかないお店がいい。


そう思い店を選んでいると一軒の喫茶店が目に留まった。古ぼけた佇まいだが、他の店には無い重厚な雰囲気がある。その場で通りを見渡し、もう一度並んでいる店を確認する。どの店もそれぞれの良さがあっていいと思うが、この店ほど興味はひかれない。小野は扉を引き中に入った。


 カランカランという音が頭の上で鳴る、見上げると扉に来客を知らせるためのベルがついていた。


「いらっしゃいませ」


店の奥から男性の声がする。


「空いているお席へどうぞ」


小野は窓際の席へ向かった。すぐにウェイトレスの女性がメニューを持ってくる。


「ご注文がお決まりの頃にお伺いします」


にこやかにそう言うと店の奥に戻っていった。メニューを開き目を落とす、想像していたよりも豊富だった。どれがいいかな…。やっぱりケーキとセットのがいいな。少し悩んでサンドイッチとショートケーキのセットに決める、すると彼女の心を読んだかのようにさっきの女性が注文を取りに来た。


「ご注文はお決まりでしょうか?」


「えっと、サンドイッチとケーキのセットをください」


「かしこまりました、お飲み物はいかがなさいますか?」


「えっと…」


コーヒーがいいと思ってはいるが詳しいわけではないし何か好みがあるわけでもない、どれにすればいいのかわからなかった。


「あの、このお店のオススメのコーヒーはなんですか?」


迷ったらオススメにするのが一番だ。


「当店のオススメはブレンドコーヒーです」


「じゃあ、それをお願いします」


「かしこまりました。少々お待ち下さい」


先程と同じ様ににこやかに言うと再び店の奥にもどっていった。一人になり落ち着いたところで店内を見渡す、外見と同じく少し古ぼけていて重厚な雰囲気だった。一言でいうならレトロ。その言葉がぴったりだ。


流れている音楽も静かな曲調で店に合っている。いいお店を見つけたな。何だか大人っぽいことをしているようで嬉しかった。社会人になって三年目だが、こんな風に自分で店を探して入るということは無かった。仕事が多忙過ぎてできなかったのだ。


土曜日まで会社があり、日曜日になっても疲れているため一日の大半を寝て過ごす。大学を卒業してからはそれの繰り返しだった。わたしは大人なんだ…。二十五歳にしてようやく実感が湧いてくる。


「お待たせいたしました、ケーキセットとブレンドコーヒーでございます」


喜びに浸っているとウェイトレスがお盆に注文の品を載せてやってきた。滑らかな動きでテーブルに料理とコーヒーを置く。


「ごゆっくりどうぞ」


「ありがとうございます」


反射的にお礼を言った。するとウェイトレスの女性は微笑むと会釈をして戻っていった。その後ろ姿を少しだけ見送る。素敵な人だな…。最後の笑みが印象的だった。


上品で優しい笑顔、自分はあんな風に微笑むことができるのかな…。そんなことを一瞬考えてしまう。顔を戻しテーブルの上の皿を見る。今は食べることに集中しよう。色々考えてネガティブな気分になるよりは、美味しいものを食べて幸せになったほうがいいに決まってる。


自分が想像していたのよりボリュームがあるサンドイッチを手に取り一口食べる。わずかに焦げ目のついた三角形の食パンに、レタスとペースト状になったゆで卵が挟まれているシンプルな物だった。でもコンビニで売っている物とは明らかに味が違う。


パンは片面だけ焼いているため硬すぎず程よい噛みごたえで、他の食材と一緒に食べるのを邪魔しない。レタスは瑞々しく、口の中でシャキシャキという爽快な音を立てている。そして一番美味しいのは卵だ。完全にぺーストにするのではなく、小さな白身の塊が混じっていてちゃんとゆで卵の食感が残っている。ゆで卵だけたべるとちょっと塩味が強いと思ったが、パンやレタスと一緒に食べるとしょっぱさが薄れ黄身の甘さが引き立つのだ。


今まで食べたサンドイッチの中で一番美味しかった。誰が作っているんだろう?気になって店の奥を見るも、厨房は見えない。作り方を教えて欲しいけど、やっぱりこういうのって企業秘密なのかな…。ゆっくり味わいながら食べて、サンドイッチ二つを完食した。


ふぅ…と息を吐き一息つく。次はショートケーキといきたいところだが、ボリュームのあるサンドイッチを二つ食べた後なので、少し胃を休めたい。コーヒーを持ち、ちょっとだけ口に含む、目が覚めるような苦味が広がった。驚いて思い切り飲み込むとわずかな酸味があることに気づく。カップを顔に近づけ香りを確かめると、強すぎない甘さが鼻へ抜けた。もう一度コーヒーを口に含む、今度は香りを意識しながら飲んだ。


すると甘い香りが苦味を緩和し、酸味と調和している。思わずカップの中を見つめた。コーヒーが鏡のように自分の顔を映す。不思議だった。コーヒーは苦い物だと思っていたのに…。詳しいわけでも好みがあるわけでもない。コーヒーを頼んだ理由だって大人っぽいから、それだけだった。このコーヒーのおかげで奥深さを知ることができた。感心しながら少しずつ口に運ぶ。


今飲み干してしまうのはもったいない気がして半分ほど残し、カップを置いた。さて…。ケーキに目を移し、皿を引き寄せる。一番楽しみにしていたケーキを食べる時がきた。サンドイッチとコーヒーがあんなに美味しいんだから、ケーキだって美味しいはず。


フォークで先のほうをすくい口に入れる。期待以上だった。生クリームもスポンジもフワフワでとろけるように甘かった。いちごは大粒で酸味が強くて甘いケーキにちょうどいい。自然と笑みがこぼれた。美味しい物を食べると笑顔になるって本当なんだ…。


時間をかけて食べ進め、ケーキの味を満喫した。


「はぁ…」


空になった皿を見ながらため息をつく。ちょうどいい量で味も最高、そしてこの雰囲気…。こんなに素敵なお店を見つけることができた、それだけで今日は満足できそうだった。飲みかけのコーヒーを手に取る。冷めても味と香りは落ちていない、美味しいままだった。


しばらく窓の外を見ながらコーヒーを楽しむ。外は若者からお年寄りまで様々な年齢の人が行き来していた。特に彼女の目を引いたのは自分と同年代くらいの若者たちだった。みんなオシャレな服を着ていて、輝いて見える。なんだか引け目を感じてカップに目を戻してしまった。


やっぱり、もうちょっと時間をかけて服を選べばよかったかな…。またもやそんなことを考えてしまうが、すぐに小さく頭を振った。せっかく素敵なお店にいるんだから、他のことは気にしないようにしよう。そのために別のことを考えることにした。この後はどうしようかな、もう少しここにいてもいいけど、他の場所も見たい気もするし…。


迷ったが、店を出ることにした。次はいつ来られるかわからない、会社の事を忘れようとしても頭の片隅にこびりついて離れない考えがあった。今日の内にこの街のいい場所をたくさん見つけよう、そう思ったのだ。残ったコーヒーを一気に飲み干し立ち上がる。


レジに行くとあの素敵なウェイトレスが会計をしてくれた。


「またのご来店をお待ちしております」


会釈をしながら笑顔で言われる、小野も会釈をして店を後にした。






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