第8話

アラームの音が響き渡る。小野は静かに目を開けた。部屋が傾いている。目に映る物全てが真っ直ぐではない。…あれ…?不思議に思いながらも、しばらく眺めているとあることに気づく。ゆっくりと体を起こす、彼女は床に寝ていたのだ。全てが傾いて見えたのもそのためだった。


アラームの音がうるさいと思うが、止めに行きたくても体が重くて立ち上がることができない。仕方なく床を見つめていると、やがて音は止まった。アラームが鳴ったということは今は六時過ぎ…。深くため息をつく、会社に行く準備をしなければいけないのだ。しかし彼女は動こうとしない。


行きたくない…絶対に行かない…。そう思いながらじっと座り続ける。絶対に立ち上がらない、そのつもりでいたが、しばらくして足が痛くなってしまい渋々立ち上がる。よろめきながら椅子に向かい、力無く座った。


「電話しないと…」


そうつぶやき机の上に置いてあるカバンからスマートフォンを取り出し、会社にかけようとするも番号を半分入力したところで手が止まる。あんなところに電話なんかしたくない…。もう会社に関係すること全てを拒絶するようになっていた。…無断欠勤でいいや…。


画面を睨みつけ電源を切った。それから三十分くらい椅子に座る。石のように微動だにせず、するとしても瞬きする程度だった。役立たず。その言葉が何度も浮かんでは消えを繰り返す。再び怒り悲しみが押し寄せてくるが昨日たくさん泣いたためか、もう涙は出なかった。このままじっとしていたら気が狂いそうだ…。しかし家にいてもなにもすることは無いのだ。どこかに出かけようかな、せっかく休んだんだし…。


クローゼットを開け何着か引っ張り出す、ずっとしまっていたのでちょっと湿気臭い。どれを着ようかな、せっかくならオシャレしたい。こんな風に着る服を選ぶのも久しぶりだった。普段会社に行くのとは逆の格好…。いつの間にかそんなことも考えていた。会社から完全に離れたい、そういう思いが彼女の中にあったからだった。


「これでいいか…」


悩んだ末にブラウスと長めのスカートを手に取る。


「よし」


自分を奮い立たせるように声を出し着替始めた。無断欠勤をして遊びに行く、昨日までの彼女からは考えられないことだった。しかし、今は罪悪感を少しも感じることなく準備をしている。程無くして着替え終わりリビングに戻ってきた。湿気の臭いは香水でなんとかなるかな。


化粧品は母が定期的に送ってきてくれるがほとんど使わない。仕事が多忙な上に、毎日のように残業しているため疲れて化粧をする気力が無くなってしまったのだ。鏡に映った自分の顔をじっと見つめ、ため息をつく、顔色は悪く目の下にはくまができていた。化粧でごまかせればいいんだけど…。


慣れない手付きで化粧をし、部屋の隅に向う。そこにはホコリを被ったハンドバッグが置いてあった。優しくはたきホコリを払うと傷やほつれが一つも無い革生地が現れる。それを眺めながら回想に浸り始めた。このバッグは母が就職祝いに買ってくれた物だった。


入社式で着るスーツを新調した帰りに、通りかかった店のショーウィンドウで見つけたのだ。あの日のことは昨日のことのように覚えている。


 「今日はスーツの新調に行ってくるから」


「あら、それならわたしもいくわ」


「遠くに行くわけじゃないから一人で大丈夫だよ」


しかし母は首を振った。


「いいのよ、買い物もあるし」


結局一緒に行くことになった。


バスで三十分ほどの場所に洋服店はあった。店に入り新調し始めると、母は自分よりも熱心に店員と話していた。スーツ一着でそんなに話す必要ってあるのかな…。二人のやり取りを見ながらそう思っていた。そのせいかどうかはわからないが自分が予想していた時間よりもずっとかかってしまった。


「やっと終わった…」


わたしは疲れていたけど母は違った。


「いいスーツができそうね」


「あんなに真剣にならなくてもよかったんじゃない?」


「何言ってるの、社会人になるんだからスーツはちゃんとしないとだめよ」


「…はーい…」


返す言葉が無かった。


「それじゃあ買い物にいきましょう」


「え…?」


「買い物があるって言ったでしょ?」


「…ああ…そうだったね」


母と一緒に商店街へ行った。こういう場所にはほとんど来たことが無かった。何かが欲しいと思うことは、あまり無いため来る必要も無いのだ。母は卵と野菜を買うとこう言った。


「これで買い物は終わり」


「これだけ?」


「そうよ」


「たくさん買うと思ってたのに」


買い物も終わり後は帰るだけ、しかし母はいつもよりゆっくりと歩き始める。


「どうしたの?」


「せっかくだから色々見ていこうと思って」


一軒一軒看板や商品をじっくり眺めていた。しばらく歩き、ある店の前で止まる。革製品の店だった。ショーウィンドウに飾ってあるハンドバッグを見つめている。


「お母さん?」


「ちょっと待っててね」


そう言うと母は一人で店に入って行った。少ししてきれいな袋を下げて戻ってくる。


「はい」


「え?」


「プレゼント」


袋を差し出されながら言われる。何が起きているのかわからなかった。


「…わたしに?」


「そうよ、あそこに飾ってある物と同じのを買った

の」


先程見つめていたバッグを指し示しながら言った。


「でも…」


バッグと共に置いてある値札に目をやる。とびきり高価というわけではないが決して安い物ではない。値段からして良い商品であることはすぐにわかった。ここまで育ててくれただけでも感謝しているのに、こんな良いもの受け取れない…。戸惑うわたしに母はこう言った。


「もしかして、気に入らなかった…?」


「え…」


そんなことはなかった、色もデザインも自分の好みと合っている。


「そうじゃないけど…お父さんが怒らないかなあって…」


すると母は以外なことに微笑んだ。



「それなら心配することないわ。お金はお父さんが出してくれたんだから」


「そうなの…?」


目が丸くなる。


「そうよ、だから気にしないで受け取って。お父さんとわたしからの社会人になるお祝いよ」


「お母さん…ありがとう」


差し出された袋を静かに受け取った。本当に嬉しかった。その日は何もかも忘れることができるくらいに。


「お父さんにもお礼を言うのよ」


「うん」


家に帰ると父はリビングのソファーに座り、本を読んでいた。わたし達が入ってきたのがわかると顔をあげた。


「おかえり」


そしてわたしがきれいな袋を腕に下げているのに気づく。


「その袋は?」


「バッグよ、涼華が社会人になるお祝いに買ったの」


母が答える。


「そうか、それは良かったな」


そう言うと父は再び本を読み始めた。


「あの…お父さん」


ちょっとだけ緊張する、父は口数が少なく会話も多くないので、こうして面と向かってお礼を言うことはあまり無いのだ。


「なんだ?」


「ありがとう…」


「何のことだ?」


「お父さんがお金出してくれたんでしょ?」


すると父は母の方を一瞬だけ見た。


「言うなって言ったのに…」


それを聞くと母は、ふふっと小さく笑った。


「大事に使いなさい」


「うん」


父との会話はそれで終わった。


 今思えば母は買い物があると言ってついてきたけど、本当はわたしへのプレゼントとを買うためだったのではないか。もしかしたら、父も母が一緒に行くと言い出した時点で、わかっていたのかもしれない。


 回想を終え我に返る。貰ってから一度も使ってない、バッグをじっと見つめた。あのブラック企業のせいで…。財布とスマホをバッグにしまった。


「よし」


靴を選ぶと深呼吸をし、外に出た。



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