第6話

 目が覚めると自分の部屋にいた。昨夜のように怖い夢を見ることはなく眠ることができた。でも気分はすぐれない。理由はわかっている、考えたくもないことが頭をよぎるからだ。


違うことを考えようとしても、すぐにそれが浮かんできて体の動きが止まり物思いにふけってしまう。そんなことをしているうちに家を出なくてはいけない時間になってしまった。


「あっ!」


時計を見て大慌てで支度して出かける。何とかいつも乗る電車に間に合うことができた。


混雑した電車の中でホッと安堵のため息をつく。しかし焦りが無くなると再びあのことについて考えてしまうのだ。電車が動いている時はまだいいが、停車すると大勢の人が我先にとドアに向かって動くため、その度に小野は後ろから押されたり乱暴に手でどかされたりする。


それでも彼女は考えるのをやめなかった。やめることができなかったのだ。どんなに追い出そうとしても頭から離れない、まるでここが自分の居場所だと言わんばかりにしがみついているようだった。本当は考えたくないのに…。


しばらくして電車が停車した。また大勢の人が動き出すが小野は気にすることなく物思いにふける。すると、どこからか手が伸びてきて彼女の手を掴んだ。


「え…」


驚いたのもつかの間、あっという間に電車の外まで引っ張り出されてしまう。社内より少しは空いている駅のホームに出て自分の手を握っているのが誰だかわかった。


「外田さん…」


「すみません…。考え事に夢中で電車のアナウンスが聞こえていないと思ったので…」


外田さんはわたしを助けてくれたんだ…。


「ありがとう、外田さんの言う通り考え事しててアナウンスが聞こえなかったの」


「いえ…。お礼を言われるようなことは…。あの…痛くなかったですか…?」


「え?」


「引っ張ってしまったので…」


そう言うと外田は静かに小野の手を離した。


「大丈夫、気にしないで。痛くないから」


「それならいいんですが…」


その後二人は一緒に会社まで歩いていった。途中で少しおしゃべりをして、会社に着くころには曇っていた小野の心も少し晴れていた。しかし建物に一歩足を踏み入れると、気分はだんだん落ちていく。そして自分の部署に入るころには、朝目が覚めた時と同じになってしまった。


のろのろとパソコンの電源を点け、渋々仕事を始めた。今日までにこの書類を終わらせないと…。頭ではわかっていても、手は思うように動いてくれない、それどころか再びあのことが浮かんでしまい考え込んでしまう。気づいたら手は止まっていた。いけない…これじゃあ今日中に終わらない…。頭を小さく振って意識をパソコンの画面に集中させるも、また止まる。


何度も繰り返しているうちに昼になってしまった。チャイムの音が鳴るも小野は気づかない、あまりにも考え事に夢中になってしまい、あらゆる感覚が麻痺していたのだ。なんで、あんなことに…。その言葉だけが脳裏に響く。


「小野さん、ちょっと来てくれる?」


「……」


「小野さん?」


「……」


「聞いてる小野さん?」


突然肩を叩かれる。驚いて横を向くと隣の席の社員が彼女を見ていた。


「呼んでますよ」


「え…誰がですか…?」


「…課長が」


課長席に目を向けると相手も小野を見ていた。目が合ってしまい慌ててそらす。課長に呼ばれたということは…。恐る恐る時計を見ると四時五十分、もうすぐ退社時間になる。どうしよう…まだ終わって無い…。


言い訳を考えようとするもすぐに諦める、何を言ってもこの会社には通用しないのだ。正直に言うしかない…。重い腰を上げ課長のところに行く。課長はいつもの不敵な笑みを浮かべて彼女を待っていた。


「…なんでしょう」


「水曜日に渡した書類できてる?」


予想通りの言葉だった。


「…申し訳ありません…まだ終わっていません…」


課長の顔から不敵な笑みが消えた。


「はぁ…?」


机を拳で叩き、見たこともない形相になる。


「何やってんだよ!」


怒鳴り声が部屋中に響き渡った。


「申し訳ありません…」


もう一度頭を下げて謝る、今の彼女にはそれしかできなかった。


「あの書類は明日、朝一番の会議で使うんだぞ!」


「はい…」


「おい、あの書類いつ渡した!?」


「水曜日です…」


「なんで三日もあんのにできないんだよ!」


もう一度拳で机を叩き、怒鳴り散らす。


「申し訳ありません…」


「明日の朝までには終わらせて会議の人数分コピーしとけ、わかったか?」


課長は立ち上がりカバンを乱暴に掴むと小野を睨みつけながら言った。


「ったく、本当に使えない役立たずだよ」


そう捨て台詞を吐き部屋を出ていった。皆の視線が小野の方へ向く。その時だけは絶え間なく続いていたキーボードを叩く音も止んでいた。しかし、一分も経たないうちにカタカタと音が鳴り始める。小野もすぐに我に返った。急いで席に戻り、作業を再開する。


再開といっても今日はほとんど仕事をしていない。とても集中できる状態ではなかったのだ。だが、今は違う、ひたすら手を動かし作業を続けた。この書類を終わらせなければいけないというのもあるが、それ以上に課長に先程言われた言葉が彼女を深く傷つけたことが原因だった。


そのせいでずっと頭の中を支配していたものが薄れ、代わりに怒りと悲しみが小野を覆い尽くしていた。必死にこらえようとしても涙は溢れてくる。こぼれる前に目をこすり周りの社員に見られないようにした。


 どれくらい経ったか、ようやく書類を完成させる。あとはコピーすればいいだけ…。完成させた資料をコピー機に送ろうとして動きが止まる。


「あれ…」


何枚コピーすればいいの?課長は何も言ってなかった。枚数が足りなければ怒られるだろうし、多すぎても紙の無駄使いだと言って怒られる。こんなに頑張ったのに怒られる…。手を固く握った。もういい…もういやだ…!


小野は枚数の項目を1に設定してコピー機に送った。当然一枚しか出てこない。それを取ると課長の机に乱暴に置き、そばにあったペン立てを上に乗せた。あとは自分でやって…。そしてパソコンの電源を切ると足早に部屋を出た。


階段を駆け下り自動ドアが完全に開く前に体を押し込み強引に外に出る。早く会社から離れたかった。いつもの半分の時間で駅に着くと、終電が来る五分前だった。今か今かと電車を待ち続ける。そうしているうちにあることが思い浮かんだ。


電車が来た時に線路に落ちれば…。足が自然と動き出す。一歩一歩進んでホームの縁を目指した。車輪の音が聞こえてきて電車がホームに近づいているのがわかる。ちょうど自分が落ちた時にホームに入るんだろうな…。


電車は急には止まれないから必然的に轢かれる、小野は目を閉じて進んだ。やっと死ねる…。車輪の音が大きくなってくる、少し急がないと電車の方が先に来るかも…。少しだけ早足にしようとしたその時、誰かが彼女の手を掴んだ。


「え…」


驚き目を開いて振り返ると誰もいなかった。周りを見ても皆小野からは離れた所に立っている。どういうこと…?呆然としているとアナウンスが鳴る。


「まもなく発車いたします」


我に返り慌てて飛び乗ると、すぐに背後で扉が閉まる音がした。崩れるように座席に座った。さっきのはいったい…。掴まれた方の手をじっと見つめながら考える。誰が止めたの、死のうと思ったのに…。目を閉じていたから周りの様子はわからなかったし、すぐに振り向いても誰もいなかった。


今朝も状況は違うが似たようなことがあった。あの時は外田だったが、さっきの駅にはいない。別の誰かが自分を止めた…。掴まれた時の感覚を思い出そうとする。突然だったのではっきりとは覚えていない。ただ一つ確信できることがあった。それは掴んだ手が小さいことだった。


自分よりもずっと小さくてまるで子供のようだったのだ。こんな遅くに子供が駅のホームにいるのかな…。とてもではないが考えられなかった。それなら、さっきのはなんだったの…?


考えても考えても納得のいく答えは出てこない、わかっているのは今回も死ねなかったという現実だった。本当に手を掴まれたのかな…。別の疑問が浮かぶ。疲れてすぎて錯覚したんじゃ…。


一度そう思うとそれ以外は浮かばなくなった。がっくりと項垂れる、やっと死ねると思ったのに錯覚に邪魔された…。さっきまでの驚きは消え、生きている苦しさだけになった。


「松境、松境です」


アナウンスが鳴る、動きたくないという気持ちになんとか打ち勝ち、ドアの前に移動した。はやく開いて…。これ以上この中にいると具合が悪くなりそうだった。電車がスピードを落とし始める、もうすぐ駅だ。流れる景色がゆっくりになっていくのを眺めながらドアが開くのを待った。


やがて窓の外が暗闇と、その中に浮かぶ建物の灯りからコンクリートで造られたホームに変わる。そしてさらに速度は落ち、静かに停車した。よろめきながら電車を降りる、いつもならそのまま改札に行ってしまうのだが今は違った。立ち止まり、自分が乗っていた電車を見つめている。自分が轢かれるはずだった電車を。






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