第5話

その日は九時まで残業し家に帰った。電車の中では眠り込んでしまい降りるはずの駅から三駅乗り過ごしてしまった。同じことを繰り返さないために、戻る時は立って乗り眠気を堪える。窓にうっすらと映った自分をじっと見つめた。どうしてこんなことになったんだろう…。入社の前にブラックだと気づくことができれば、あんなとこ入らなかったのに。どうしてわたしは一人で抱え込んで苦しんでいるんだろう…。目に涙が滲んで景色がぼやける。まぶたを閉じてこぼれないようにした。早く降りたい…。


「次は松境、松境です」


目的地の名前がアナウンスで告げられる。ドアの方に移動し開くのを待った。電車がホームに入り、少しずつスピードを落とし停車する。ドアが開くや否や逃げるように降りた。


急いで改札を通り、自宅であるアパートへと向かった。歩きながら涙が頬をつたう、幸いなことに誰ともすれ違わなかった。たとえ誰かがいても涙を拭うことはしなかったかもしれない。今の彼女には他人の目など、どうでもよかったのだ。立ち並ぶ住宅の中にアパートが見えてくると走り出し、自分の部屋に駆け込んだ。


手も洗わずに寝室に行き、布団を被る。布団の中で小野はすすり泣いた。


 次の日、会社に行くと予想していた通り課長から大量の書類を渡される。


「これもやっといて」


「…わかりました」


湧き上がる怒りを懸命におさえながら静かに受け取り、席に戻った。本当はこんな書類破り捨てたいのだ。しかし冷静な自分が決して許そうとしない、大人しく仕事をするように言うのだ。…弱いだけかもしれない。わたしには会社を辞めることも、書類を破り捨てることも、上司に罵声を浴びせることもできない。それを弱いからではなく、冷静な自分が止めている、そう思っているだけで実際には弱い自分を認めたくない言い訳なんじゃ…。


昼を告げるチャイムが鳴る、小野はカバンに手を伸ばし中から昼食のおにぎりを取り出した。今日は買い忘れるということは無く、ちゃんとコンビニに寄ったのだ。でも、迷いはした。買わずに食堂で外田さんと一緒に食べようか…。そう思い、コンビニを通り過ぎようとしたものの、それでも冷静な自分が働き結局は買ったのだ。やっぱり買わない方がよかったかな…。


おにぎりを食べながら物思いにふける。食堂に行けば外田さんと少し話すことができるし、息が詰まりそうなこの部屋からも短時間ではあるが離れることができる。そしてなにより彼女といると気が楽になるのだ。なぜかはわからない、気のせいかもしれない。だけど昨日は彼女と話した後、前向きになれたし…。


食べかけのおにぎりを見つめる。やっぱりいこうかな…。食欲は無いから何も食べられないけれど、話をするぐらいなら…。おにぎりを机に置き、立ち上がろうとするが動きが止まる。嫌なことを思い出したのだ。顔は動かさずに目だけを課長席に向ける。席は空いていた。


がっくりと席に戻り小さくため息をつく、なんでよ…。ここにいないということは恐らく食堂にいるのだろう、今自分が行けばまた外田さんと、どうでもいい話を聞かされる。小野は仕方なく食べかけのおにぎりを手に取り食事を再開した。味なんてわからない、ただ噛んで飲み込むそれの繰り返しだった。数分で食べ終わり小さくため息をつく、仕事をしないといけない…。昼休みなのになんでこんなにやらないといけないの、疲れてるのに…。書類を睨みつける、こんな物が無ければ…。


今朝の激しい怒りが再び湧き上がってきた。爪が手のひらに食い込むほど強く握り懸命に堪える。ずっと苦しんできたのに…。耐えてきたのに…。どうしてわたしは…。昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。我に返り周囲を見回す。見回したところで何があるわけではないが、誰かが自分を見ていないか、それだけが心配だった。…誰にも見られていないようだ。よかった…。


先程の怒りは薄れ、焦りと不安が心を覆っていた。誰にも知られたくないことを悟られるのではないかという不安だった。二十年間ずっと誰にも話すことなく過ごしてきた。そしてそのことを忘れようと部活や勉強に専念し続けた。しかし二十年前の記憶は決して消えることは無かった。そのため彼女は表情から喜怒哀楽を消し、会話も必要最低限しかしなくなった。自分の秘密を知られないために。


小野は小さく頭を振り、キーボードに手を乗せる。ばれるくらいなら、大人しく仕事をしていた方がいいのかな…。冷静な自分が働き、さっきとは逆の考えになっていた。明日には終わらせないといけない書類が半分も終わっていないことに意識を向け、ひたすら手を動かす。


あっという間に夕方になり退社時間を過ぎた。


「お疲れー」


課長の嫌味な声が聞こえドアが閉まる音がする。小野は気にすることなく手を動かし続けた。ひたすら仕事を続け終電までになんとか半分以上を終わらせる。手を止め深くため息をついた。もう帰らないと…。しかし疲れ切ってしまい体が動こうとしない。このまま会社に泊まろうかな…。そんなことが頭をよぎるが、すぐに考え直す。こんなところで寝るなんて絶対に嫌だ。気力でなんとか立ち上がる。よろめきながら部屋を出て会社を後にした。


急足で駅に向かい終電に乗り込む。ドア付近の席に座り、ようやく落ち着くことができた。あとは松境まで乗っていればいいだけ…。そう思っていたが、電車に揺られているうちに眠くなってくる。終電で居眠りなんかしたら帰れなくなる…。必死に目を開けようとするが、まぶたはどんどん重くなる。結局睡魔に勝てず寝てしまった。


 慌てて目を開くとそこは電車の中ではなかった。


「あれ…」


見回してみて建物の中だとわかる。部屋中カビやホコリだらけで、自分の座っているソファーのような物もボロボロだった。立ち上がり改めて部屋を見回し、気づく。


「ここって…」


そこは小野が自殺するために訪れた屋敷だった。なんで、電車に乗ってたはずなのに…。そう思った時、部屋の奥から物音が聞こえた。足音のようだ、少しずつ近づいてくる。薄暗い中音のする方に目を凝らしていると、やがて正体が現れた。


老婆だった、しかも手には包丁のような刃物を持っている。小野はその老婆に見覚えがあった。自分が屋敷を訪れたあの日に見た老婆だった。そしてなぜか尋常ではない恐怖を感じる。刃物を持っているからではない、老婆自体が刃物よりも恐ろしく思えた。


「こないで!」


とっさに叫ぶ、すると老婆はそれを待っていたかのように突然小野の方に走ってきた。扉の方へ逃げるがドアノブを引いても開かず、諦めて部屋中を逃げ回る。しばらくして小野は息があがってしまい、動きが鈍くなった。


「助けて!」


そう叫んでも誰も来ない。広い部屋の中を逃げて逃げて逃げ続ける。だがどんなに走り回っても老婆は追いかけてくる、老人とは思えない動きだった。そのうち小野の方が疲れて転んでしまう。老婆は倒れている彼女めがけて刃物を振り下ろした。


「きゃあああ!」


あまりの恐怖に悲鳴を上げ目を固く閉じた。


「きゃあああ…」


自分の悲鳴で目が覚める。心臓は速く鼓動を打ち、息も荒い。顔を上げて周囲を見るとそこは電車の中だった。終電に乗ったわずかな乗客たちは皆、スマホを見たり、本を読んだりと自分のことに夢中で彼女の方には目もくれない。さっきのは何だったの…。


帰り道、ずっとあの夢のことを考えていた。なんであんな夢を見たんだろう…。老婆の顔が頭に浮かび怖くなる。あの人は誰?自分を殺そうとしたけど、何か恨まれるようなことはしてないし、そもそもあの屋敷以外の場所で会ったことなんか…。


何を考えてるんだわたし…。屋敷のことはもう思い出したくもないはずなのに…。小野は突然走り出した。誰にもぶつけようのない感情を紛らわすかのように全力で走った。


あっという間に家に着いてしまい、自分の部屋に駆け込む。すっかり息が切れていた。ふらつきながらリビングに入り、力無く椅子に座った。息が整うのを待つ間も考えたくもないことが次々と浮かんでくる。涙が頬をつたってもそれを拭う気力すら残されていない。うなだれることしかできなかった。


息が切れているうえに泣いているせいでますます苦しくなる。しかし今の彼女は息よりも心が苦しかった。この悲しみよりも悲しいものは無いと思っていた。でも、どんなに悲しくてもしばらくすれば収まり涙も止まる、一時的に感情が高ぶっているだけ、そうとも思っていた。


実際、今までも同じことで泣くことはあったが、しばらくすれば冷静な自分に戻れたのだ。今回も十分ほどで涙が止まり息も落ち着いた。ゆっくり顔を上げて空中を見つめる。そうすれば頭の中を空っぽにできるのだ。


 しばらくして家の固定電話に留守電が入っていることに気づく。帰ってきた時は動揺していて気づかなかったのだ。なんとか立ち上がり留守電を聞く。母からだった。


「もしもし、お母さんだけど。最近連絡が無いから、心配で電話しました。仕事が忙しいと思うけど無理しちゃだめよ。時間がある時でいいから電話してください」


メッセージを聞き終えると小野は寝室に行きぐったりと横たわった。母が心配して電話をしてくれた、嬉しいのに喜ぶことができない。本当は弱音を吐いたり、甘えたりしたいのにできない。家族なのにできない。今までもできなかったし、これからも無理だろう。家族のはずなのに…。


目を閉じ何も見えないようにする、これ以上考えていたら収まったはずの感情が再び湧き上がりそうだった。

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