憎むべき男

 昼間の暑さも少しずつ和らぎ始めた、ある夜更け。

 アイラの長期休暇も、間もなく終わりだ。

「こんな時間まで勉強頑張ってるのか、アイラ」

「うん。もうすぐ学校だし、少し先まで予習しとこうかなと思って」

「えらいなー。俺の学生時代は、休み終わり直前は全然宿題終わってなくて寝られなかった感じだけどな」

「うわ、不真面目」

「いやそれが普通なんだって」

「普通に甘んじることが信じられない」

「もー秀才はこれだから。とりあえず、あんま夜更かしするなよ」

 アイラの部屋でそんな話をしていると、何やら窓が突然ガタガタと激しく振動し始めた。

「え……な、なんだこれ!?」

 急いでカーテンと窓を開け、二人で窓の外を見る。

 目の前に、信じられない光景があった。

 夜の闇に紛れ、巨大なドラゴンが部屋の窓の外で黒く艶やかな翼をぐわぐわと羽ばたかせているのだ。だが、不思議と羽ばたきの音はほとんどしない。まるでフクロウの飛翔のようだ。

 ドラゴンの背には、どうやら誰か乗っているようだ。黒い装束に身を包み、黒く大きなマントが翻っている。


 そこから、不意に声がした。

「貴様ら、イブキとアイラという者か」

 距離があるのに、耳元で聞こえるほどにはっきりと声が届く。


「えっ、そ、そうですが……?」

「貴様らに用がある」

「——……」

 驚きと恐怖で硬直した俺たちのベランダに、その男はふわりと舞い降りた。黒いマントがバサリと美しく翻る。

「入るぞ」

 そういうや否や、彼は壁をスルリとすり抜けて部屋へ侵入してくる。驚くほど背の高い、たくましい体躯の男だ。黒い仮面の下に隠れた顔は、よく確認できない。

 とりあえず、俺は必死に叫んだ。

「ちょ、ま、待ってください……こういう侵入の仕方は犯罪です!!」

「はは、犯罪か。面白い男だな。そういう概念を私はとうの昔に捨てておる」

「お、おい、あんた、誰だよ、何の用だ!? 名前を言え!!」

 アイラの鋭い問いかけに、彼は淡々と答えた。

「私は、クロディオス・ファン・ラウムウェルドだ」


「……クロディオス……」


 その名に、俺の思考が凍る。

 こいつは——『闇の王』だ。


「一つ、聞きたいことがある。

 私の部下におかしな薬を渡したのは、貴様らで間違いないな?」

「部下って……」

「栗色の髪の、綺麗な顔をした男だ」


「……リブラスさんのことか……?

 ——彼は、あなたの部下だったのか!?」

「そんな……彼の気配には、違和感も何も一切感じられなかったのに……」

「当然だ。あいつは最上級の魔術師だぞ。そう簡単に尻尾を出すと思うか?」

 にっと口元を引き上げると、クロディオスは俺の胸ぐらをぐいと掴み上げた。


「貴様。一般人の分際で、私を抹殺する気だったのか?」


「い、イブキ……!!」

「アイラ、大丈夫だから」

 恐怖に奥歯がガチガチと震える。だが、他人を抹殺しようなどと思ったことはこれまでに一度たりともない。それだけは目の前の男に伝えなければ。

「そんなことを企んだりはしません。

 私は、彼の相談に応えて、彼が秘書として仕えている『社長』の抱える鬱状態に何らかの対処ができればと思っただけです」

「『社長』……?」

「彼の話から推測すると、その『社長』は恐らく心の病になりかけています。睡眠も食事もまともに取れない状況だと、リブラスさんからお聞きしました。重度になればなるほど、その病は改善が難しくなります」


 俺の胸元を握る大きな手が、微かに震える。

 そして、男は小さく呟いた。

「——あいつの言った、その『社長』というのは……私のことだ。

 そして、あいつは、私の息子だ」


「……え……」 


「……本当なのか。

 心身に覆い被さるようなこの憂鬱や怠さは、難しい病だというのか……?」

「——そうです。看過できない心の病です」

「あいつに薬を処方したのは?」

「僕です」

「お前は、あいつに薬のことをどう説明したのだ」

「黄色い粉は食欲増進の薬、食前に一包ずつ。白の粉は睡眠薬で寝る前に一包。強い薬だから扱いに気をつけるようにと念を押しました」


 クロディオスは、俺を締め上げていた手を静かに解くと、ふっと嘲笑うように微笑んだ。


「……やはりな。

 お前たちのような無力な者たちが、私の抹殺など企むわけがない。

 つまり——あいつが私を裏切った、ということか」


「……」

「お前たちが良かれと思って処方した薬を使い、息子は私を陥れた。そういうことだ。

 あいつは、私の跡継ぎとして、一日も早く王の席に座りたがっている。父である私を、一日も早く追い落としたいのだ。

 10日ほど前、夕食に出されたスープを何口か飲んだ私は、突然激しい眩暈に襲われ、そのまま意識を失い倒れ込んだ。……専属医の話では、私はその後丸3日間眠り続けていたというのだ」

「……彼が、スープに大量の睡眠薬を……?」

「それ以外に考えられぬ。私の宮殿内に、既に彼の指示に従い秘密裏に動く者もいるということだろう。しかも、私が眠っている間に、あいつは私が病で倒れたという情報を闇の谷に広め、私の許可なく隣国の魔王と協力体制を結んだというのだ。お前たちの住むこの国を手中に収めるためにな」

「そ、そんな……!」

 アイラが苦しげな声を上げた。

「私に正面から挑んでも勝ち目はないと知っているあいつは、誰からも一切疑われる心配のない筋書きを思いついたのだ。父を案じ、お前たちの力を借りた矢先に父は病で倒れた、という巧妙な筋書きをな。我が子ながら狡猾で非情な男だ。

 森林地帯に潜んでいた怪物も、息子の指示で放たれたものだ。戦を仕掛ける前に、この国を震え上がらせるためにな。まるでネズミをいたぶる猫のように」


「……クロディオスさん。

 あなたは、この状況を、どうするおつもりなのですか?」


「……」  


「あなたの心が病みかけている原因は、あなたが本意ではない役割を背負っているからではないのですか……闇の王などという、忌まわしい役割を。

 もう、一刻の猶予もありません。この国の運命が、この国の一人ひとりの運命が、あなたにかかっているんです。

 あなたの不調に乗じて好き勝手に力を振るおうとする息子たちの処遇や、今後の闇の谷の運営を、あなたは一体どうするつもりなんだ!?」


 怒りを抑えきれない俺の糾弾に、クロディオスは低く呻く。

「——王位は、前任者と後任者の間の合意が結ばれた場合以外、継承できない仕組みだ。

 私が王位を任せると決めた者と、王位を引き継ぐ決意をした後任者が就任の儀式を執り行って初めて、王位と魔力が後任者に継承される。合意を得ていないものが王座を無理やり奪い取ることはできない。

 それでも……」


 じっと俯いていた顔を上げ、彼は静かに口を開いた。

「……お前たちは、人々の仕事の悩みを聞き、手助けする仕事をしているそうだな」

「はい、その通りです」

「ならば……ひとつ、聞きたい」

「なんなりと」


「私の言葉を、闇の王や何かではなく、単なる一個人の言葉として、聴いてもらうことはできるだろうか?」


「もちろんです。私達はプロのカウンセラーですから」

「——本当に、何を話してもいいか」

「ここでお聞きした話は、絶対他人に漏らしたりはいたしません。お約束いたします」

「本当だな?」

「ええ、神に誓って」


 彼は、顔面に張り付いた黒い仮面に指をかけ、静かに外した。

 端正に引き締まった、しかし眉間や口元には苦渋の皺の刻まれた男の顔が露わになった。


「——ならば、聞いて欲しい」


 思わず喉に詰まりそうになる声を、俺は力を込めて押し出した。

「どうぞ」 


「もお〜〜〜っ!! アタシ限界なのよはっきり言って今の仕事!!」


「………………は?」


「もうイヤなの!! これ以上は耐えられないの!!」

 聞き違いかと思うような打って変わってしなりのある声音こわねに、俺たちはそれこそ氷のようにガッチリと固まった。

「ほら、アタシっておしゃれが好きで可愛いものに目がないでしょ? だからマッチョなイケメンとかが兵士志願で面接に来ちゃうと『やだーもう最高じゃないっ!? 彼にはどんな衣装が似合うかしら、ええっとまず耳にはウサギのピアスつけて、やっぱトップスには肩の三角筋の盛り上がりをキュートにアピールするピンクのタンクトップがマストでしょ、それからそれから……』なんていう楽しい想像がスタートしちゃってるのに、どうしてそんなファッションプランニングを全部押し殺して、『お前は笑いながら敵を殺せるか?』とかいう意味わかんない質問しなきゃなんないの? それを、うちは代々魔王の家柄だからって理由だけで跡を継がされて、もう20年以上も我慢してるのよ。心だって病むってもんでしょ!? 

 敵か味方かなんて知らないわよ、悪巧みの計画や領土を広げることの一体どこがそんなに楽しいの? そんなもんどうでもいいからみんなで仲良くしたらいいじゃない? とにかく、毎日毎日誰かを殺す計画の企画立案なんてもーーまっぴらなのっ!!

 なのに、人前でこうやって涙を拭うことすら許されないんだから……アタシって不幸だと思わない!?」

 闇の王は懐からピンクのレースのついたしなやかなハンカチを取り出し、悔しげに目元をぐしぐしと拭った。


 心の中の激しいパニックモードを必死に押し隠し、俺は静かに答える。

「……お気持ち、お察しします。それは、お辛かったですね」

「そうよお……うう……

 でも、こんな私の姿を受け入れてくれる人がいるなんて、思ってなかったわ……あなたがそう言ってくれて、とっても嬉しい。なんだか胸のドロドロがふっと軽くなった気がする。……ありがとう、イブキ」

 潤んだ瞳で見つめられ、ここに入ってきた時とのギャップに一瞬萌えそうになるがそこはしっかり踏みとどまり、俺は次になすべき仕事を模索する。


 憎むべき、闇の王。

 けれど、彼の心もまた、深い闇の中にあったのだ。

 今の彼のために、何か、俺にできることは……


 その瞬間、俺の脳にビリビリと天啓のようなものが降りた。


「クロディオスさん。

 今あなたは、あなたの国をどんな国にしたいとお考えですか。

 今までのような、闇と呼ばれる国を継続する気ですか?」


「…………

 苦しかったわ。辛かった。数知れない人々の幸せを奪うのは。

 私は、あの国を闇から解放したい。闇を目論む者を蔓延らせるのは、もう嫌」


「ならば……

 もしも、あなたの国をあなたの望む明るい方向へ動かせる能力を持つものがいた場合、あなたは今の仕事を、息子さんではなく、その後任者に引き継ぐ意思はおありですか?」


「……」


「そうすれば、あなたはもう自由です。自由に好きな仕事を選び、好きなだけファッションやメイクに関わりながら生きることも可能です。心の病も回復するでしょう」


 しばらく深く俯いて考えていたクロディオスは、やがて力強く顔を上げて真っ直ぐに俺を見た。

「……そうしたいわ。

 私の思う国に変えてくれる力を持つ人がいるならば、喜んで席を譲る。

 闇の歴史なんて、もう継承しなくていい。誰が何と言おうとね」


 俺は、真摯な彼の眼差しを見つめ返し、深く頷いた。

「わかりました。

 では、この用紙にあなたの氏名・ご連絡先と、後任者に求める資質や技能などについて、詳細に記載していただけますでしょうか?」


 彼女——もとい闇の王は、長い時間をかけて必要事項を几帳面に記入し終えると、静かに用紙を差し出した。

「お願いね、イブキ」

 そう言うと、彼はしとやかに一礼し、雲間から光の差し込むような笑顔で微笑んだ。

 もちろん、窓からベランダに一踏み出した彼は、威厳に満ち溢れた堂々たる王にスイッチを切り替えてマントをバサリと翻し、空から迎えに来たドラゴンにひらりと飛び乗ったのだが。


 音もなく闇に消えていくドラゴンの背を、俺たちはただ黙って見送った。


「イブキ、一体何を考えてるの……?」

「我ながら、ヤバいことだ」

 どこか恐ろしげに問いかけるアイラに、俺は自分でも震えがくる感情を抑えつつそう答えた。


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