不穏な気配
カフェでの接客やカウンセリングの合間に、シェリの適性や希望に合う求人のことを考えながら、一週間ほどが過ぎた夜。
いつものように俺とアイラがガルダの宿の食堂へ行くと、そこではいつになく激しい会話が飛び交い、ざわざわと落ち着かない空気が充満していた。
「ミラさん、こんばんは。何かあったんですか?」
テーブルへオーダーを取りにきたミラに尋ねると、彼女は青ざめた顔で教えてくれた。
「さっき宿に着いたお客の話なんだけどね、この国の国境付近の森林地帯で、10日ほど前に得体の知れない怪物に襲われた人たちがいるって話なんだよ。
なんでも7人ほどの若者のグループでアカタケを取りに入ったらしいんだが、森の奥からどでかい怪物が何匹も現れて、突然襲いかかってきたって……生き残って帰ってこられたのは1人だけだったそうだよ。
どう考えても、『闇の谷』の怪物としか思えないって、みんな震え上がってる。また奴らがこの国に攻め入ってくる前触れじゃないかってね」
横にいたアイラの表情が、一瞬硬く青ざめた。
その肩を軽く抱き寄せながら、俺はミラに問う。
「……2年前にあったような戦争が、また起こるかもしれない、ということですか?」
「もうずっと昔から、こういうことの繰り返しだ。一方的な侵略なんだよ、毎回ね。あたしたちは国があいつらの闇に飲み込まれないように、なんとかしてそれを防がなきゃならない。上級の魔術師たちや鍛えられた軍隊が作る障壁の強靭さはあたしたちの誇りだが、その壁がいつ突き破られるとも限らないからね……そうなったら、壁の内側のあたしらなんて、ひとたまりもない……」
ミラは、不安そうに額を掌で押さえたが、すぐにぱっと顔を上げ、いつもの威勢のいい声に戻って言った。
「ああ、こんな顔してちゃダメだね。気持ちで負けちまったらおしまいだ。あんたたちもたっぷり食べて飲んで、勢いつけとくれ! 今日は新鮮なサーバルの肉がおすすめだよ。軽く炙って食べると最高だ。質のいいベルリ酒も入ったよ」
「あ、じゃあサーバルを2人分お願いします。あと、ベルリ酒のジョッキも一つ」
「はいよ! アイラちゃんには搾りたてのベルリのジュースをサービスするからね!」
「うわ、やった! ありがとうミラさん!」
アイラも、こんな空気に呑み込まれたくないのかもしれない。いつになく明るい声をあげて微笑んだ。
「……なあ、アイラ。『闇の谷』を動かしている親玉ってのは、いったい誰なんだ?」
「闇の王。クロディオス……なんとか、っていうらしい。その後にいろいろまだ名前っぽいのがくっつくみたいだけど、みんなクロディオスって言ってる。——闇の王の顔なんて、誰も見たことはないんだろうと思うけど」
「……まあ、そうだろうな」
他国に攻め入り、人々の生活を踏み躙り、社会を闇に取り込み、その汚れた領土を広げようとする輩。自由に魔術を操る魔法使いやさまざまな妖精などが普通に存在し、一緒に暮らす世界だ。どんな思考を持った奴らがどこで徒党を組んでも全くおかしくはない。
——この苦しい状況を、いったいどうしたらいいのだろう。
「……大丈夫だよ。イブキは僕が守るから」
「——え?」
思ってもいなかったそんな呟きに、俺は顔を上げてアイラを見た。
「僕、魔法学校の勉強、本気で頑張ってるよ。筆記試験も実技試験も、毎回学年で3位以内には入ってる。長期休暇明けたら、友達より先に一つ上のクラスに進級予定なんだ」
「ほんとか?……それはすごいな!」
「だから、まだ戦争の最前線で結界張ったりはできなくても、イブキひとりを守るくらいならできる。
イブキにはカウンセリングの技はあっても、戦うスキルはゼロだからな」
何となく素っ気なく横を向いて、アイラはそんなことを言う。
「……そうか。
君が守ってくれるなら、安心だ。
ありがとな、アイラ」
テーブルに届いた酒のジョッキとベルリのジュースのグラスをかちりと小さくぶつけ、俺たちは不安を追い払うように小さく笑い合った。
*
その数日後、暑さのきびしい2ルカの午後。
この暑さで、ここ数日は昼間に外を出歩く人もまばらだ。夕方の涼しい時間になると急にお客が増え出すのだが、正午前後の数時間は来客もなく、店はしんと静かだ。
そんな昼下がり、昼食を終えた俺とアイラはカウンセリングについてのミニ授業を行なっていた。アイラはやはり大変頭が良く、記憶力も理解力も抜群だ。教えることをどんどん吸収していく。
「君は、この相談所の優秀な後継ぎになってくれそうだな」
「え、後継ぎとかジジ臭いこと言わないでよ。イブキはまだまだここの所長としてやらなきゃならないことたくさんあるだろ」
「はは、辛辣!」
カウンターに向き合って座り、授業の合間に笑い合いながらソーダ水を飲んでいると、ドアの外のベルが鳴った。
席を立ち、ドアを開けると、そこにはすらりと長身の男が柔らかな微笑を浮かべて立っていた。
「ここが、今噂の『仕事の悩み相談所』ですね?」
キリッと上等な事務服に、艶のある栗色の髪。凛々しい顔立ちの男は俺たちに向けて丁寧に礼をした。
「初めまして。私はリブラス・ロアールという者です。本日は仕事に関する相談を希望してこちらへ参りました。よろしくお願いします」
「リブラスさんですね。ここが噂なのかどうかはわかりませんが、ようこそいらっしゃいました。私は店主の森園伊吹といいます。イブキと呼んでください。どうぞよろしく」
「イブキの助手のアイラです」
俺たちも彼へ向けてにこやかに挨拶を返す。
「では、こちらの席へどうぞ」
授業中の書類をアイラが手早く片付け、俺は来談者の定席であるカウンターの奥の席へ彼を案内した。
「まずは必要書類へのご記入をお願いします」
キャリアシートの項目を見ながら、リブラスが少し困ったように言う。
「今日の相談は、この書類がお役に立つ内容かどうか、ちょっと不安なのですが……」
「と言いますと?」
「なんというか、私自身の悩みというより、私の上司に関する相談なのです。
私は現在ある会社の社長秘書をしておりますが、ここしばらく、社長の体調が思わしくないようで……最近は、常に憂鬱そうに無表情で、顔色も悪く、判断を仰いでも的確な回答が返ってこないのです」
「……なるほど」
「病院もいくつか受診しました。けれど、どの病院でも異常は見つからず、健康だという結果が出ます。
身体的な病でないならば、日々の仕事による疲労の影響ではと考え、休養を強く勧めるのですが……彼は頑として私の言葉を受け付けてくれません。どうしたらいいのかと悩みまして……」
「——そうですか……社長さんのご年齢は?」
「現在55歳です。大変有能な方なのですが、少しナイーブなところがあって、悩みを抱えやすいというか……」
少し厄介なケースだ。
この情報だけではなんとも言えないが、その社長は、もしかするとうつ病を発症しかけている可能性がある。であれば、少しでも早く何らかの対処をするべきだ。
「リブラスさん。この国には、心の病気を治療できる病院は、ないのでしょうか?」
「——心の病気? そのようなものがあるのですか?」
驚いたように目を見張る彼の表情から、精神科や心療内科的な病院はこの国には存在しないことがわかる。
どうしたらいいだろう?
「……とりあえずは、その社長さんには、何よりまず休暇を取得していただき、日々の仕事から一旦距離を置いていただくべきかと思います。常にストレスのかかり続ける状況下にある限り、彼の心の不調は改善しません」
「そうですよね……どうやら、彼は最近食事や睡眠もしっかり取れていないようで、本当に心配で……」
「うーん……まずいですね。このままでは……」
「——イブキ。僕、睡眠薬と食欲増進の薬、作れるよ。
心を落ち着ける香草も知ってる」
俺の隣でじっと話を聞いていたアイラが、少し緊張した面持ちで口を開いた。
「……え……?」
「薬草を調合して、魔法を使えばいけると思う。……ただ、薬の調合には少なくとも3〜4時間かかるけど」
「まじか!!?」
俺は、思わずカウンターの椅子からガタリと立ち上がって頼もしい助手の手を取った。
「それはすごいぞ、アイラ!! 是非とも調合頼む!!」
「ちょ、お客さんいるから」
困ったような照れ顔になるアイラの様子に、俺ははっと彼の手を離して自分の椅子に座り直す。こういう時に店主がはしゃいでどうする!
自分のハイテンションに内心思い切り恥じ入りつつ、再びリブラスに向き合った。
「……ということで、リブラスさん。少しお時間をいただければ、社長さんの不調を多少和らげるお薬をお渡しできそうです。今夜にでも、またここへ薬を取りにいらっしゃれますか?」
リブラスは、端整な顔をパッと明るく綻ばせた。
「ありがとうございます! はい、もちろん受け取りにお伺いします。いや、これは驚きました。このような具体的なアドバイスやお薬まで、ここでいただけるとは思ってもいませんでしたので……」
「こちらこそ、お役に立てれば嬉しいです。
そして、もし可能ならば、一度その社長さんにも直接ここへお越しいただけると良いのですが……いろいろお話もお伺いしたいですし」
「いいえ、それは無理です」
リブラスは、柔らかい微笑を作りながらもきっぱりとそう答えた。
*
その夜。
再び相談所を訪れたリブラスに、アイラは三種類の粉を渡した。
「この黄色い粉が、食欲増進の薬です。毎食1時間前に一包ずつ飲んでください。そして、この白色の粉が、睡眠薬。この薬はかなり効き目が強いので、毎晩就寝前に一包という分量を誤らないよう、くれぐれもご注意ください。それぞれ30日分ずつお渡しします。あと、この緑の粉は気分の安らぐ香草の粉です。熱いお湯に溶かして飲んでみてください」
「なんと……これは、本当に助かります。心から感謝いたします!
あの、お代は本当に必要ないのですか?」
「ええ、この薬はまだ正式な商品として取り扱っているわけではありませんので、お代は結構です」
アイラが頷き、俺は微笑んでそう答える。
今後は、心の不調の強い来談者には、アイラの力を借りてそれぞれの症状に合う薬を処方するのも、恐らく非常に有効な方法だろう。
「ああ、こんなに幸運なことがあるでしょうか……何度お礼を申し上げても足りません。ありがとうございます!」
リブラスは、その艶やかな髪が額に大きく乱れ落ちるほどに、俺たちに向かって深々と頭を下げた。
「——うまくいくといいな」
「うん、そうだね」
繰り返し礼をしながら夜道を帰っていくリブラスを、俺たちは祈るような思いで見送った。
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