初めての来談者
始めての来客を迎えた日から、約ひと月が経った。
相談所を訪れる人は、ぽつぽつとだが少しずつ増えつつある。相談をしなくてもカフェのように立ち寄れ、
アイラは毎晩翌日分のソーダをたっぷり仕込んでおいてくれる。お客さんに喜んでもらえるのが最高に嬉しい、と言って明るく笑う彼の顔を見るのは、俺にとっても大きな幸せだ。
しかし、仕事に関する相談の申し込みはまだ一件もない。内容が内容だけに、店の外で派手に呼び込んだり、広告を無差別に撒き散らすようなこともできない。
俺がこの国で果たすべき役割は、仕事に悩みを抱える人のカウンセリングのはずだ。肝心のメイン業務がまだ動き出せていないことに、俺は微かな不安を感じ始めていた。
そんなある日、8ルカの閉店少し前。二組ほどいたお客も次々に帰り、今日の仕事もこれで最後だろう。
「あ、ソーダ水用のユリカの葉の在庫が少なくなってきた。森行ってくるね」
調理場の戸棚を開けてドリンクの材料の在庫をチェックしていたアイラが、俺に声をかけた。
「おお、暗いから気をつけてな」
「最近お客増えたし、ちょっと多めに摘んどかないとすぐなくなっちゃうなー。行ってきます!」
アイラは嬉しそうにそう呟きながら革製のリュックを肩にかけ、調理場の奥のスタッフ用出入口から森へ出かけて行った。
一人になった洗い場でグラスやカップを洗っていると、外のベルが鳴った。
ドアを開けると、そこには事務職員風のかっちりした仕事着を着た男性が立っていた。年周りは、見た感じ30代後半といったところだろうか。
「いらっしゃいませ」
「……あの……ここで仕事についての相談ができると、お伺いしたのですが……」
男性は、仕事カバンを持つ手にぐっと力を込め、意を決したように顔を上げて俺を見つめた。
「あ——はい、仕事に関するご相談、承っております」
まさに待ちわびた相談希望の来所者に、俺はバクバクと走り出す心臓を鎮めながら答えた。
「あ、私、シリル・オルケスという者です。よろしくお願いします」
「シリルさんですね。私は、森園伊吹といいます。イブキと呼んでください。どうぞよろしく」
「……妻から、ここの相談所の話をひと月ほど前に聞きました。娘達が大きな声でお喋りをしても優しく笑ってくれる温かい店主さんだと、妻がそう教えてくれて。
今日は思い切って、会社の終業のベルと同時に仕事を切り上げてここへ来ました」
緊張気味に、それでも礼儀正しい言葉と立ち居振る舞いで話す様子から、彼の真面目で誠実そうな空気が伝わってくる。
そして、この話からすると……もしかしたら、この男性はレナちゃんのお父さんだろうか?
けれど、その辺を深掘りするのはプライバシー保護の観点からNGだ。俺はその話を微笑みながら受け止める。
「そうでしたか。この相談所では、仕事に関するどのようなご相談でもお伺いいたします。また、ここでお聞きしたお話は一切他言はいたしませんので、どうぞご安心ください。
では、まず記入していただくものがありますので、こちらへどうぞ」
俺は、彼をカウンターの一番奥の席へ案内した。ペンと一緒に渡した用紙は、元の世界でいうキャリアシートのようなものだ。氏名や住所の他に、これまで経験した仕事や取得した資格などについて記載する欄を作ってある。
記入を待つ間、新しいカルナをじっくりと淹れ、カップにたっぷりと注いだ。硬い表情で用紙を記入していたシリルは、傍らに置かれたカルナの香ばしい匂いにふと表情を和らげた。
「これ、いただいていいんですか?」
「ええ。ご相談にいらっしゃった方にはサービスでお出しすることになってます」
「——ああ、これは美味しいですね……カルナって、上手に淹れるとこんなに深い味がするんですね」
そうして一つ息を吸い込み、彼は再びペンを動かし始めた。
カルナは来談者の気分を解すのにも大きく役立ってくれそうだ。
「記入終わりました。よろしくお願いします」
カウンター越しに彼と向き合って座り、俺は記入の済んだその用紙を受け取る。
「ありがとうございます。
では拝見しますね。——大きな会社にお勤めなんですね。現在、企画チームのリーダーを担当されているんですか」
「ええ。おかげさまで失職の不安もなく、安定した収入をいただいています。
けれど、その……最近、自分の仕事量がどんどん増えていっている気がして……」
「……自分の仕事が増えている、というのは、任される仕事が多くなってきている、ということでしょうか?」
「いえ、そうではなく……押し付けられているような、そんな気がするんです」
「押し付けられる……それは、周囲の同僚などからでしょうか?」
「はい。私はチームのリーダーですし、チーム内のメンバーがこなしきれない厄介な仕事は私がカバーするのは当然だということは理解しています。ただ、少し面倒になったら私に依頼さえすれば仕事が済むと思っているメンバーも少なからずいる気がするのです……実際、最近は面倒な仕事は私がやるのが当然というような空気になっていて、毎晩遅くまで誰もいない部屋でひとりで仕事をしている日がほとんどです。
私がそれらの仕事を黙って引き受けてしまうこともいけないのかな、と、時々思うのです。けれど、できない者にいつまでも任せるより自分が片付ければ早い、とつい考えてしまって……
リーダーなのだから、目の前にある仕事はきちんとこなさければならない。期限も守らなければならない。そんな感覚に追い回され、深夜に冷や汗をかいて飛び起きることもあります。
けれど、こんな話、上司にも相談しにくくて……このままずっとこの状態が続くのかと思うと、だんだん精神的に追い詰められてしまって……」
シリルは、青黒い色に窪んだ目の下を隠すように、両方の掌で顔を覆った。
「……なるほど……それはお辛いですね……」
聞き取った内容をカウンセリングシートに記し、俺はしばらく彼の思いに深く寄り添う。
誰にも相談できないまま、ギリギリまで仕事に追い詰められている彼に、今必要な言葉は——。
「——それはおそらく、あなたが仕事をしっかりこなす有能なリーダーだからこそ起こっている問題とも言えるかもしれませんね。
この人に任せれば大丈夫、というメンバーの思いが過剰になり、あなたへの甘えになってしまっているのですね」
俺の言葉に、彼は力なく頷く。
「頼られていると思うと、一番言いたい本音がどうしても言えないんです。『面倒な仕事を全部私に持ってくるな』という一言が。
そんなことを言って、メンバーとの信頼関係が壊れたりしたら……私は、リーダー失格です」
「そのお気持ち、よくわかります」
俺はしばらく考え、一つの案を提示した。
「——では、そこのところを、逆にこんなふうに考えるのは、どうでしょう?
その仕事を自分が引き受けてしまうと、それは同時に相手の成長のチャンスを奪うことにもなるのだ、と」
「……相手の成長の、チャンスを奪う……?」
「そうです。
難しい仕事を簡単に引き受けずギリギリまで自力で進めさせることは、メンバーは苦しむし、時間もかかるかもしれません。けれど、それはそのまま各メンバーの貴重な経験値になりますよね。
それを、苦労させることなくリーダーが済ませてしまえば、そのチームにいる間、メンバーの経験値はほとんど向上しないことになるでしょう。
つまり、相手に難しい仕事を任せないことは、相手にとっても大きなデメリットになるのだと、そう捉えてみては?」
「……相手にとっても、デメリット……」
「ええ。
——それに気づけば、『君の任された仕事には、君自身がギリギリまで向き合うべきだ』と、メンバーへ向けてそうアドバイスできそうな気がしませんか?」
俺の言葉をじっと聞いていたシリルの目に、明るい光が見え始めた。
「なるほど……なるほど、その通りです! 私は、メンバーにそう言わなければならない立場なのですね!」
「そうですよ。メンバーを育てるのも、あなたの大事な仕事です。どうか、それを忘れないでください。
できるだけ早めにメンバー全員を集めてミーティングを行い、きっぱりとリーダーとしての方向性を伝えるのも一つの方法かもしれませんね」
「ミーティング……」
「ええ。あなたはリーダーに選ばれる能力を持った方なのですから、あなたの意向や方針はメンバーにしっかり浸透させるべきです。メンバーに振り回されるのではなく、あなたがメンバーを動かすんです。自信を持って、胸を張っていいんです。あなたならできますよ、必ず」
「——……」
膝に握った拳を震わせながら、シリルは静かに天井を仰いだ。
そして、すうっと大きく、深く息を吸い込んだ。
「ああ、なんというか……目の前に立ち塞がっていた巨大な壁が、やっと大きく開けた感じがします……こんなふうに深く深呼吸できたのは、本当に久しぶりです……」
「それは良かった。少しでもお役に立てたなら、嬉しいです」
さっきとは違う生き生きと力強い視線をまっすぐ俺に向け、シリルはどこか泣きそうな顔で微笑んだ。
「イブキさん、ありがとうございます。どんなに感謝をお伝えしても足りません……まさに神の言葉を聞いたかのように、心が救われました。
これからまた、前向きに仕事を続けられそうです」
——ああ。この言葉が聞けるから、俺はこの仕事をしてるんだ。
改めてその深い喜びを噛み締めながら、俺はありったけの思いを込めて彼にエールを送る。
「頑張ってください。心から、応援しています」
「はい、ありがとうございます!
あの、では今日の相談のお代を……どれだけでもお支払いしたい気持ちですが……」
「あ、いえ。相談は無料です」
「え!!???」
俺の言葉に、彼はそれこそ信じられないというように視線を宙に彷徨わせた。
何度も感謝を述べながら帰っていくシリルを見送り、洗い物を片付けようと振り向くと、そこにはアイラが真剣な顔で立っていた。
「おお、アイラ、お帰り。ユリカの葉たくさん摘めたか?」
「——今のイブキの仕事相談、調理場のドアに耳当ててずっと聞いてた。
森から帰ってきたら、イブキとお客が真剣な声で話してるのが聞こえたから」
「あ、聞いてたのか? アイラ、今の話の内容は他人に漏らしたりしたら絶対にダメだぞ。ここの仕事は、来談者の秘密を守ることが何より重要だからな」
「うん、わかった。
今のが、イブキの言ってた『カウンセリング』っていう技なの?」
「ああ、そうだな」
「すごい……本当にすごかった……。まるで、言葉の魔術みたいだった……!
ねえ、イブキ。僕にも『カウンセリング』の技を、教えてくれない?」
キラキラと目を輝かせてそんなことを言うアイラを、俺は驚いて見つめた。
「アイラも、こういう仕事、してみたいのか?」
「うん。苦しい思いをしている人の話を聞いて、あんな風に助けられる技術があるなら、僕も使えるようになりたい!」
アイラの眼差しからは、強い意欲が伝わってくる。どうやら遊び半分の言葉ではないようだ。
俺も、その気持ちを本気で受け止めなければ。
「よし、わかった。
ならばこれからは、君にカウンセリングについての知識も少しずつ教えていくことにしよう。
知識が身についてきたら、カフェ部分の仕事だけじゃなく、相談関係の仕事についても任せようと思うから、どんどん手伝ってくれ。君が一緒にやってくれたら、こんなに心強いことはないよ」
「うん!! やった!!!」
喜びがこぼれ出しそうなアイラの笑顔を見つめながら、俺の胸にも抑えがたい充実感が溢れた。
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