想定外の来客
そこには、あの女神——フローラが、眩いばかりの微笑で立っていた。
「こんにちは……まだ『おはよう』の時間かしら?」
小さく首を傾げてそう呟くなり、彼女はドアの中へするりと優雅に身を滑らせた。入り口のドアが勝手にパタンと静かに閉じる。
いろいろな状況に驚きつつ、俺はとりあえず彼女に問いかけた。
「え、っと……。ほ、本当に来たのか……?」
「何よその言い方。来てあげたんじゃないの、こんな辺鄙なところまで」
美しい微笑が一気にむすっと不機嫌そうに変化した。
「ってか、あんたこの国中の人から崇め奉られる存在なんだろ? こんなところにひょこひょこ来て大丈夫なのか」
「もちろん周囲からは私の姿は見えないようにしてあるわよ。普通に道を歩いてたら大騒ぎになるに決まってるじゃないの。あ、私にもカルナいただける?」
彼女は白いドレスの裾を雑に抱えながらカウンターのスツールにすとんと腰掛け、当然のようにカルナをオーダーする。
「言っとくけど、カフェを開店したわけじゃないからな」
「知ってるわよ、そんなこと。外の看板も見たしね」
どこか気怠げに頬杖をつく彼女の仕草に、一瞬どきっとさせられなくもないが……そういう邪念を追い払い、相変わらず俺の前では女神らしからぬ図々しい様子でいるその女に、俺は言われるまま熱いカルナを差し出した。
受け取ったカップを手にしながら、彼女は静かなカフェの中を見回す。
「ふうん……オープンはしたけど開店休業って感じ?」
「まだ始めたばかりだしな」
「あなたの顔つき見ると、それほど余裕があるようには見えないけど」
ふうっとカップの湯気を吹く彼女の横顔を、俺はじっと見つめた。
「その視線、この国に無理やりあなたを連れてきた私への恨みかしら。それとも見惚れちゃってるとか」
「どっちでもない。——ただ、質問がある」
「質問?」
「この国では、魔術師やエルフ、兵士などは早くから将来の仕事を固定されてしまう縛りがあるようだな。その仕事について不服を言ったり、自分の能力とは別の職業を選択したりした場合は、国や何かから罰せられる場合があるのか?」
「そういう定めが特にあるわけじゃないわ」
そう答え、彼女は浅く微笑んだ。
「——でも、実際にそういう行動を起こした場合、トラブルになることはとても多いわね。
この国の人達は、深く話し合うことが不得手なの。互いの立場や気持ちを理解し合うよりも、自分たちの利益を優先することが当然だと思ってる」
「話し合うことが不得手……」
「そう。
相手の苦しみや痛みを理解する力って、最初から誰でも持っている訳ではないわ。相当ハイレベルな技術を必要とするのよ。そもそも話を聞く
あなたが元いた豊かな世界とは違うのよね、この国は。誰もが自分自身の日々の暮らしでいっぱいいっぱい。自分の利益を確保できなければ、生き残れない。ここはまだ、そういう世界なのよ」
「……なるほどな……」
「だから、弱い立場にいて揉めるのが怖い人は黙って従うしかないし、自己主張が強くて強引な方ばかりが一方的に得をする。その間を取り持つなんてつまらない役割を買って出る人は、誰もいないの」
「……」
「私があなたをこの世界に招いた理由、少しわかっていただけたかしら?」
「ああ。
俺が今やろうとしていることが、間違っていないということもな」
カルナを一口口に運び、フローラは俺をまっすぐに見つめた。
「楽しみにしてるわ。あなたが何をやってくれるか」
「……あんまり期待されるとプレッシャーになる」
「うふふ、そういうタイプじゃないわよね、あなたは。他人の働きかけに動揺したりしない。違う?」
「——どうだかな」
「それにしてもこのカルナ、とても美味しいわ。今まで飲んだ中で一番香ばしくて、味わいが深い。淹れるのが上手いのね。
また来るわ、気が向いたら」
「ああ。……今日は、ありがとう。来てくれて」
俺の一言に、彼女は一瞬頬を薔薇色に染めた——ように見えたが、気のせいだろうな、多分。
彼女は美しい金の髪を靡かせて、音もなくドアから出て行った。
*
魔法学校から帰宅したアイラは、リュックを2階の自室へ置くと直ぐに降りてきて、何やら慌ただしく外に出ていった。
しばらくして戻ってきた彼は、カウンターの奥の食器棚からグラスを取り出すとテーブルに置き、手にしていた木の葉を一枚その中に入れた。森の脇の小さなせせらぎからコーヒー用に汲んでおいた水をグラスに注ぐと、その上に華奢な両手の指を翳して目を閉じた。
「アイラ、何を……」
「静かに」
彼の鋭い声に、俺も思わず気持ちを引き締めて事の次第を見守る。
しばらく眉間を寄せて口の中で小さく何かを唱えていたアイラは、ぱっとその青い瞳を見開いた。
それと同時に、彼の掌からぶわっと白い煙が放たれ、グラスの中が一瞬真っ白に曇った。
「……」
驚きで唖然としている俺に、アイラは煙の消えたグラスを掲げて見せる。
その中には、美しいライトグリーンの液体が細かな気泡を立てながらキラキラと揺れていた。
「わ……これは驚いた……すごく綺麗だ。ライム色のソーダ水というか……」
「あとは、味だ」
彼はグラスの中の香りを確認し、その液体を口に含む。
「…………よし! 大成功!」
「え!?」
「イブキも飲んでみて」
一口口にした瞬間、思わず俺は唸った。
それは、生まれたての森の風が喉を吹き抜けるような、何とも爽やかな味わいだった。何に近いかと言えば……グレープフルーツとレモンとミントのミックス、といった感じだろうか?
「アイラ、めちゃくちゃ美味いよ! どうしたんだこれ!?」
「昔、お母さんに教わったんだ。ユリカっていう木の葉から秘密のジュース作る魔法。教わりながら、いつも一緒に飲んだ。
これ作るとお母さんを思い出して泣きたくなるから、もう二度と作らないことにしようって決めてたんだけど……
イブキ、これ、ここで出すことにしない? 相談に来たお客さんに。近くの森に、ユリカの木たくさんあるし」
アイラの満面の笑みに、俺は思わず言葉を詰まらせた。
「……」
「外にお知らせのボード出すんだ。秘密のソーダ水あります、って。仕事の相談じゃなくても、ソーダ水だけ飲みに来てもいいことにすれば、ここに来る人絶対増えるよ!
なんだか入りにくいこの雰囲気をなんとかしないと、いつまで経っても誰も来ないよきっと。僕だってお客の立場だったら、相談所なんて難しそうな場所には怖くて入れないもん。
気軽に入れる場所だってわかってもらわなきゃ、いくらいい相談でもスタートできないんじゃないかって、今日ずっと考えてて思ったんだ」
「……アイラ。
俺の仕事のために、ずっとそんなこと考えてくれてたのか……」
俺の呟きに、アイラは困ったように小さく俯いた。
「……だって……
イブキの仕事がもしもうまくいかなくて、イブキと一緒にいられなくなったりしたら、そんなの……
お母さんが、あのソーダ水を使いなさい、頑張りなさいって、言ってる気がして……」
アイラの瞳が、にわかに大きく潤んだ。
俺は、思わず彼の肩を両腕できつく抱き締めた。
「……ありがとう、アイラ。
うん、そうしよう。最高に美味い秘密のソーダ水、ここでお客さんに出してみよう」
「あ、ジュースは有料だから。相談は無料でもね」
グズっと鼻を啜り上げながら、アイラがしっかりとそんなことを言う。
「ははは、わかったよ。君はずっとお金稼ぎたくてキツい思いしたもんな。ソーダ水で上がった利益は全部君のものだ」
胸元に抱き寄せた柔らかな髪を、俺はくしゅくしゅと思い切り掻き回した。
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