多難

 この国にやってきてから、約ひと月が経った。

 この国では基本的に平日が8日間、休日が2日間、という10日間サイクルで暮らしが回っている。元の世界の月、火、などという呼び名の代わりに、「1ルカ」、「2ルカ」と数を振ってカウントする。「1ルカ」から「8ルカ」までは労働日、「9ルカ」と「10ルカ」は休日だ。次の10日が始まるとまた「1ルカ」へ戻る。

 この10日サイクルが3周を終えると暦のページがめくられ、次の月がやってくる。元の世界のひと月の日数と概ね同じだ。しかし、1年が10か月である点は元の世界とは異なり、つまりゴールドカードの有効期限もその分短い。

 ちなみに1日の時間の刻みは元の世界と同じ24時間だ。地上を照らす太陽の動き方もそう変わらない。フローラの話ではこの世界は前の世界とは異次元だというが、これらの法則を見ているとそれほどかけ離れた場所にいるわけではないのかもしれない。可能性としてパラレルユニバースとか。


 俺とアイラは、街から少し離れた静かな通りにあるカフェのカウンターで、シンプルな朝食をとっていた。朝の日差しが穏やかに窓から差し込み、目の前の熱いカルナが香ばしい湯気を立てて俺の目を覚ましてくれる。

 カルナというのは、元の世界でいうコーヒーのような飲み物だ。この国ではカルナという木にコーヒーとよく似た実が実り、それを元の世界とほぼ同様の工程で焙煎し、粉に挽く。飲む時はその粉に湯を注いで淹れる。日々コーヒーが手放せない暮らしをしてきた俺には、こっちの世界にも偶然よく似た飲み物が存在することはまさに天の救いだ。コーヒーよりフルーティな香りの黒い液体は、疲れた脳や心を深く癒してくれる。

 俺の隣の椅子に座るアイラは、そのカルナに甘いシロップをたっぷり加えながら、軽く温めたパニを頬張った。パニとは元の世界でいうパンのような食べ物だ。穀物の粉から作られるこの国の主食で、口当たりも味わいもパンとよく似ている。


 このカフェ——いや元カフェは、俺とアイラの新しい住まいだ。

 半月ほど前、俺はこの物件を居抜きの状態で元の持ち主から買い上げた。

 ここはガルダの知り合いの老夫婦が最近までやっていたカフェだったが、年齢的にも店の継続が難しくなり、隣国にいる息子夫婦と一緒に暮らすことにしたそうだ。あの女神によってこの国に放り出されてから10日ほどガルダの宿に連泊させてもらっていた俺たちは、その情報に飛びついた。

 ガルダに案内してもらい、売却予定の物件を見せてもらった俺は、一階が店舗スペース、二階が居住スペースになったこじんまりと居心地の良いその佇まいに一目惚れした。カウンターと数個のテーブル席のあるこの店舗スペースは、俺が想定しているある仕事を実現させるためにうってつけだ。

 とりあえず、老夫婦の希望の額をそのままゴールドカードで支払い、特に引っ越し荷物も何もない俺たちはすぐにこの家に移ってきた。この買い物が割高だったかお手頃だったかはよくわからないが、今は必要なものを迷わず揃えていくしかない。このカードも有効期限は一年だし、それまでに何らかの成果を上げていなければ、使った額は全部俺の借金になるのだ。その辺をいろいろ考えると胃が痛くなりそうだが、まずは自分のやるべき仕事に着手できる環境を整えなければ始まらない。


「ねえイブキ、お客いつ来るの?」

 パニをいっぱいに詰め込んだ口をもぐもぐと動かしつつ、アイラが唐突にそう訊ねた。

「え。そりゃ、まだここ始めて4日目だしな。そう簡単にお客さんは来ないよ」

「そう? 4日も経てば一人くらいはお客来てもいいんじゃないかなあ」

「アイラは余計な心配しなくても大丈夫だって。ほら、あんまりのんびりしてると魔法学校遅刻するぞ」

 住まいを見つけてからすぐに、俺はアイラの魔法学校への入学手続きを済ませた。幸いここから近い場所に評判の良い学校があり、何よりもまずアイラを復学させてやりたかった。最初は怪訝そうな顔をした学校の担当者も、俺のカードを見るなり目尻を下げて俺たちを迎え入れてくれた。髪を短くして男の子らしい服も買い揃え、アイラは今や堂々たる美少年だ。

「ねえ、表に出した『仕事の悩み相談所』って看板、もっと大きくした方が良くないかな? それに、『相談無料』っていうのもちゃんと書いといたほうがいいし……他に、街の人がここに興味を持ってくれそうな方法は……うーん。行ってきます」

 学校のリュックを背負い、アイラはそんなことをぶつぶつ言いながらドアを出ていく。彼は、俺の始めた仕事のことを本気で心配してくれているようだ。

 そう。俺の着手した新事業は、ズバリ「仕事の悩み相談所」である。仕事がなく収入のない人も利用できるよう、相談料は無料だ。


 アイラの話だと、この国では魔力や妖力、身体能力など、国のために有益だと判断される力を持つものたちは、その力を使って働くことを強いられている状況があるようだ。その能力が国に重用されれば、当然地位も財産もハイレベルなものが手に入る。

 しかし、卓越した才能や能力があることと、それを生かした仕事が自分の性格や適性に合うかどうかは全く別の話だ。例えば、美しい声を持ち、聴く人を魅了する歌唱力を持つ者が全員舞台で堂々と歌えるかと言えば、必ずしもそうではない。人前に出るのが苦手、多くの人に自分の顔や声を晒すなど嫌だ、というような性格であれば、歌手という仕事はむしろ選ぶべきではない。どんな仕事にも、これと同様のことが言える。

 しかしこの国では、個人の意向よりも仕事で能力を発揮することの方が優先されている。他国などとの戦いに勝つためには有能な魔術師や兵士を多く必要とすることは理屈としてわかる。だが同時に、そのミスマッチにより苦しさを抱えている人が必ずいるはずだと、俺は確信した。

 そういう苦しさや悩みを相談できる場所を作り、この国の人々のストレスを少しでも取り除くことが、フローラの占いの示していることなのではないか。俺のスキルはカウンセリングだけなのだし、この予測は間違っていないはずだ。

 アイラの朝食の皿を片付け、ポットのカルナをカップに注ぎ足しながら、俺は小さくため息をついた。

「アイラにはああ言ったけど……実際大丈夫なのかこれ?」

 彼にはとても聞かせられない独り言が、思わず口をついて出る。


 一向に来談者の気配のないドアを一日中じっと見つめていると、だんだんと不安な思いが胸に大きくなる。自分の方向性に間違いはないとしても、実際に相談してみようとここへ足を向ける者が、一体どれくらいいるだろう。自分の仕事の辛さや悩みを他人に打ち明ける。それは国が進める方策に異議を唱える行為とも捉えられかねない。相談所を立ち上げても、そう気軽に足を運ぶ気にはなかなかなれないのかもしれない。

 熱いカップを口に運び、俺はもう一つため息をついて明るい窓の外を見た。


 この国には、「今どこで何が起こっている」という正確な情報を得る方法がない。人づての噂だったり、遠方の知り合いなどから来る手紙でその様子を知らされたりする以外、街の外の詳細な状況を手に入れることができない。そのため、ガルダやミラのように人付き合いが多く、宿泊者たちから日々たくさんの情報を収集できる存在がそばにいることは、俺にとって非常にありがたかった。彼らの話を聞いていると、鍛えた能力を暴走させて殺人や暴行などの犯罪を犯す魔術師や兵士たちのニュースが毎日いくつも届く。そこには、日々積み重なった仕事によるストレスが関係している気がしてならなかった。

 そしてここ数日は、この社会を自分たちの思うまま無法地帯に塗り替えようと企む輩の巣食う地域である『闇の谷』の勢力が、じわじわとここまで及びつつあるらしいというきな臭い情報も頻繁に聞こえてくる。

 様々な状況を含めて考えても、何かきっかけが一つあれば、ここを訪れたいと思う人は大勢いるはずなのだ。


「うーーーん……」

 俺はカウンターに肘をつき、頭を抱えて髪をぐしゃぐしゃと力任せにかき回した。


 その時、ドアの外のベルが不意に鳴り、来客を知らせた。


 これは……お客様第一号か!?

 思わずだっと走り寄って開けたドアの外には、思ってもみなかった顔があった。



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