さよならの旋律

深茜 了

さよならの旋律

風見佐知哉さちや—佐知哉にいは、私より四歳年上の幼なじみだった。


幼なじみと言っても歳は四つも離れていたし、佐知哉兄は頭が良くて大人びていたから、幼なじみなんて馴れ馴れしい呼び方をしていいかは分からなかった。


黒くてさらさらとした短髪に、背が高くて足も長く、驚くほど整った顔にかけた眼鏡も似合っていて、天から二物も三物も与えられた人だった。


佐知哉兄は何と言ってもピアノの才能がずば抜けていた。小学生の時にはもう大人顔負けの演奏をしていたし、演奏会では賞を沢山取って、それを称えるトロフィーや賞状が部屋にいくつも飾られていた。


小さい頃から彼は自分の家で私にピアノを聴かせてくれた。子ども心にそれに惹かれた私も真似をしてピアノを習い始めたけど、腕前は人並み程度だったと思う。

とにかく佐知哉兄は近しいようでありながら、どこか雲の上の存在だった。



私が中学二年生になると、佐知哉兄はもう高校三年生だった。


秋になる頃には、私は佐知哉兄の卒業後のことが気になっていた。

勉強もとても出来る彼だから、東京の優秀な大学に行くのだろうかと考えていた。

東京だったら私たちの家がある県の隣だから、実家から通える。それならきっと佐知哉兄と離れずに済むだろう。私は一人そう結論付けて安心していた。

しかしそんな私の考えは甘かったのだとすぐに知ることになった。


学校の部活から帰ってきて母と夕食を食べていると、自然と佐知哉兄のことが話題にあがった。佐知哉兄の進路のことを母が彼のお母さんあたりから聞いているかもしれないと思い、彼のことを尋ねてみた。すると予想しない答えが返ってきた。


「ああ、佐知哉くんはね、アメリカの音楽の名門校に行くんですって。すごいわよねえ」


母の言葉を聞いた私は持っていた箸を取り落としそうになった。アメリカ? アメリカ、って言った—?


ショックを受けた私の様子に気付かないで話し続けていた母によると、佐知哉兄は本格的に音楽の道に進むらしく、アメリカの名門校に通うことにしたそうだ。

アメリカなんかに行ってしまったら、もうほとんど会うことが出来なくなってしまう。芽衣、と爽やかに微笑んで私の名前を呼ぶ彼がもう見られなくなってしまう。


夕食の席では何とか平静を装った私だったが、食べ終わり自分の部屋のドアを閉めると、立ったまま机に両手を付き、机の本棚に並んだピアノの楽譜を眺めながらしばらく呆然としていた。


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年が明けて三月になると、私は久し振りに佐知哉兄から彼の家に呼ばれた。


私が中学生になってからは、外で会うと立ち話をすることはよくあったけど、彼の家に呼ばれることはなくなっていた。佐知哉兄は二人っきりになったって卑劣なことは絶対しないはずだけど、私という一人の女性に対する配慮だったのだろう。


家に上がると、佐知哉兄のお母さんが居た。すっかり顔なじみの彼女に挨拶をすると、優しく私に挨拶を返した。そしてお茶とお菓子を用意してくれると、彼女は他の部屋へと入って行ってしまった。


久し振りに佐知哉兄と二人きりになった私は少し緊張していた。すると彼は私にクッキーを差し出してくれ、おもむろに口を開いた。


「芽衣、僕がもうすぐアメリカに行くことは聞いたかい」


いつもの、穏やかで落ち着いた佐知哉兄の声だった。私は彼が外国に行くことを知ってから、家の前で会ってもろくに顔を見ることもできなかったから、佐知哉兄は私が知っていることを“知ってる”はずだったけど、敢えてそう聞いてきた。


私がうん、と頷くと、その答えを予想していただろう彼は目を細めて笑った。


この数ヶ月、私は自分の気持ちになかなか折り合いがつけられずにいた。

外国になんか行かないで、なんて自分勝手な気持ちをぶつけるわけにもいかなかったし、そもそも私の佐知哉兄への感情が何なのか、自分でも整理がついていなかったのでどうしたらいいのかも分からなかった。


佐知哉兄はダイニングテーブルから立ち上がると、ピアノの前に移動した。そして椅子をもう一つ置くと、私に座るよう促した。


「しばらく会えなくなってしまうから、最後に芽衣にピアノを聴いて欲しいと思った。それで今日は来てもらったんだ」


ああ、やっぱり会えなくなるんだ。

わかってはいたけど、本人の口から聞くとよりいっそう現実味が増した。

でも、それなら尚のことピアノは聴いておきたかった。

隣の家だったから佐知哉兄が弾いている音が聞こえてくることはあったけど、こうして目の前で聴けるのは久し振りだった。



私が聴かせて、と言うと、佐知哉兄はにっこり頷いてピアノの前に座った。そして「じゃあ3曲ほど」と前置きして鍵盤に白い両手を乗せた。


佐知哉兄の指が音を奏で始める。久し振りに聴くそれはやっぱり私からすると達人の域で、これよりも上手くなったら間違いなく彼は世界的なピアニストになるのだろうと思った。


ドビュッシーの月の光、ショパンの小犬のワルツ、と弾き進めていく佐知哉兄を、私は胸の前で手を握りしめて見て、聴いていた。次はいつ聴けるか分からない彼の音を胸に刻んでいた。



そして最後の曲になった。

穏やかな旋律—、ゆったりとしたメロディに、音階自体は長調で明るい雰囲気ながら、その眠りについてしまいそうな穏やかさの中にどこか寂しさも感じられる、その曲は・・・


「別れの曲・・・・・・」


私は思わず声に出していた。佐知哉兄が最後の曲に選んだのは、ショパンが作曲した“世界一美しい曲”とも言われる、「別れの曲」だった。


それはやはり美しく、それがゆえに聴いている私は涙ぐんできた。


大きな手、それでいて長く綺麗な指が心地良い和音を奏でてゆく。

かと思えば激情のように激しい曲調になり、またすぐに穏やかなメロディーに戻る。

その落差がなお一層、安らかで、心が洗われていくような気持ちにさせる。


章が変わり、軽やかな曲調を弾く佐知哉兄を見ながら、私は自分の内側に思いを馳せていた。


小さい頃から、周りと比べて抜きん出ていた佐知哉兄。

容姿も能力も、才能にさえも恵まれていた佐知哉兄。


そんな彼に私が抱いていた感情は、恋と呼ぶには躊躇われる、いわゆる“憧れ”だったのだろう。

もう少し私が大人であれば、この感情が恋に育つこともあったかもしれない。


けれど、私はわきまえてしまっていたのだ。

十四歳と十八歳という四歳差は大人にとってのそれよりもはるかに壁があり、

加えて秀才の彼に対して私は凡人だった。

それを心のどこかで線引きにして、憧れという気持ちにとどめていたのだろう。


いつの間にか曲は再び激しい場面に移り変わっていた。

それを彼の手はいとも簡単に鍵盤をあやつっていく。


いつか佐知哉兄は今よりも手の届かない人になってしまうだろうけど、それでもたまには私のことを思い出してくれるだろうか。少しくらいは、憶えていてほしい。



そしてまた曲は主題に戻り、再び穏やかな旋律が奏でられる。

私は演奏する佐知哉兄の姿を、その音色を、脳裏に焼きつけた。


曲はだんだんと静かに、ゆるやかになっていき、そしてとうとう、永遠の眠りにつくかのように幕を閉じた。



指を鍵盤から離した佐知哉兄にむけて、私は拍手をした。世界一美しい曲と神の手を前にして感情が溢れそうになった私だったけど、最後まで泣くことはなかった。



「聞いてくれてありがとう」


佐知哉兄が私に向き直った。


「『別れの曲』を最後に弾いたけど、あれは確かに別れというタイトルだし、どこかもの悲しい印象もあるけど、あの曲はショパンの遺作ではないんだよ。

だからいっときの別れではあるけど、今生の別れではないという気持ちで弾いた」


彼の言葉に、私はただこくこくと頷いた。


「向こうに行ったら度々は帰って来れないけど、年に一回くらいは帰って来るだろう。そうしたら必ず芽衣の家に顔を出すよ。芽衣くらいの年頃だとどんどん成長していくだろうから、大人になっていく芽衣を見るのを楽しみに帰って来る」


そして佐知哉兄はにっこりと笑った。それを見た私は必ず来てね、約束だよ、と言って彼の前に小指を出した。頷いた佐知哉兄は自分の小指を私のに掛け、私たちは笑顔で指切りをした。そして手を離した佐知哉兄はこう言った。


「君は自分にあまり自信を持ってないみたいだけど、僕にとっては自慢の幼なじみだよ。そのまま素敵な女性になってね」


その言葉を聞いた私はハッとした。どうやら佐知哉兄は私の彼に対する感情を知っていたようだった。


もし私が彼に恋愛感情を抱いていたとしたら、「幼なじみ」なんて傷つく言い方は彼は絶対にしない。

今まで接してきた態度からなのか、先ほどの演奏を聴いていた様子からなのかは分からないけど、私の感情が恋にまで達していないことを理解わかっていたようだ。



本当に、この人には敵わないな。


私は少し微笑んだ。彼はその意味がわかるのかわからないのか、柔和な笑みを崩さなかった。


幼い頃からずっと憧れてきた人との別れは、どこか切ないような、もどかしい感じがした。それはかの有名な作曲家が書いた曲のように、寂しさの中にもどこか美しさと慈愛が感じられる時間ときだった。

そして全ての曲を弾き終えた佐知哉兄は別れを惜しむかのように鍵盤を見つめ、黒く輝くピアノの蓋をそっと閉じた。











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