そば腹
松本育枝
そば腹
「夕飯なにが食べたいー?」
だるそうな声で母が言った。日曜の夕方、畳に寝転んで漫画本を読んでいたぼくは少し考えて「ハンバーグ」と答えた。それに対して母は低くうなるような声を出した。イヤなのだろう。時間差でもうひとつ別のうなり声がした。コタツでテレビを見ながらウトウトしているかと思ったおじいちゃんだ。
「ハンバーグはいやじゃ」
「じゃあ、なにがいいの?なんでもいいはナシよ。手間がかからなくて簡単なやつね」
「それなら外食しようよ」ぼくはチャンスとばかり漫画本から顔をあげて言った。
「だめよ。月末なんだから」母はため息をついた。
「お父さんには聞かないの?」
「お父さんは遅くなるからいらないって」
今夜は俺がそばを打つと張り切っていた父は、朝から急な仕事が入り泣く泣く出勤したのだ。
そば打ちは父の唯一の趣味だ。予定のない週末にはイソイソとそばを打つ。だが定年後に店を出したいなどとウットリと口にしようものなら、母のライオンのようなうなり声を聞くことになる。
「今日は、久々にそば腹になっとったのに、な」おじいちゃんがつぶやく。父のそばは美味かったが、家族からはそろそろ飽きられていた。
「麺がいいならラーメンにする?」母が聞く。ラーメンならいいな、とぼくは思ったが、おじいちゃんがすかさず言った。
「それはいかんよ、おかあさん。そば腹にラーメンというのは裏切りじゃ」
「なによそれ。じゃあ、なになら裏切りにならないんですかっ」母は明らかにイラっとした低い声で言った。
「そうさな・・、うどんならどうかな。同じカツオ出汁じゃ」やや譲歩したような優しい口調でおじいちゃんは言った。でもぼくは反対した。
「うどんとそばは全然ちがうよ。麺が太過ぎるもん。やっぱり裏切りだよ」ぼくはそばは好きだけど、うどんはきらいなのだ。
「そばを裏切らない料理なんてあるわけ?」母はだるさを増した声でさらに低くうなるように言った。この状態が続くと雌ライオンが吠える。
おじいちゃんはテレビを消し、ぼくは漫画本を閉じた。みんな頭の中で「そば」に近いなにかを検索し始めた。もちろん自分も食べたいものの中から。考えたくなさそうだった母も壁の一点を見つめている。良い問いは人を考えさせる、と学校の先生が言っていたのは本当だ。
ややあって母がポツリと言った。
「沖縄そば・・」
「あ」
「おお」
ぼくとおじいちゃんが声をあげた。沖縄そばなら「そば」と付くし、雰囲気はラーメンに近い。一方、カツオ出汁だからおじいちゃん推しの「うどん」にも近い。
「三方よしではないかな。おかあさん、さすがじゃ」おじいちゃんはニコニコして言った。以前、沖縄みやげでもらった沖縄そばを作った時、おじいちゃんもいたく気に入っていたので思い出したのだろう。
「この前沖縄物産展で買ったのが残ってたはずよ」
母が台所のストックの棚を開けて確認する。
「まーあ、ちょうど三人分あるわ」
ぼくとおじいちゃんは母が手に持った三袋の沖縄そばに向かって近づいていった。窓から差し込む光が沖縄そばの華やかなパッケージにスポットライトのように当たり、まるで三人の輪の中に天使が舞い降りたようだ。
全てが納まるところに納まり物事が調和した時の清々しさを皆が感じていた。問題は太陽とともに地の果てに沈み、雌ライオンは微笑んでいる。ぼくらはサバンナでくつろぐ家族のように幸福だった。
その時、ガチャリと音がして玄関が開いた。
「ただいまー、先方が所用ありとかで早く解放されたよ。ああ、助かった。夕飯まだだよな。俺、そば打つからさ」
三人はシンとした。五秒ほどしておじいちゃんが咳払いして言った。
「お前はいつも間がわるい。昔からそうじゃ。わしはもう沖縄そば腹じゃ。お前のそばなぞいらん」
「え?なんの話?」父はネクタイをゆるめかけた手を止めたままポカンとしてぼくたちを見ている。まるでライオンと目があったシマウマみたいだ。
母を振り返ると、父をにらんで低いうなり声をあげている。
ぼくは、父がちょっとかわいそうになり、「おつかれさま」と労わるように言った。
そば腹 松本育枝 @ikue108
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