さらば金メダル

ぽんぽん丸

さらば金メダル

「私は耐えてきた。


己の番が回るまで凍てつく寒さに耐えてきた。 


私より先に飛ぶものが私のベストの向こう側に先着したプレッシャーに耐えてきた。


スタートバーの上、生物が立つだけで震える急傾斜に幾度も耐えてきた。


私は耐えてきた。


スタート直後の急加速、90キロに届く速度に耐えてきた。


自然落下の身を割く風圧に耐えてきた。


しくじれば死が待つ着地の衝撃に耐えてきた。


私はスキージャンプに耐えてきた。

私の手には金メダルが握られた。



だがこれがどうだろうか。今後このメダルは私の人生をどうするのだろうか。富と名声を与えて立派な人間にさせるのだろうか。私はきっと、アナウンサーや品行方正なアスリートと結婚する。競技者とは違う優しい顔の良き夫になるのだろうか。そして世間から期待を浴びる我が子を正しく強く導く父になるのだろうか。しかし私が求めたのはそんなことか?学生時代、競技者として私に一度たりとも勝ったことのないあの半端者が語った話にどれだけ胸焦がれただろう。ナイトクラブのトイレの個室。その日だけのつもりの女性と愛し合った話。今でも記憶が呼び起こされる度に身震いする。


あの半端者はその日限りの愛に留まらず、翌日その女と昼を食べたそうだ。別れる理由がなかったからそのまま夜まで共に過ごしてまたファーストフードのようにお互いを味わったそうだ。それからコンビニにでも行くように互いの家を行き来して、そのうちどちらかの家で共に過ごすようになったそうだ。いつしか週末の予定やお金の話や仕事の悩みを相談し合うというのだ!


私はそんな恋がしたいのだ!アナウンサーなど堅い職業!キレイなベッドでお行儀の良いセックスなどしたくない!私には障がい者トイレの広いスペースさえ必要ない!便器をかわすように床に手をつくよく知らない女性と愛し合いたいのだ!家に帰らず、風呂にも入らず、手も洗うことなく、その女と食べる昼飯のハンバーガーとフライドポテトの味を私は知りたい!


そうしてその汚い関係の中から真の愛情をすくい上げ、それを永遠にしたいのだ。私はどうしようもなく、それが愛だと感じてしまうのだ。


しかし、このメダルはきっとそれを許さない。メダリストは正しくあるべきだから。世間は私のこの欲求を見つけると、私の努力に満ちた人生など興味もなかった奴らまで私の罪を断罪する。ジャーナリズムのかけらも知らぬ者共がカメラを向けて、透けて見えるような軽薄な正義のメッキを施した承認欲求を振りかざし、私のこの人間性を叩きのめすのだ。よりよくするために私は努力した。遠くに飛ぶという理由を持たない快感のため。世間はただ私を消費する。私の理由なき努力から奴らは何も学ばないのだ。ただ消費するだけだ。


破滅的な世の中を私は見てきた。どんな栄光も、欲求に従ったことがわかれば破壊された。そしてそれが正しいことだとされている。私は明日引退する。ここにこのメダルを捨ててゆく。私はメダルに縛られることはなく、個室トイレで愛し合い、そして愛を見つける。


破滅的な世間から叩かれようと私はその中を飛ぶ。身震いする高さから飛び出すことに耐えてきた。凍てつく風に耐えてきた。死を纏う着地の衝撃に耐えてきた。それに比べ奴らがどうだと言うのだ。私は勝つ。私が叩きのめしてやる。愛を注がれ作られた自分の人生を台無しにしてなおより優秀な者の欲への素直さだけを抜き取り下に見て、やっと息が出来る愚か者よ。破廉恥に身を落とした私を叩いてみろ。私はお前たちが作る嵐の中を、欲を満たした笑顔で飛び抜ける。努力を重ねたこの私が欲望を叶えてはいけない道理はないのだから。もう帰らなければ。いよいよさらばだ、金メダル」


一人きりの決意表明を終わりにした。首にさがったメダルをとって足元に投げた。栄光の輝きは降り積もる雪の中へ消えた。もう肩にも雪が積もっている。深夜のラージヒルは雪の向こうにぼやけている。ずっと見てくれていたスタンドライトに一礼して別れを告げた。


芯まで冷えた体が重い。もう末端の感覚はなくて、唇が震えていた。だが笑みは止められず溢れていた。着地点から歩き出した。


この飛翔に終わりはない。

さらば金メダル。ゆくのだメダリスト。

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