第26話 泥の中
この日、康平の通っている
当然、彼に何があったのかクラスの担当教員や、彼と親しい人物に話を聞きに向かったが、それに関しては同じように分からないと首を横に振ると、根も葉もない噂が学校に流れ始めていく。
何かしらのストレスが原因で無断欠席したのか。また事故にでもあったのか。最近話題の大蜘蛛に食べられたのではないか、などという噂が一気に広まっていた。
そうしたことがありながらも、時間だけは我関せずといったように進んでいき、昼休み。康平の身に何が起きたのかを知るべく
そして唯一、康平の現状を知っている晴彦は、彼が今置かれている状況を2人に伝えた。
「康平の母ちゃんが救急車に運ばれた?!」
「う、うん。何時だったかちゃんと覚えてないけど、夜中に突然救急車のサイレンが聞こえて、そしたら住んでるアパートに足音がして、何かと思ったら康平君のお母さんが」
「つまり今、湖里君は母親と一緒に?」
「それは、分からない。あとで連絡するって言ってたけど……」
三原だけはなぜ連絡を寄越さないのかと意味の分からない行動をしている康平の身を案じるが、他の2人はまさかと思いながらも、その考えを三原に聞かれないように小声で会話する。
「まさかとは思いたくないが、大蜘蛛が彼の母親に危害を加えたのではないだろうか」
「もしかして、康平君が負けた? 帰ってきたらお母さんが大蜘蛛の被害を受けてる状態だったから……それじゃあ今、まだ中央区で探しているんじゃ!」
咄嗟に声を出してしまい、晴彦と東堂は慌てて静かにしたが、既に三原の耳に入ってしまったようで。先程聞いた発言の中で出てきた中央区という、居場所に繋がりそうなキーワードを彼らに問いただした。
「おい、今の、どういう意味なんだ?」
「え、えと、その」
「……そう、チョークだ。チョークを探しているのではと」
「そんな安っぽいウソは良い!」
「ハイ」
「というかお前ら、他にまだ何か知ってんじゃないだろうな? そうじゃなきゃ、“まだ中央区で探しているんじゃ”なんて発言は出ねぇ」
「う、うぅ」
「それにここ最近、アイツはどこか様子がおかしかった。体育の時も他を圧倒するようなフィジカルしてたり、よく独り言も多くなってた。それについても何か知ってるんじゃないだろうな?」
珍しく押し気味に2人に訊ねる三原の雰囲気にのまれながらも、しかしどこまで話せばいいのかと、それぞれ考えていても埒が明かなかったのか、一旦2人で話し合う時間を設けて相談した。
怪異の事を話して、どこまで信用するのかといった点や、荒唐無稽にも思える事実を包み隠さず言ってもよいのかと協議する。結局、この手の答え方としては伝えるべきことはキチンと伝えるべきだという東堂の判断のもと、彼が混乱しないだろう程度に情報を教えた。
その情報を伝えてすぐ、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り、3人はそれぞれの授業が行われる教室へと素早く移動し、学生の本分である勉強の時間へと移行した。
やがて放課後まで続いた授業が終わり、3人で中央区へと向かおうとしたところに東堂と晴彦の携帯に通知が1件入る。SNSを開き内容を確認すると、“遅れてすまない”と一言の謝罪のあと、大蜘蛛を取り逃がしてしまったことため、未だに中央区に大蜘蛛は潜んでいると内田からメッセージで伝えられた。
2人は互いを見やったあと、東堂が返信する。丸1日授業を無断欠席したため、もしかしたら中央区に居るかもしれないということ。今日の未明に康平の母親が救急車で運ばれていたのを晴彦が目撃したこと、もしかしたら大蜘蛛の被害にあってしまった母親を救う為にずっと捜索しているのでは無いのかと。
そのように伝えてからすぐ、返信が来た。すぐに車を用意して中央区に向かえる準備を整えておくことと、中央区の警察署に連絡して彼がいるか確かめるとのメッセージが届いた。
「よし。全員正門前で待っておこう、内田さんが駆けつけてくれる」
「ウチダ、って誰?」
「協力者の1人で、警察だ。今ちょうど湖里君が保護されているか聞き回ってくれている」
「お前らいつの間にそんな伝手ゲットしたんだよ?」
三原の言い分はもっともであるがそれはさておいて、内田に八尾坂第二高校の正門前で待つことを伝え、3人は車の到着を待った。それから数分ほどして一台の車が3人の待つ正門前に到着し、全員乗り込んだあと中央区へと向けて出発する。
発進直後、内田は康平が現在交番に保護されていることを突き止めことを伝えた。ひとまずの安否を確認できたことで3人とも安心したのも束の間、内田は続けて彼の今の状態について言及した。
「保護される直前、彼は警官3人の拘束を物ともせず、そのまま徘徊を続けようとしていたと連絡があった」
「3人って、マジで言ってるんすか?」
「君は――」
「康平の幼馴染です。三原秀司って言います」
「なるほど、私は内田。
「警察って聞きましたけど」
「事実だ。ただ、この件は警察ではどうしようもなくてな。……2人とも、彼にはあのことを話したのか?」
「えっと、話はしたんですけど」
「あぁ、なるほど」
晴彦の言い淀んだ物言いに何となく察しがついたのか、内田はそれ以上言及はせず話題を康平の現状に戻した。
「話を戻すと、そのあと急に自分の顎を殴って気絶したらしい」
(駈剛だ……)
(駈剛だな……)
(何やってんのアイツ……?)
「あとは最初に言った通り、彼を保護しているとのことだ。とはいえ、彼をそのままにしておくのは宜しくないだろうな。おそらく目覚めればすぐにでも動きかねない」
容易に想像できる晴彦と東堂は口を閉じ、今の康平の精神状態が如何ほどのものであるのかを嫌な方向で想像した。仮に母親が襲われたとする場合、いま喪いかけている大切な人の為に、何が何でも大蜘蛛を倒すために躍起になるのは火を見るより明らかだ。
ただ1人、幼馴染である彼を除いて。
「で、でも康平の母ちゃんはいま病院なんでしょ? 難病を患ってるわけじゃないし、すぐにでも回復するでしょ? 康平と関係ないとは言わねぇけど、治るんならお医者様に任せておけば大丈夫なはずでしょ?」
その発言により、三原を除いた3人は顔を覆いたくなるほど、何と言えば良いのか分からなくなった。ある意味強敵というか、これこそがごく普通の反応というか。
2人は説明をしたのだろう。しかし普通の中で生き続けている上、怪異の恐怖を実際に見ていなければ車内にいる3人も、もしかしたら同じような反応をしていたかもしれない。なので、そうではないと言えるような雰囲気で無かった。
閉口して車のエンジン音と走行音だけが支配した車内に居る3人に、三原は視線を動かした。この空気感に戸惑いの表情を見せ、もしや本当に不味いことになっているのではと想像してすぐ、内田が口を開いた。
「そうだな、普通ならそうだ」
「ほ、ほらやっぱり」
「ただ、今回彼の母親に起きているであろうことは、どんな凄腕の医者でも治すことはできない。断言してもいい」
「……じょ、冗談キツくないですか?」
「冗談を言えるほど、余裕があったら良かったんだがね」
そこでようやく三原は口を閉じた。今内田の言ったことがもし本当ならという思考と、怪異という非科学的とも言える存在が、この世に実在していると言っているような彼らの頭の中を心配する思考が、彼の中にはあった。
そうこうしている内に、康平が保護されているという交番まで到着した。そこで彼らは、警官2人に抑えられながら交番を出ていこうとする康平を見つける。すぐに車から降りて彼を止めるために動いた。
「康平、おい! 何やってんだ!?」
「秀司……何でここに? それに晴彦君と東堂君、内田さんも」
「今日学校を無断欠席したから、何があったのかって。それでもしかしたら中央区に居るんじゃないかって」
「あぁ。あぁそうだ、頼むよ皆。大蜘蛛を探すのを手伝ってくれよ」
「大蜘蛛?」
そう会話している間、内田は康平にしがみついていた警察官を引き剝がし、今回の事に関して色々と話をしている。おそらくは康平の今後の処置などについての事だろう。それとは別に、康平は話を続けた。
「あぁそう、大蜘蛛だ。ずっと探してるんだ! 反応を探ろうにも痕跡の一つすら残しやしない! 薄暗いジメジメしたところに隠れるのが上手いあのクソ野郎を!」
康平を知る4人すべてが、康平の変わった口調や物言いに対し驚愕する。その事実に戸惑う彼らの事など露知らず、康平は笑っているのか怒っているのか分からない状態のまま笑っていた。
「お、おい。康平? ど、どうしたんだよ。急に、そんな……はっちゃけてさ?」
「はっちゃける? これが? ああそうだ、こうしないと全部! 無駄に! なりそうで仕方ないんだよ!」
もはや言葉も出ないほど、いつもの冷静沈着な康平は見る影もなかった。半狂乱状態で笑い、怒り、笑い、怒り。それを繰り返している康平の右腕が、康平自身の顎を狙って放たれたが、左手で康平は押さえつける。
(チッ)
「さっきはよくもやってくれたなオイ、んん? おかげでこの通り元気になったがよ!」
(ッ?! 此奴、力が増して!)
「おい康平!? 何やってんだお前!?」
傍から見れば、何かしらの役にでもなり切っているのだろうかと思う状況だが、今の康平は正気を保っているようには見えない。有り体に言うと、どこか狂っていた。すぐに康平を止めようとその場にいた6人が抑え始めたが、ここで予想外の事が起きた。
暴れ狂う康平は、勢いのまま掴まっている彼らを投げたのである。意図も容易く人間を3mも投げ飛ばしたことで、彼らを取り囲むように見ていた通行人も驚きを隠せずにいる。
未だに狂乱している康平は、駈剛が能力使用により動かしていた右腕を左手を使いあらん限りの力で握りしめた。途端に康平の骨から軋むような音が聞こえた。
(クソッ! 本当にどうなってやがる……⁉ 能力の使用先が変えられん! その上、これはッ……!?)
そうして康平が自身の骨を潰そうとした瞬間、内田が背後から飛び掛かり首を勢いよく絞めあげた。首という弱点から引き剥がそうと咄嗟に手を動かしたが、右腕の拘束が解けたことで、駈剛が顎を掠めるように殴ると、康平は後ろへと倒れ次第に意識を失った。
ようやく一段落ついたところで、内田は救急車両を呼び出し気絶した康平を休ませることにした。
康平は目を覚ますと、自分が今どこにいるのかすぐに判断が付かないでいた。少しの時間をかけると、病院のベッドの上に居ることを理解し、跳ね上がるように起き上がった。現在時刻が午後6時だと確認すると、康平はすぐにでも出られるようにバッグを探す。
右後ろの小さなテーブルに置かれた自分のバッグを見つけ、康平はすぐにでも戻ろうとして、左手が自身の首を絞めた。
「ガッ?!」
(いい加減落ち着け、この阿呆)
「駈、剛……お前っ!」
(これ以上面倒なことを起こすものなら、このまま首を絞めてもう一度気絶させる。お前は今一度、落ち着いて物事を対処できるように休め)
「ふざけぇ゛ッ、んな……! んな、悠長な、ことぉ!」
(チッ、またか……!)
自由の効く右手で、康平は自身の左手を無理やり引きはがし押さえつけた。咳き込みながらも息を整えて、病室の出入り口に行こうとしたところで、1人の看護師と出くわした。なぜ、と思う前に康平はその場から立ち去り、後方から聞こえる制止の声を聞き届けることはなかった。
階段を降りていき1階の待合室にまで辿り着くと、そこで自身の祖父母や友人ら3人を見かけた。あちら側もすぐに康平に気付いて、すぐに康平のもとに駆け寄った。
「康平、なぜここに?」
「ごめん、ばあちゃん。すぐに行かなきゃ」
「また中央区を探し回るつもり?」
晴彦の言葉が彼の足を止める。普段のなよなよした雰囲気はなく、真剣な表情で彼の目を見た。どこか虚無を見つめているような瞳で、康平はそちらに視線を向けながら言う。
「早く見つけ出さないと、あと3日しか持たないんだ。そうじゃないと、大蜘蛛が……」
事情を知っている晴彦と東堂は、康平の言いたいことも理解できてしまう。唯一の肉親がいま怪異の手によって奪われそうになっているのだ。本来ならば、彼を止めることはしない方が良いのだろう。
「なあ、康平。ちょっと落ち着いてくれよ」
「秀司……なんで、お前がここに?」
「今日学校に来てなかっただろ、何の連絡も無しにさ。だからスゲェ心配になったから来たんだよ」
「……あぁ、そうか。そういや、何の連絡もしてなかったんだ」
どこか虚ろにそう呟きながら、康平は自身の頭を押さえる。いつものような冷静さも無ければ、自身の中にある恐怖を隠しきれていない彼は、ボロボロに穴の開いたタオルのようで。
とても健康的とは言えない状態で、今の康平を見ていられなかったのか、三原は口を開いた。
「康平、その。お前の事情、聞いたんだ。母ちゃんが今入院してるって」
「……だから?」
「いやさ、こう言うのもあれなんだけどよ。康平は一体何やってんだ? お前らの知り合いの警察の人、内田さんだっけか。どんな医者でも治せないって言ってたんだよ」
「……ハッ。そりゃそうだ、医者なんかに治せるわけがない。医者ごときに何が出来るんだ」
「だったらさ、今康平に出来ることなんて無いだろ。何でそこまでしてお前が動くんだよ?」
自虐的な笑みをしていた康平の表情が消えて、同時に康平の中で何かが切れた。頭や体が熱くなってきているのに、周囲の気温が下がったように錯覚した。
康平はこの時意識していなかったが、何故だか目の奥も熱くなっていて。それに気づかぬまま彼は三原を殴り飛ばした。突然のことで何が起きたのか一瞬判断に困ったが、康平が倒れた三原に近付こうとしたところで、慌てて止めに入った。
「康平君待って!」
「康平、何をしとる!?」
晴彦と康平の祖父が彼を止めに入る。が、声が聞き届いていないのか痛みで、起き上がることが出来ない状態の三原の胸倉を掴んだ。
止めようとして入った祖父だったが、康平の脇に手を入れて拘束した途端、上体を前に倒す勢いで祖父をそのまま投げ飛ばした。
「ぉおッ!?」
「裕司さん?!」
「テメェ、今なんて言ったよエェ!?」
そのまま康平は唖然としている三原の目を見て言葉を続けた。
「意味が無いだと……ふざけるな! 何も知らないお前に、一体何が分かる!?」
康平の怒号。それを幼馴染である三原は久方ぶりに聞いた。怒りの形相で捉える彼の目が、しかしどこか彼のものとは思えずに三原は喋らなかった。
「いま母さんを救えるのは、オレだけなんだ! オレだけしか居ないんだよ! 体に埋め込まれたあの蜘蛛をどうにか出来るのは! それをお前は意味が無いだと?
何も知らないくせに! 何も知ろうとしないくせに! 分かったような
誰も頼んでいないんだよそんな事! 邪魔でしかないんだよお前なんか!」
最後のその一言を言い終えたところで、少しの静寂が広まったかと思えば、晴彦が康平のもとに近付き、彼の顔を自身の方へと向けさせ、晴彦はその頬を叩いた。
頬への痛みは無い。ただこんなことをした晴彦に対して、康平はどのような顔をしているのか自分でも判断が付かずにいた。康平の視線の先には、彼に対して強い怒りを覚え、涙を堪えている晴彦が見えた。
そうやって涙を堪えながら、一言だけ言った。
「君の口からそんな言葉、聞きたくなかった……!」
それだけ言って、晴彦は康平をどかした。呆気なく簡単に三原から離れた康平は、呆然としながら叩かれた頬に手をやる。
晴彦は三原に肩を貸して立たせたあと、この場に居た東堂と康平の祖父母に向けて風にあたってくることを伝えると、そのまま出ていった。
康平はただ、心に残った喪失感を受け止めきれなかったのか、糸が切れたかのようにその場に座り込んだ。
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