憎悪によるピリオド
第25話 カウントダウン
「母さん!?」
なぜ台所の床に倒れているのか、なぜこうなっているのか理解は追い付いていなかった。けれど慌てなければならない事態だと察した康平は、ほぼ無意識で倒れている母のもとまで駆け寄った。誰もが寝静まる夜に声を荒げてしまうほどに。
痛む体に鞭打って、倒れている母に近づき呼びかける。焦燥感を隠せられていないまま、康平は割れ物を注意深く扱うような手で脈を測った。しかし今の自身の脈拍の高さで何も分からず、すぐに呼吸しているかどうかの確認に移ったが、呼気の量が心許ない程か細いため、康平の焦りはさらに増すばかり。
正常な判断が出来ていないと、焦る彼の手を
「いったい何のつもりだ!?」
(戯けがッ!)
頭の中で大きく響くその喝に、一瞬だけびくりと体が震える。少しの間をおいて、駈剛は丁寧に諭していく。
(今お前がやるべきは焦ることか? 違うはずだ、馬鹿者)
そこようやくハッとした康平は、すぐに携帯を取り出しダイヤル機能から119を入力して相手が出るのを待った。3コール目で応答した通信指令員とやり取りを行い、現状の説明に入る。
「もしもし、救急をお願いします! 帰宅して台所から光が漏れているのを確認したら、母が倒れていて……自宅のアパートです! 住所は三沢市西区―― 」
それから事細かに尋ねられる問いに何とか答えながら、救急の手配を行ってもらえることを確約してもらい、あとは到着を待つだけになった。そこで康平はようやく、ある程度落ち着きを取り戻し、母を一度この場から安静できる場所へ運ぼうとしたその時、パジャマの下から僅かに見えた黒く太い線のようなものを視界に映す。
まさかと、思ったところですぐに康平は第一ボタンと第二ボタンを開けて、それの正体を見た。
「っ、これ、は……!」
(やはりか、僅かに感じ取れていたものの正体は)
母の肉体の内側に居たのは、一度見たことのあるあの蜘蛛。察したくはなかった、今度の標的がまさか守らなければと
「くそっ! 何でなんだよ!? 何で母さんが!」
(……いや待て、小僧。この蜘蛛、何かがおかしい)
駈剛の言葉に一瞬何を言っているのか分からなかったが、すぐに蜘蛛の様子を観察しているとある違和感に気付いた。蜘蛛の動き方が、あの標的だった蜘蛛に比べてどこか制限が掛かっているような、思うように動くことが出来ていないように見えた。
これが何なのか分からなかったが、康平はとにもかくにも救急隊員が来る前に用意するものを揃えてカバンに詰め込んでいると、不意に父の写真が飾られている仏壇に眼をやった。落ち着きを取り戻し、痛みがぶり返したため若干おぼつかない足取りでそこに向かった。
辿り着き、おもむろに仏壇の二段目引き出しを開けると、入っていたのは和紙に包まれている長方形の何かであった。一体何であるのか確認する前に、康平の耳に救急車のサイレンが聞こえてくる。咄嗟にバッグに入れたが、それを気にすることなくすぐに救急隊員が入れるようにカギとチェーンを開けに行った。
それからは忙しなく事が進んでいく。時間帯が深夜でもあったことから周囲の住民が起き、何が起きたのか知るために野次馬が増えた。隣に住んでいる
救急隊員が到着し、母が担架に乗せられたあと外へと出ていく人の中に居た康平を見かけ、晴彦は彼に訊ねた。
「康平君、これは一体……?」
「ごめん、今は母さんの付き添いに行かなきゃ。また落ち着いたら事情を説明するから」
そう言い残して、康平は救急隊員らとともに付近の救急病院にまで向かっていった。未だに蜘蛛は動きを止めていた。
明朝。康平は意識のない母のそばで、ただじっと椅子に座って待っていた。両手を握りしめ貧乏ゆすりをしていると、病室の扉が開けられた音を耳にし振り返る。
入ってきたのは、帯が斜めにズレたまま蒼い着物を着た白髪老齢の女性と、焼けた肌によって目立つ白のタンクトップと青いズボンを履いた、頭頂部に髪が無い老齢の男性が入室してきたのを視界に映すと、椅子から立ち上がり2人のもとに駆け寄った。
「ばあちゃん、じいちゃん。良かった、来てくれて」
「康平、あなたは危ない目にあっていませんね?」
「うん、大丈夫。わざわざ来てもらってありがとう」
康平の祖父母である男女は安堵の溜め息をつき、祖父が康平の頭に手を伸ばして優しく撫でながら言った。
「なに、こんぐらい何てことないさ。家族のためならどこでも行けるんだからな」
康平は閉口し、顔を俯かせる。今の彼にはその言葉が何よりも安心して、泣きそうになる表情を隠すのに必死だった。それを察して祖父母は背中をさすったりして、康平が落ち着くまで待った。
少しして、もう大丈夫と言って康平は2人を病室のベッドで目覚めないままの母のもとに案内する。その見ている様子に何やら言い知れぬ雰囲気を感じ取った康平だったが、そこに担当医がやって来た。ひとまず容体に関しての説明を受けることになり、3人ともそれを聴き始めた。
現在、康平の母の容体は正直に言ってしまうと、何が原因で起きているのか分かっていないということだと医者は語る。これといった外傷などの外部的要因も見当たらず、目覚めることもなく、ただただ緩やかに衰弱していっているという訳の分からない状態にあるという。
現状やれる手は尽くしているものの原因が何か分からない以上、此処では手の施しようが無いと言った。それらの要因から別の病院に搬送する選択肢を提示し、ひとまず相談をして決める方針を祖父母は取った。
医者が退室し、残ったのが康平ら3人とベッドで眠っている母だけになったとき、祖母は眠っている彼女の傍に寄って、額に手を当てた。康平はその様子に申し訳なさを覚え、視線を下へと運んだ。
こうなってしまったのは、もしかしたら自分のせいなのではないかと考えを巡らせていき、彼の思考は段々と暗く
何だ、と思い咄嗟にそちらに視線を動かすと、祖母は母の着ている患者衣を胸元辺りまで開けており、その状態からじっと動かずにいた。祖父も、康平も最初こそ何を見ているのかと思っていたが、康平だけは次第にまさかと考えて母のもとに寄った。
視界に映っているのは、あの時見た位置と同じ場所に居る蜘蛛。次に隣に立つ祖母の顔を覗き込むと、険しい表情である一点を見つめているようであった。康平からすればその視線は自身と同じく、その蜘蛛を見ているように思えてならなかった。
「
そして急に祖母はそのように言ったので、康平は一瞬意味が解らず動きを止めてしまった。少ししてようやく現実に戻り、どういうことなのか咄嗟に問いただした。
「ま、待ってよ、ばあちゃん。急にどうしたのさ?」
「康平、時間がありません。あなたも付いて来なさい、取りに行くものがあります」
「取りに行くって、一体何を?」
その康平の問いに、祖母はじっと彼の目を見た。そして瞼を閉じたかと思いきや、溜め息をついてこう言う。
「まだ、伝えてないのね」
「えっ?」
「時間もありません、簡潔に言いましょう。木札を取って来なければなりません」
「木札……」
心当たりを探してみれば、それらしきものを確か持ってきていたはずと思い立ち、ふと康平は自身のカバンから和紙に包まれた長方形の何かを取り出す。祖母はそれを持ってきていたことに驚きながらも、康平に訊ねた。
「康平、それをどこで?」
「仏壇の、二段目の引き出しに。っていうかそれより、ばあちゃんはこれについて何か知ってるの? そもそもばあちゃんは……母さんの体にあるそれが、見えてるの?」
「! まさか、あなたも?」
大多数の考える普通、であればこのような問いかけは間違いなく精神的なものを患っていると思われるか、脳に何かしらの問題でもあるのではと考えられるやり取りであったが、3人ともその枠の外に居るということが分かり、祖母は少し考える素振りをしたあと康平と話をした。
「康平。今は全てを言えませんが、現在あなたの母に起きていることが何であるのか。それについて話します」
祖母は話す。今彼女の身に起きていることは、理外の存在によって引き起こされているものであると。とはいえ駈剛と共に怪異退治をしているため、そのあたりに対して動揺をすることは無かった。その反応の様子が、まだ理解に及べないのだろうと勘違いした祖母は続けて話す。
「理解や納得は示さずとも構いません、ただ今起きている不可解な事象はそういった存在によって引き起こされている事実を知っておくように。
そしてあなたの母は、いわゆる霊媒体質。理外の者に狙われやすい体質なのです」
「え、そうなの?」
「はい。なので、こうして護りの札を持つことで身を守っていたのですが……ここ数年、常ならぬ事柄が頻発しているのは知っていますね」
「うん」
康平は頷きを伴ってそう返事をした。
「人伝に聞いた話ですが、どうやら裏にそのような存在が横行していることで、護りの効果が意味を成さぬほど邪な気が流れているらしいのです。故にあなたの母はその毒牙にかかっている状況にあります」
康平は拳を作り、握りしめる。以前よりも力は増したが、皮膚や肉の強度も増強されたのか以前のように血は出なかった。
祖母は次に、本来であればこのような事態の専門家に解決をしてもらうよう促すのが、本来取るべき行動であると伝えた上で、この三沢市に蔓延る異常の解決を考える者は誰一人として居なかったと言う。その理由は、皆口を揃えたかのようにしてこうだった。
「ここは最早、人の手でどうこう出来る範囲を越えてしまっている。とのことらしいです」
「……誰にも、この事態を解決する術が無い、か」
「えぇ。出来る事なら、あなた達2人をどうにかして避難させたかったのですが」
そう言って、祖母は話を一旦止める。康平からすれば色々と詳しく聞きたいのは山々であったが、今は終わらせなければならないことがある。あの大蜘蛛を始末して、母の身を蝕む蜘蛛を消さねばならないと思考を変え、すぐにでも病室を出ていこうとした。
「どこに行くんだい?」
祖父が、病室を出ていこうとする彼に訊ねる。その声に振り返ることなく、視線を扉に固定したまま言った。
「……学校」
康平は嘘をついた。
家まで送っていくと言った祖父母の言葉を、やんわりと拒否し康平はすぐに中央区へと向かった。地下鉄で移動する中、駈剛は現状を伝え始めた。
(まず、今の俺様たちは後手に回っている。それは事実だ。鬼ごっこは制限時間内に捕まえられず、あの大蜘蛛は今もなお支配を続けている)
目的の駅に到着した為、人混みに流れる様に地上へと足を運んでいく。
(そしてお前の母の体に埋め込まれた蜘蛛。あの死んでいった男と同じだが、護りの札が機能していることで機能が阻害されていると言っていいだろう。すぐに体を蝕まれるといったことは無い。
だが、あの護りの効果も無限に続くわけではない。さきほどお前の視界を共有して確認したが、効力がかなりの勢いで薄れつつある。もってあと3日、といったところだ)
階段を上り、ようやく外へと出た。空は雲に覆われており、これから降って来るであろう予兆として、雨の臭いが鼻腔に入って来る。
(お前の望みを叶えるには、この3日以内に大蜘蛛を探し出し、倒さねばならんということだ)
その現実が彼を駆り立てる。大蜘蛛を殺さねばならないと固く決意をして、足を動かした。
「絶対に見つけ出してやる……!」
そう言った康平の声色には、今にも溢れだしそうな、炎のように熱く滾るほどの憎悪が漏れ出ていた。
もうすぐ7月になろうとしている時のことであった。
時は遡り、鬼ごっこから逃げきれた大蜘蛛は中央区の北側へと移動していき、姿を隠して身を潜めていた。今回起きた出来事に対し色々と思う所があるのか、ひたすらに呟いている。
【あの鬼め、まさか人間と組んでいるとは思わなんだ。しかも人間を一時的に我らと同じ存在へと化しておる。驚きはしたが、何ゆえ人間と組んでいる?
おそらくは以前の儂と同じく、人間を使わねば力が取り戻しきれんからだろうが……いや、そうだとしても可笑しい。間違いでなければあの鬼は人間を手放し、喰ろうてもよい程に強まっておるはず。何が目的だ?】
しばし考えに耽り、思考を巡らせていると、自身との共通点と思わしきものが過り、同じ目的なのでは無いかと考えた。しかしそれでも疑問は残る、それならば人間と組んで同胞狩りのような真似はしなくても良いはずなのだ。それだけが大蜘蛛を悩ませていた。
そのような時間を過ごしていると、風が吹いた。何の取り留めもない風なのだが、大蜘蛛は風の行き先の方へと視線を移す。その先に居たのは黒翼を広げ、悠然と空に立つ烏の人型。忌々し気に大蜘蛛はそれを見上げ、問いただした。
【何の用だ烏天狗。あの名無しの腰巾着風情が、一体どういう了見で儂を見下ろしておる? その両翼を捕らえてもいで喰ろうてくれる】
【一々突っかかるな、低能がバレるぞ。もうバレているか】
【この儂に向かってそのようにほざくとは、今すぐにでも始末してくれるわァ!】
大蜘蛛が吠える。ビリビリと空気が震えるようなプレッシャーが放たれるが、烏天狗は特に意に介さず淡々とここに来た用事を伝える。
【悪いがここに来たのはお前と話をするために来たわけじゃない。名無しからの通達があるんで伝えに来ただけだ】
名無し、という一言で大蜘蛛はスッと血の気が引いたかのように黙った。
【今回は両者ともに主催側が敗北し、挑戦側が勝利した。引き続き、大蜘蛛は遊戯を続けて良いとのことだ……それとは別に、違反行為があったと思われる行為について言及させてもらう】
大蜘蛛は、烏天狗の発言した違反行為に心当たりがあるのか、表には出さず僅かに動揺する。
【名無しは今やこの三沢市の全てを支配している。お前らはあくまで間借りしてるだけ、だからこそお前みたいな奴が規則を侵せば、すぐに気付くってことを忘れるな。下手な言い訳は余計に自分の首を絞めることになるぞ】
【チッ、言われずとも理解しておる】
【では――今回の遊戯終了時、お前の管轄外支配域の人間に、蜘蛛の埋め込みが確認されたと報告を受けた。事実か、否か?】
【事実だ】
【それが違法行為であることは理解した上での行動か?】
【さてなぁ、物忘れが激しいのでなぁ】
【正直に答えなければ、領域の縮小と力の一部を没収するそうだ】
【チッ、知っておるわそのぐらい】
【違法行為であることを認めると?】
【認めざるをえんだろうが、このような問答は!】
大蜘蛛が怒りで吠える。証言を聞き終えた烏天狗は、気にせず言葉を続けた。
【なら良い。罰則として、12ヶ月間は挑戦者側に有利な条件で遊戯をするように。次に違反行為が確認されれば、容赦はしない】
そう言い終えると同時に、強い突風が蜘蛛の真正面から吹きすさぶ。咄嗟に二対の脚を使って目を守り、やがて風は止み脚を戻すと烏天狗は居なくなっていた。舌打ちをして、思考を切り替える。
【まぁいい、この程度の罰則ならばどうということはない。問題はあの2人組、はてさてどのようにするべきか】
そうやって悩みながら、大蜘蛛は夜明けの光から逃れるように陰へと隠れた。
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