第23話 被食者

 ともに上空へと引っ張られ、男と康平は5階建てのビル屋上に放り出される。男の方は勢いのまま五体投地の状態で着地し、康平は着地して1度転がっただけで特に負傷も無く、体勢を整える。


 周囲の色は赤黒く染まっており、ここが領域であることを知覚するのに時間はかからなかった。ようやく追い詰める事が出来たと考えている康平は、今いる場所がどのような場所なのか確認した。


 確保された視界から貯水タンクと、やけに低い位置にあるビル群を捉えたことで、康平は今いる場所がどこかの屋上らしいとアタリをつける。その後すぐに大蜘蛛がどこにいるのかと見まわしていくが、駈剛が彼に向って口を開いた。



(おい小僧、まずは対象の保護だ。大蜘蛛の捜索は要らん)


「あぁ?」


(どうせ大蜘蛛はこちらに向かってやって来る。対象を領域に連れ込んだのだ、先に安全を少しでも確保させろ。……今までやってきた事だろう)


「どうした急に、怪異ともあろうお前が人の心配してるのか? どんな風の吹き回しだよ」


(良いから、やれ)



 ドスの利いた声で康平に向かってそう言った駈剛には、どこか怒りを感じてるようにも聞こえた。その圧に気おされ、渋々ながら彼は大蜘蛛の対象である男を保護するために近寄って声をかけた。



「おい、アンタ」


「へ、へ」


「はぁ……、ほらさっさと立て」



 康平は男に向けて手を伸ばす。弱弱しくも男は伸ばされた手を掴み、引き上げられて地に足をつける。そして同様に男も辺りを見渡して、ここが現実ではないことを頭で理解できずとも、もしかするとそうなのではと思い込まざるをえなかった。



「こ、こは……?」


「アンタを狙ってる大蜘蛛の領域だ。中央区の景色に似てるが、作られた世界だから本物じゃない」


「りょ、領域? 現実じゃないって?」


「すぐにわかる。本来はアンタだけを狙ってこの世界に引き込んだんだからな」


「へぇッ?! す、すぐにここから逃げないと!」


【逃げられると思うてか? 人間】



 この世界に、重低音の声が響いた。聞いた者の心を恐怖で鷲掴むような、おどろおどろしい声がこの領域の中を占めた直後、康平らの頭上に影が出来た。すぐに男を抱えてその場から離脱し、距離を取って先ほどまで居た場所に着地した領域の主の姿を捉える。


 彼らの目の前にいたのは、とてつもなく大きなジョロウグモ。今康平らが立っている場所を含め縦に2つ、横に2つの、計4つほどの建造物の屋上を足場にするほどの大きさだ。


 目は大きく目立つものが4つ、彼らを視界に収めていた。備えられた牙がギチギチと擦り合わせられて音が鳴っている。獲物を目の前にして舌なめずりをしているかのように。


 それとは別に目の前の大蜘蛛以外に、周囲から無数の何かが彼らを取り囲むように集う。やってきたのは黒い波、ではなく密集した大量の蜘蛛。多種多様な蜘蛛の大群が、波という形を伴っていたのである。それに気づいた男は背中に悪寒が走り、悲鳴をあげた。


 蜘蛛の群れは2人からおよそ10mあたりの位置で取り囲み、その場から動くことなく見つめた。そういったところで、大蜘蛛は話を続けた。



【こちらに招いたのはそこの人間だけなのだが、よほどの死にたがりが紛れ込んだか】


「誰も死ぬ気なんざねぇよクソ野郎。それに、こんな簡単に領域に入れたんだ。どんだけ間抜けな奴か、面を拝みたかったぜ」


「ちょ、ちょっと!」


【べらべらとよく回る口だ……あぁ、成程そうか。オヌシか、儂のことを嗅ぎまわっているというのは。かようなガキがそうだとは、何の力も持っておらぬ死にたがりだったとは珍しいが、オヌシの様なガキに何が出来るわけでもあるまいに】


「喋ってんのはお互い様だろ? それと、お前みたいな怪異が世の中を語ってんじゃねえよ。第一お前みたいな馬鹿どもが、オレの日常をぶっ壊してるんだろうが。自分の事を棚上げしてんじゃねえ」


【よく吠える口だ、野犬でも儂の実力を悟れるというのに。遊戯でオヌシが負けた暁には、その体を蜘蛛どもの肉巣にしてやろうぞ】


「ならこっちはお前のそのデカい図体をすり潰して焼却炉行きにしてやる」



 互いに一歩も引かぬ舌戦が繰り広げられ、しばしの睨み合いが康平と大蜘蛛の間で続く。しかし、大蜘蛛はその静寂を断つように嘲笑すると、康平の後ろに隠れていた男がまた悲鳴をあげた。


 振り向けば、そこにはあの大蜘蛛には劣るが全長170cm程度の蜘蛛が4匹、小さな雲の絨毯の上に姿を現している。その4匹の蜘蛛は長い第一脚で素早く掴むと、そのまま連れて飛び去った。



「なっ!? 」


【だがオヌシを倒すのはあとだ。先に目当ての人間をむさぼり喰らってからよ!】



 そう言って蜘蛛は跳んだ。すぐに追いかけようとしたが、周囲を取り囲む蜘蛛の群れが壁を作り進路を塞ぐ。



「くそっ!」


(下手に動くな。この蜘蛛ども、かなり素早い上に統制も取れておる。動きの起こりに反応して、閉じ込めることに特化していると言っても過言ではないぞ)



 その駈剛の言葉に舌打ちし、動けないままの康平は連れ去られた男を探す。周囲を見回して、すぐに男は見つかったものの、異様な光景を目撃する。


 康平の左側、ビルなど何もない空中に男を乗せたあの人間ほどの蜘蛛が鎮座している光景だった。そしてすぐ、領域内の全てに響き渡る重低音の声が彼らの耳に入った。



【これより、蜘蛛のシルシが刻まれたお前は、儂と遊戯をしてもらう。 その名も――『蜘蛛の巣』!

 勝利条件は1つ、この六角形の蜘蛛の巣を伝い、まっすぐ進んだ先の建物に辿り着くことのみ。遊び方は単純。

 シルシを刻まれたお前は自身の手番に必ず2度、駒を動かさねばならぬ。ただし全方向に2度移動できる。

 儂は自身の手番に必ず駒を動かさねばならんが、全ての駒を1度だけ、後ろ以外のすべてに動かせることができる。

 お前は勝利条件を達成できれば勝ち、儂は3体の蜘蛛を動かし妨害する。お前は囲まれ、追い詰められれば、負けよ。

 尚、4つの縦糸に架かるように繋がれた、8重の横糸は移動するときに回数を要するのでな、留意しておくように。


 では、始めようぞ! 死出の旅路となる遊戯を!】



 康平はただ、困惑する状況に陥っている男を見ているだけしか出来なかった。








 男はただ呆然とするほかなかった。男にはまだここがどのような場所で、自分の下に居る人間ほどの蜘蛛や大蜘蛛が何なのか、あの少年康平が何なのか、そして今何をさせられているのか。全くもって理解が及んでいない。


 ましてや、今この時が夢ではないかと思うほど現実味を帯びていない。今自分は夢の中に居て、現実の自分はまだ眠っているのかもと考えていたところで、大蜘蛛の声が領域に響いた。



【どうした人間? お前の先行だぞ、はよう2回動かせ】



 大蜘蛛からは、問いかけ。声のニュアンス的に疑問を呈しているように聞こえたが、男の方が色々と聞きたい。なので男はおそるおそる尋ね返した。



「えと、その。幾つか聞いてもいい、ですか?」


【何だ、申してみよ】


「あのぉ……ここって、なんなんですか?」


【あ?】


「そんな恰好してるのって、ここが自分の夢の中だから、なんですよね。だからこんな非常識なことばかりが起きてるんですよね」



 大蜘蛛は何も言わない。ただ黙って男の言い分を聞き、男の意図を考えた。少しの間黙っていたことが、男にとっては肯定と受け取ったのか、安堵の溜め息をついて言葉を続けた。



「や、やっぱりそうだよな! こんな景色が現実なわけないもんな! これは夢なんだ、そう夢! だから滅茶苦茶デッカイ蜘蛛とか、滅茶苦茶いっぱい蜘蛛が居るんだよな! うん、そうだよな!」


【……なるほど、そういうことか】


「あ、分かってくれたんだ。夢の中なのに何か物分かりいい――」



 な。と最後まで言おうとしていた男の頬を掠めるように、何かが真っすぐ飛んできた。それは通り過ぎて行ったが、男は何かが掠った自分の頬を撫でて、変な液体に触れたことに気づき、それを見た。


 自身の手に付着している、自分の真っ赤な血を。



「うああああ!?」


【お前はそう、これが現実ではないと誤解しているようだったからな。儂が現実を見せてやったわい】



 男の息が荒くなり、膝に力が入らなくなり始めた。すぐに逃走を図ろうとしたが、下を見て踏みとどまった。下にはアスファルトの道路、なんのクッションも無ければ誰かが下で待って救助の状態にあるわけではない。待っているのは、死一択。



【言っておくが、確かにここは現実とは言い難い】



 大蜘蛛はそう答える。男は恐怖の淵に立たされながら、発言の意味を回らぬ頭で考えた。



【ここは領域。儂のような存在が持つ、儂だけの狩場。お前が住んでいる世界とは隔離された世界、ゆえに現実とは言い難い。……だが本物だ。

 ここで起きたことは紛れもなく本物で、お前は傷つけば普通に血を流し、お前は死を選べば当然のごとく死ぬ。そうした当たり前が、この領域にはある。

 この領域から抜け出したくば、この遊戯に勝利しろ。それ以外に助かる道など無いのだからな】



 男はやはり、この大蜘蛛の言っていることが殆ど理解できずにいたが、同時に確信した。ここは夢の中ではない、ましてや自分が明晰夢などを見ているわけではない。


 今人間ほどの大きさの蜘蛛に乗っているのも、あの時見た小さな蜘蛛の大群も、紛れもない本物であるのだと漸く理解した。理解してしまった。それに気づかず、このまま飛び降りでもすればまだ救いようはあった筈なのだから。


 男がどうすればいいか困惑したままでいると、大蜘蛛はただ一言発した。



【この遊戯をやらねば、儂の不戦勝として扱い、お前を餌として喰らう】



 一瞬で男から血の気が引いた。見るからに顔は青白くなって閉口しているが、大蜘蛛は続けて言った。



【まずは子蜘蛛どもがオヌシに噛み付き、毒を流し込もう。痛みに悶えるサマを見届けるのは良い、もがき苦しみ苦痛の叫びは良い音楽となろうて。

 次に糸でお前の全身を巻こう。息が出来ぬままゆっくりと動かなくなるさまは、見ていてとても面白い。死んでなお痙攣して動くサマはとても無様で、死してなお踊っておるかのようだ。

 そしてお前の肉体を溶かして喰らおう。本来は前述した2つの行為なしに、儂の胃液でドロドロに溶けて叫びを聞きながら喰らいたいが、今は踊り食いの気分では無いのでな。

 だが踊り食いはいい! 時折そうして喰らうと、命が燃え尽き恐怖の表情を浮かべて懇願するのだ。哀れにも、儂に向かって助けてと……これほど笑えるものはどこを探しても見つからんのだ、これが!】



 大蜘蛛は最後に、不快に豪快に笑った。領域の全てに届くような音量で、ただただ男を恐怖のどん底へと引き込んでいく。


 男は、今相対している存在が自分の常識に当てはまらないことに困惑した。なぜこうも人を陥れることが出来るのか、全くもって意味が解らなかった。なので問いただした。



「な、なんで……なんで人間を襲うんだよ!? というか何で俺なんだよ?! 他の奴でも良かっただろ! 何で!?」


【何を言うのかと思えば、そのようなことをなぜ聞く?】


「はっ?」


【普通にであろう。お前は腹が減ったからという理由で命を食すことを、可笑しいと唱えるのか? それこそ意味が分からん。

 それに選んだ理由など大したものではない、ただお前が1番美味そうであったからにすぎん】


「そんな、そんなバカなこと、バカな……」



 男はついに力が抜けて蜘蛛の背に膝を着いた。話していて、こうも違うことを知らしめられた。この大蜘蛛にはどんな常識も通じないことを味わされた、そして全く受け入れがたい物でもあったために、男は怒り狂う。



「そんなバカなことが罷り通っていいとでも思ってるのか!? お前は!」


【ではお前は誰かの許しを請わねば、まともに食事も出来んのか! これは滑稽!

 ここは儂の世界よ! 儂の世界で儂が何をしようと知ったことではないわ!】



 大蜘蛛の叫びに呼応してか、人間大の蜘蛛が第一脚を上げ、康平の身動きを封じている子蜘蛛の大群は波のように蠢く。蜘蛛に対する嫌悪感と、恐怖心が心内を

侵食されていく感覚を男は感じ取っていた。



【それより、良いのか? このままでは儂の不戦勝となり、餌になるぞ。ん?】



 大蜘蛛は煽った、嘲笑った。下衆な笑い声がこの領域を支配し、もはや逃れられないと漸く理解した男は、もう自暴自棄になっていた。



「…………って……る」


【あぁ?】


「やってやるっつってんだよ! もし本当に勝てたら、ここから出してくれるんだよな?!」


【それはお前次第よ。やるのなら、さっさと駒を動かせ】


「妨害を躱しながら、向こう側まで行けばいいんだろ。だったら!」



 男は覚悟を決めたのか、やけっぱちになったのか自分でも分からずにいた。ただそれでもやらなければ、あの大蜘蛛に食われるぐらいなら、死ぬぐらいなら、生き延びてやると自身に誓う。


 そして男は、駒を前に2つ進めた。これでもう後戻りは出来なくなったことを想起したが、迷っている暇はなくなっていた。



「これで良いんだろ!?」


【ようやくか、餌如きが待たせおって。では遊戯を始めるとしようかァッ!】



 大蜘蛛は全ての駒を1つ前進させる。そうして手番が回ってくるたびに前進していたが、蜘蛛の巣の中心に男を乗せた人間大の蜘蛛が到達した所で、男は右に2つ移動した。相手の駒は手番に1回ずつしか動かせないが、対してこちらは2回動けるのだ。


 この遊戯をしていて思ったのは、まるで負ける要素がどこにも無いということ。このまま後ろに下がる事の出来ない相手の駒を振り切って、向こう側の建物に辿り着いてやると意気込んだ。


 そのように男が動かし、次は大蜘蛛の番。なのだが、相手の駒は一向に動きを見せない。長考しているのかと考えたのも束の間、大蜘蛛は静かにクツクツと笑い始めた。一体どうしたのか思っていると、大蜘蛛は声を発した。



【このまま縦糸を伝って、後ろに行けない儂の駒を振り切れば勝ち。そう思っておるな】



 男は何も言わない。答えることで自分の考えを見透かされているという表情を、表に出したくなかったためである。しかし大蜘蛛は、そうやってポーカーフェイスをしている男に告げた。



【ハッハッハッ、そう構えるな。もう何度も見て知っておるからな】


「……はっ?」


【おぉ、そうだ。言い忘れていたことが1つあったな、いやはやうっかりしておるのぉ】



 呆気に取られる男を無視し、大蜘蛛は男から1番近い自身の駒を動かした。1、男の進行方向を塞いだのである。



「はああああ!?」


【儂の駒は、5重目からの横糸は1度の移動で別の縦糸に移ることが出来るのよ】


「ふ、ふざけるな! こんなのはタダのズルだろうが! やり直せ!」


【伝え忘れておったと言っただろう、ズルではない。それにもしも儂が規則に違反しておれば、お前はすぐにでも解放されている】


「誰がそんなこと信じるか! やり直せ! ここから出せ!」


【残念だが、中断は出来ぬ。それに、今領域から出てしまえば……下を見れば想像がつくだろう?】



 大蜘蛛はせせら笑いながらそう言って、男は歯噛みする。下はアスファルトの車道であるため、もし今この空間から出てしまえば命の保証は無いだろう。


 そして盤面は、大蜘蛛に傾いた。横糸への移動回数に引っかかり、手番が経つごとに追い詰められていく。そうして男は、横糸の上で身動きが取れなくなり、逃れることができなくなった。即ち――



【詰み、だな】


「や、やめろ……やめろ」


【残念、とは微塵も思わんが。そういう決まりなのでな】


「いやだあああああああ!」



 男を運んでいた蜘蛛が離れた。倒れた体に横糸が引っ付き、身動きが取れなくなった。そして男の周囲に子蜘蛛の全てが集い、その肉体を包み込んだ。

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