第20話 潜む悪意
時間だけはいつもの様に流れ、6月25日土曜日。普段よりも遅めの7時10分に起きた康平は、引き戸越しに何かが焼ける音を聞きながら部屋を出た。蛍光灯の明るさが場を照らしているが、普段なら使用せずとも自室のカーテンと引き戸を開ければ十分に明るい。
「康平おはよー」
「おはよう母さん」
朝の挨拶を交わした後、少しだけ軽くなった足取りで引き返して自室の窓を開けると、空は灰色の雲に覆われており、太陽の陽射しがほとんど届いていなかった。灯りをつけている理由が判明したところで窓を閉めようとした途端、部屋に侵入してくる小さなハエトリグモを目にした。
その素早さに感嘆しながら、壁に貼り付くハエトリグモを両手を使って追い込んで捕まえると、康平はベランダに出て外に放った。手のひらと甲を見て蜘蛛が居ないことを確認すると、室内に戻って窓を閉めたあとプラスチック製の取手を動かし鍵をかける。
「康平、どうかしたー?」
「何でもないよ、ちょっと天気を確認したかっただけ」
少々間延びした物言いで尋ねてきた母親に康平はそう返す。特に何か言及することもなく康平の母は料理に集中し、7時15分に朝食が用意され2人は早速食していく。コッペパンと炒り卵、よく焼いたソーセージとカリカリのベーコンに加え千切りキャベツにスライスされたきゅうりと、普段は白飯が主な2人にとっては少し珍しい朝食であった。
康平はコッペパンに千切りキャベツを敷き、次いでベーコン、炒り卵、ソーセージを挟み1口食べた。ソーセージからにじみ出る肉汁とベーコンの油分が味付けとして機能し、炒り卵とキャベツが程よく味を整える。2口目はマヨネーズをかけ頬張った。
よく
そのような朝食を摂っていると、康平の母が所有する携帯から着信音が鳴る。少し訝しげに電話を取った彼女は、内容を聞いてか物を詰まらせかけた。慌ててコップに入った飲み物を手に取って中身を飲み干すと、「えー!?」と驚きと焦りと煩わしさを含んだ表情をして、「今から行くから20分だけ待ってて」と言って電話を切ると2本目のパンに急ぎ具材を入れ、早急に胃の中へと流し込んだ。
「急用?」
「そーなのよ! 今やってる企画の予算提案書が見つからないって連絡きてさぁ」
「聞くからにヤバそうな事になってるじゃん」
「いやホンっトそれ。だからすぐに行かなきゃならないのよ、見つかったらすぐ帰ってくるから」
「事故だけは起こさないでね」
「もちろん」
そういった後すぐに支度を始め、10分ほどで最低限の化粧などを済ませてすぐに玄関で靴を履く。
「行ってきます!」
「行ってらっしゃい」
慌ただしく出ていく母を見送り、残された康平は3本目のコッペパンを手に取って今度は順に炒り卵、ベーコン、ソーセージとタンパク質オンリーの組み合わせに仕上げ、ケチャップを上からかけて食す。口の端にケチャップが僅かに付くも、気にせず食べ進めていこうとして、駈剛が話しかけてきた。
(居なくなったな、今からでも探索に入れるぞ)
「先に用事済ませてから」
(お前なぁ、ここはすぐにでも動いていいと思うところだろう)
「僕学生、そろそろ期末テスト、勉強する必要あり、わかる?」
(まったく、めんどうだな人間というのも)
「ただでさえ忙しい時期なのに、怪異を探して退治する時間を作ってるんだから文句言うなっての。それに今日はあくまでも複数人で動くんだから、勝手な行動は慎むのが普通」
(怪異に人間の常識を説いてもな)
面倒そうな物言いでそう答えた駈剛のことを置いておき、康平は口周りをティッシュで拭きとり綺麗にしたあと9時頃まで勉強に励んだ。およそ1時間半と普段より短い勉強時間であったが、集まる用事を約束しているため一時中断して外に出かける準備をする。
集合場所は中央区の立体橋、東側出入口。SNSに投稿されていたあの場所である。
電車に揺られ、目的地付近の駅に降りて徒歩移動することおよそ45分。件の場所に到着していた康平を待っていたのは、人だかりであった。聞き耳を立ててみると、どうやらあの映像を見て面白半分に来た者たちが集ってきているようだと理解する。
鬱陶しさを感じて溜め息を一つ。携帯を取り出し、既に来ているとグループメッセージを入れた東堂を捜して辺りを見回し、ちょうどよく付近のコンビニから出てきたところを目撃する。向こうも康平のことを視界に捉えたようで、ひとまず合流した。
「おはよう、着くの早かったね」
「少しばかりこの辺りを調査したくてね。まぁこの人だかりで思うようには動けず、大した成果は出て無いがな」
「まあそう簡単には行かないよね。……にしても人が多い、あの明度を上げた画像が出回ったとか?」
「よくわかったな」
「思いついただけ。とはいえ、そうだとするとかなり面倒だね、この状況」
「ニュースではフェイク映像ではないかと報道されているが、あの画像が出回ったこともあって面白半分で訪れている輩が多い。言えた義理ではないが、余計なことに首を突っ込むのは止せばいいのにな」
(そればかりは今も昔も変わらんがな。寧ろ情報が一晩も経たず拡散している辺り、昔より面倒なことになっているのやもしれん)
駈剛の発言には答えることなく、康平は写真や動画などを撮っている人だかりを見る。怪異の世界を知らず、怪異の恐怖を知らずに生きる人々を見て康平は守らなければと思うことは無く、けれど理不尽を振りまく怪異を倒さねばと改めて誓った。
およそ10分ほど待ち、晴彦と内田が合流したところで東堂の提案をもとに動くこととなった。あの大蜘蛛が関係しているであろう、投身自殺が起きた商業ビルへと向かう。この立体橋から歩いて15分ほどの所にあるので、4人はあまり離れないようにそちらへと行く。
その道中、ふと晴彦が足を止めた。頭の右側に手を当てて視線を
「綾部君、どうした?」
「あの、何か聞こえませんでした?」
「いや、私は何も」
「僕も特に聞いてないけど、駈剛は何か聞こえた?」
(知らん)
「知らないみたい」
「自分も特に聞いてはないが、ふむ……ふむ?」
「あ、その! ボクの空耳かもしれないから、気にしなくていいよ! それより、今は現場に行こう」
ひとまず晴彦が感じとった何かの正体を探るのはさておいて、彼らは目的地へと向かった。辿り着いた先に待っていたものは、土曜の10時頃というだけあって人の往来も殆ど無い様子だった。
車道と歩道の区分けのための白線が1本だけ引かれており道幅も狭く、ここを通る車が減速してゆっくりと移動しなければならない。そのような場所に件の商業ビルはあり、早速康平はその目で記憶の残滓を視た。
ビル前にただ突っ立つ青白い男を目撃すると、車や人等が来ていないか確認してからそれに触れる。最初は地面と衝突して死んだであろう場面から始まり、そして逆再生のように上へと昇っていく男を見上げたは良いものの、視認できる大きさでは無くなったそれをどう見るかという悩みにぶつかった。
「あー、双眼鏡持ってくれば良かったかも。高くてどうなってるかよく分からないや」
「双眼鏡なら持ってきてるけど」
「あ、じゃあ少しの間だけ借りても良い?」
「いいよ、使って」
晴彦は自身の鞄から小型の双眼鏡を取り出し、康平に手渡す。いつも持ち歩いているのかと東堂と内田の2人は話していたが、それを気にすることなく康平は記憶の残滓を見る。その様子を傍から見ていた東堂が訊ねる。
「湖里君、一体何を?」
「記憶の残滓っていう……まぁ、死んだときの一部始終を見てる。
「死んだときの一部始終」
「うん、そう。おっと、そこで終わるのか」
当たり前のようにそう言った康平の言葉にオウム返しした東堂だったが、当の彼はすべて見終えたので双眼鏡を晴彦に返すと、1度見たものを整理したいので広場へと向かうことを提案し、全員そのように動き広場で康平が見たものを聴いた。
「さっき一部始終を見て分かったんだけど、投身自殺って様子じゃなかった。確実に第三者がいたような行動をしてたよ」
「本当か、それは?」
真っ先にそう訊ねた内田に頷き、言葉を紡ぐ。
まず15階建てのビル屋上に居た男は、何かに向けて叫んでいるような様子であったという。屋上に設置されている手すりを越えたところで記憶の残滓は止まってしまったが、康平はそこで奇妙なものを目にした。
「気になったんですけど、自殺を図るような人って落ちる前に手を押さえるような真似ってしませんよね?」
「手を押さえていた? どういう風に?」
「押さえていたっていうのも、こう一瞬の内に……そう、反射的にって感じでしたね。何かが起きて、そこで反射的に手を押さえたような」
「反射的に。なるほど、もし大蜘蛛と関りがあると仮定するならだが、もしや噛まれたのかもしれないな。おそらく他の蜘蛛を操っている可能性があるぞ」
「……まさか、今もこうして蜘蛛が見ているってこと?」
晴彦のその発言で、4人は周囲に視線を移す。子どもらが設置された砂場や遊具で遊ぶ姿、自身の子どもに付きっ切りだったり複数人の母親が集まって話している様子、ベンチや石のスツールに座って携帯を見やる男女様々な人々を見かけるが、少なくとも蜘蛛は今のところ見当たらなかった。
「――――あれ?」
「綾部君、どうした?」
「いや、少しだけ気になって……気のせい?」
「また空耳か?」
「あ、いや今度は空耳じゃなくて。多分気のせい、いやどうなんだろう?」
「何か気になったのなら、何でも言ってよ晴彦君。もしかしたら何か手掛かりになるかもしれないし。」
しばらく悩むそぶりを見せていた晴彦は、若干言いよどみながらも彼自身が気になった違和感を言った。ただ一言、鳩が見当たらないと。
「鳩? まぁ確かに、見かけないが」
「普通なら人が居るのもお構いなしに歩いてたり、木に止まっていたりするから少し気になって。多分どこかに居るんだろうと思うけど」
「子どもも居るし、案外追いかけられたばっかりで、どこかに逃げてるとか」
「そう、かなぁ?」
悩んでいる晴彦にそう言った康平であったが、憑りついている駈剛はどのような情報があの大蜘蛛と繋がっているのか判断材料が少ないため、その意見を頭の片隅に入れておいた。そうして11時10分ほどまで考えてであったが、考えが煮詰まってきたため探索を再開することとなった。
歩いて中央区の探索中、4人は道行く人にチラシを渡そうとしている1人の女性を見かける。何やら切羽詰まった様子で頭を下げて懇願している様子に、康平は自然と足を動かしていた。女性は近寄ってくる彼に最初こそ気が付かなかったものの、気付くや否やノータイムでチラシを差し出した。
それを受け取り、康平は内容を見る。ざっと見て、名前や男の人相だと分かる画像などが掲載されており、デカデカと大きく赤い文字で”捜しています”と書かれているのを見れば、誰がどう見ても行方不明者の捜索のためのビラであった。あとから来た3人にもそのチラシを見せて、康平はその女性に訊ねた。
(おい小僧)
「すいません、いくつかお聞きしても?」
「は、はい」
「このチラシに載っている方はいつから行方不明に?」
「3週間前です。当時は飲みに行くから帰りが遅くなると連絡を貰ったのですが、朝になっても帰ってこなくて。職場の同僚の方にも連絡してみたけど何の手掛かりも見つからず」
「成程」
「何とか当時一緒にいた同僚の方とお会いして話をして、主人と別れた居酒屋の近くを調べ回ったんです。そうしたら、居酒屋と右隣のビルの間の路地に主人の携帯だけがあって。何かの事件に巻き込まれたんじゃないかって警察に相談したんです。でも見つからず、結局捜査は打ち切られてしまって……!」
そこまで言って女性の声色がくぐもり、涙を堪える。色々なものに縋り、そこで何も見つからなかったのがかなり響いたのが見て取れるぐらいに、女性の顔は焦燥に駆られているのだから。女性は藁にも縋る思いで康平に頼んみこんだ。
「お願いします、何か主人のことを知っているのならどんな情報でもいいんです。教えてください……!」
「僕にできる限りであれば。何か分かったら連絡します。ご主人が訪れていた居酒屋の名前は分かりますか?」
「かめぼり
「ありがとうございます」
一礼をして、康平はその女性が言っていた店の名前を携帯のマップ機能を使って調べ、ルートを確認する。3人にその店まで行ってもいいか了承を取り、彼らはかめぼり中道通店へと向かった。その道中に駈剛が口を出してきた。
(小僧、余計な事を安請け合いするな。今回の件とは関係ないやもしれんのに)
「関係ないとは言い切れないだろ。あの大蜘蛛がいつから居るのか、こっちはまだよく分かってないんだ。関係ありそうなものは片っ端から調べていった方がいい」
(徒労に終わらなければいいがな。それに関係が無ければ面倒な事が増えただけではないか、顔も覚えられてあの女と一生関わるのやもしれんのだぞ?)
「……その時は、その時だ」
駈剛から大きな溜め息が吐き出される。これは手の施しようがないとすぐに悟り、それ以上語りけることは無かった。
件の居酒屋には、徒歩で向かって20分ほどで到着した。この時間帯は閉まっているため、”現在まごころこめて準備中”と書かれた看板が店の扉に立てかけてあった。そこから少し進んで右隣のビルとの間にある路地を見つけると、4人は何か怪しい点が無いか調べ始めた。
とはいえ3週間前の出来事を今更調べていても何か手掛かりが残されているわけでもなく、康平も反応を探してみるが全く掠りもしない。しばし考えていると内田の声がして3人とも彼の方を見た。何やらワタワタしており見えない何かを払いのけようとしている。
「どうしました?」
「蜘蛛の巣に引っかかったみたいだ。くそっ、何でこんなところに」
「ここにも蜘蛛……。いや、これはどうなんだ?」
(流石に考え過ぎだ。それより中央区を巡って怪しい点が無いか探す方が早い。さっさと移動するぞ)
「んむぅ」
まだまだ探し足りない様子なのは隠そうともせず、しかし進展もないため渋々ながら康平は3人を集めて中央区全域の探索に戻っていくのであった。
そうして去っていく4人が先ほどまで居た路地に、建物の陰に隠れるようにしてぞろぞろと小さな何かが現れる。その小さな何かの群体はすぐに散開し、その場から姿を消した。
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