嘲りと縁

第19話 横糸の交わり

 何もかもが眠りわびしさを覚える新月の丑三つ時、雨の匂いが漂う日に中年の男が何かにおびえながら15階建ビルの屋上を後退りしていた。やがて後退できる道が無くなり、男の肘当たりの高さの手すりと軽くぶつかって、逃げ場が失われていたことを男は否が応でも理解せざるを得なかった。



【往生際が悪いぞ、人間】



 男が追い詰められている要因が言葉を発する。夜闇の中で赤く妖しく光る4つの球体が男を見据え、腹から底冷えする声色とともに何かがカチカチと鳴る。直後、暗闇の中から音も無くぞろぞろと現れた。そして男は街灯の範囲に入ったそれらを見た。


 蜘蛛であった。屋上の床一面を覆いつくすほどの小さく多種多様な蜘蛛が男を取り囲み、生理的な嫌悪感が心内を支配する。今にも逃げ出しそうになるが、後ろを見てもそこに道は無く死への特急便が待っていることを改めて自覚させられた。咄嗟に男が口を開く、生の欲求に従って。



「お、俺はお前に協力しただろ! お前だけじゃ人間を捕まえられないって、だからそうしてやったのに!」


【協力ゥ? カカカカッ、何を言うか。お前は儂を都合の良いゴミ処理程度にしか思っておらんくせに、随分と棚上げしよる】



 その発言に呼応するように蜘蛛が揺らめき、跳ね、人間には聞こえない音を出す。人間の可聴域外にて発せられる音は、しかして男の中にある恐れを助長させ思考を止めさせる。



【それにだ、儂は言うた筈。日に1人、にえとなる人間を差し出さねば、貴様を喰らうと。よもや忘れたわけではあるまいな? そうでなければ世迷言など抜かすまいて】


「い、いやだ……いやだッ! 俺はまだ、死にたくない!」



 男は無数の蜘蛛から背を向け、手すりを乗り越えてビル屋上の縁に立つ。落ちればただでは済まない高さを見下ろし唾をのむが、それでも蜘蛛から逃れられるなら。まだ生き残る可能性が万が一にでもあるのなら。そう考えながら、背後にいる存在に向けて叫ぶ。



「お、お前は俺がいなけりゃ! 俺が居なかったら、もう人間を食えなくなるだろ! なら俺を殺すなんて真似できるのか?! むざむざと見殺しにしてもいいのか?! なあ!」



 背後にいるそれは何も言わない、ただ黙っていた。そのような時間が数分続き、いやに冷たい汗が男の頬を伝って落ちる。それは夜闇の中で何の行動も起こさずにいたので、男は危機的状況だというのに笑みがこぼれた。自分を殺すつもりがないと判断してのことだった。



「は、ははははっ! やっぱり殺せないか! そうだよな、殺せるわけがないんだものな! お前は絶対にどうしようもでき――い゙っ?!」



 男は突如やって来た、両小指への痛みから咄嗟に手を放した。その直後、軽く背中を押されて男は落下した。わずか3秒ほどで地面に叩きつけられた男は、何が起きたのか分からぬまま死を待つ。


 薄れていく視界が最後に見たのは、2匹の小さな蜘蛛だった。






【残念ながら、もうお前は必要無くなったのだよ。まあ、既に聞こえはせんか】



 夜闇に隠れながら、それは言う。


 あの男に対して何の情も抱くことはない、なぜなら人間ではないから。


 男は自分が特別だと錯覚していた。しかしこれにとって人間とは餌であり、疑似餌であった。それ以上の何かを持ち合わせることなど、全くない。


 ともあれ、それは男に対して芥子粒程度の感謝はあった。おかげでこうして領域を広げられたことで、もっと多くの人間を捕食できる機会が増えたのだ。思わずほくそえんで、すぐに思考を切り替える。



【おっと、いかんいかん。念のために仕込みをしておかねば。あの共に儂の行いがバレれば、何をされるか分かったものではないからなぁ】



 そのように独り呟き、それは夜闇からも消え去った。4つの球体も、無数の多種多様な蜘蛛も消えていた。残されたのはアスファルトの地面に横たわったまま、血だまりを作る死者のみだった。







 梅雨も明けようとする6月末ごろ。本日は雨の降る日、晴れの時と比べて外は暗く、携帯のアラームで夢から覚めなければ起床することさえ難しい。そんな中康平は目覚ましが鳴るよりも早く起きて、携帯を操作しアラームを解除する。


 両瞼に若干の重さを感じながら、僅かに左側に重心が寄っているが、ゆっくりとした足取りで部屋から出て洗面所へと向かい、顔を洗って眠気を覚ます。タオルで顔の水気を拭き取り、タオルを洗濯籠に入れてから次に台所へと向かった。


 エプロンを着用して、冷蔵庫から「鯖・竜田揚げ」と油性マジックで書かれたフリーザーバッグと、「人参と大根のマリネ」と書かれた名前シールを貼り付けた容器を取り出す。最初にフライパンを乗せているコンロに火をつけ、程よく暖まったところで油を加える。


 菜箸を手に取った康平は油の具合を確認し、フリーザーバッグを開けて中からカットされた鯖の切り身を並べていき、ついでに残っていたタレをフライパンの中へと投入する。そのあと袋の口を閉じて中身を水洗いしてゴミ箱へ捨てた。


 鯖が焼かれている間、康平は大きめの皿を1つと2人分の茶碗と小鉢を用意する。2つの小鉢をシンクに並べ、容器の蓋を取り外してマリネを盛り付けた。最後に軽く白胡麻をひとつまみほど振りかけ、2つの小鉢を食卓へ並べる。


 容器の蓋を閉じ、冷蔵庫へ入れて、康平はフライパンの中で揚げられる味と衣が付けられた鯖の切り身を見る。その暇な時間に、康平に取り憑いている駈剛は話しかけた。



(毎度の事ながら、よくこんな時間に起きられるなお前は)


「そりゃあ、習慣になったし。9年以上も続けたら誰でも身に染み付く」


(にしてもだ、もう少し怠惰に生きても良いもんだと思うがな。俺様みたく)


「そっち側の基準で話すなっての。怠惰に生きたら使える時間が減る」


(良いと思うがな、何もせず惰眠を貪ってるのも)



 鼻から深く息づき、駈剛の言葉に呆れている感情を示す。今は惰眠を貪るわけにはいかない状況下であるというのに、どこか他人事な様子を見せる駈剛に対して何も言うことは無かった。



(ところでだが、大分足首も治ってきたな)


「いや急。まぁ、おかげさまでね」



 康平はチラと自身の右足首に視線を向ける。


 播弖町はりてまちに潜んでいた怪異、蜃の迷路に迷い込んで逃げていた時に捻った右足首は今、歩行に問題がない程度には治っていた。


 それもそのはず、これまで領域の主となった怪異を3体吸収し、駈剛の持つ神通力が結合しているこの肉体の治癒力は、普通の人間と比較しても高いものとなっている。


 とはいえ領域内で無理をしすぎたこともあり、10日ほどかけた現在、漸く歩行がマシになった状態である。駈剛と融合すれば一時的に痛みは消え、鬼ごっこにも支障をきたすことは無い。


 だが領域の主を倒すために色々と走り回るのは、悪化の要因となるので自他ともに禁止している。現場に急いで駆け付けることも、今は制限中であった。



「まだ違和感はあるけど大分治まったし、これならあと2、3日ぐらいで走れそう」


(みたいだな。骨の疲弊具合も、そのぐらいで消え去るようだ──もうあのような真似は絶対するなよ、お前の足が壊れればそれだけで厄介にしかならんからな)


「はいはい、分かってる。あくまで緊急事態って時だけ。よく理解してるよ」


(なら良い。それと今度から“行動を強制する力”は保身のために使う、あくまで優先するべきはお前の方なのだからな。よく覚えておけ)


「人を助けなかったら何にも行動しなくなるかもな──ガッ?!」



 康平の発言のあと、左手が勝手に動き首が締め付けられ、思わず体が仰け反り食卓にぶつかる。


 人の意思とは無関係に肉体を動かすことが出来るのは、今この場において駈剛が能力を使うこと以外考えられない。呼吸が出来ない中そう考えたのも束の間、駈剛はドスの効いた声色で康平に言った。



(もう一度それを言ってみろ、今後のお前の行動の全てを俺様が操っても良いんだぞ? 今ならそれが出来るが、あくまで協力関係であることを選んでいる理由ぐらい考えろ)


「あ゙っ……かはっ。わが……っだ、も゙う」


(なら良い)



 それからすぐに手に込められていた力は抜け落ち、康平は左手を離して息を整える。息苦しさから解放されて少し経ち、首に触れてみるが血は出ていないようであった。


 朝から面倒なことで疲弊してしまったが、すぐに朝食の支度に戻る。眼に涙が溜まっていたため拭い取り、竜田揚げの具合を確認しているあいだ駈剛から語りかけることは無かった。


 ほどなくして竜田揚げが出来上がったタイミングで、炊飯器から炊き上がりの合図が鳴る。電子音につられたかのように母親が起床したようで、足音が洗面所へ向かい、次いで水の流れる音が耳に入った。


 顔を洗い終えた康平の母親は台所に向かい、作業をしている彼に挨拶をしたあと2つの茶碗に白御飯をよそい、竜田揚げは大きめの平皿に載せてから食卓に並べる。いつものように朝食の準備が済むと向かい合うように座り、「いただきます」と言ってから朝食を食べ始めた。


 食べている間、何やら大きな音がしてたことを問われたが、康平は何もないところで転びそうになったと嘘をつく。それを信じたようでそこからは特に追及することもなく、ただただ他愛のない親子の会話が続いていた。


 朝食を食べ終えると、いつものように食器を洗い乾燥機に入れてタイマーをセットする。そして部屋に戻り学校指定の制服に着替えた後、いつものように部屋で勉強をして、しばし時間が経ったところで出かける支度を済ませて、傘をさして徒歩で学校へと向かった。


 雨粒が傘に当たる音と、そぼ降る雨音が即興のセッションを奏でているのを聞きながら、康平は曇天の空を時折見上げて物思いに耽った。








 昼休み、学校の敷地内に建てられた食堂で康平と晴彦きよひこ、東堂の3人は集まっていた。周囲には雨ゆえに外に出られない生徒が多くいて、晴れの時に比べて騒がしい。


 招集したのは招集したのは東堂であり、見てほしいものがあるとのこと。食事をしながら、康平と晴彦は彼が見せてきた携帯画面を見る。


 不特定多数が投稿・閲覧することができるSNSアプリに投稿されているものだったが、街頭が僅かばかりに照らす夜に蜘蛛を踏み潰したというものであったが、10秒ほどしたところで投稿者が何かに気づいたようで画面が夜の景色に映した。


 次の瞬間、画面に大きな何かが横切ったと思いきや、急いでその場から離れていく投稿者の慌て様を最後に動画は終了した。東堂は携帯を自身のもとに引き寄せ、話を開始する。



「この映像は今日、およそ午前3時頃に撮られたものだ。場所的に見てこの三沢市中央区にある立体橋、東側入り口のものだ。前回の事もあって気になってね」


「さっきの横切った何か、が怪異ってこと?」


「それはまだ分からない。本人にもメッセージを送って内容の詳細や真偽のほどを問い合わせてみたが、トレンドに乗ったことが災いして返事はまだ来ていない。そこで湖里君、それと駈剛さんの見解が欲しくてね」


「なるほどね。それなら」


(先ほどの映像なら本物だ。そこに映っていたモノは怪異で間違いない)


「――駈剛からのお墨付きがもらえた、間違いないってさ」


「そうか、なら信じていいな」



 次に東堂が2人に見せたのは1枚の画像であった。それを見せながら話を再開する。



「これは画像解析スレに投稿されていた、あの映像の一部を切り取ったものだ。中々の暇人がこれを解析したようでな、軽く明度をいじってみるとあるものが出てきた」


「あるもの?」


「今から見せるものは生理的嫌悪感を催しかねない、いやなら口頭で伝えるが……見るか?」


「僕は見るけど、晴彦君はどうする?」


「ボクも見るよ。あでも、見るのが辛くなったら別の方を見るかも」


「オーケー、なら心を強く持ってくれ。正直、自分も見ていて鳥肌が立ったぐらいだ」



 東堂は携帯画面を2人に見せながら右にスワイプした。それを見た2人は一瞬だけ背筋に悪寒が走り、画面に映るそれを訝しげによく確認していく。


 そこに映されていたのは、巨大な蜘蛛。立体橋を含めた道路を横断することが可能な大きさみたく、およそ12m以上はあるであろうほど巨大な体躯であった。


 しかし被写体の方も移動速度が速かったのか、若干ブレていて蜘蛛のような何かとも見受けられる。断定しきれはしないが9割の確率で蜘蛛と言えるような写り様のそれを、東堂は携帯画面を暗くして自身の手元にまた戻して話を続けた。



「駈剛さんの発言を信じれば、画面に写っているのは本物であることは間違いない。中央区に潜む大蜘蛛、今度の標的はこれの退治になる」


「大蜘蛛か……、蜘蛛か」


(お? 蜘蛛嫌いか小僧。お前でも苦手なものはあるのだな、笑ってやるから存分に嫌がるといい)


「だあっ、性格悪っ! 別に蜘蛛は嫌いでもなんでも無い! ただ蜃に続いてまた生物系の怪異だなーってさ」


「確かに、そういえば前回は蛤の怪異だったんだよね」


「そういえばそうだな。まあ、だから何なんだと思うわけだが」


「……蜘蛛が提示する遊びって、何になるんだろうって」



 康平のその問いに2人と1体は頭を働かせ思考する。


 これまで康平はかくれんぼ、かごめかごめ、迷路と、怪異側の遊戯をやってきた。そこから分かる共通点といえば、それぞれが能力を生かすのに適していた遊びであるということ。


 最初に退治した明里詩音はかくれんぼ、能力は”動きを感知する目を飛ばす”。これにより明里詩音以外の動くものを察知することが可能になり、容易に逃走者を見つけることができた。


 次に七不思議の7つ目はかごめかごめ、能力は”対象の行動を強制する”。言うことを聞かない参加者の意思に関係なく、使えば思い通りに行動させられるというもの。どのような状況下であれ、発動させれば勝利に持っていける力は強力である。


 そして最後に、デカい蛤の蜃。能力は”幻を見せる霧を出す”。これに関しては蜃の情報が掲載されている媒体に必ず記載されている。この能力はシンプルでありながら強力であり、迷路からの脱出ゲームと組み合わされば脅威としか言い様のない効果を発揮した。


 では蜘蛛の能力とは一体なんであるかと考えると、意外に想像がつかないらしく3人と1体は悩んでいた。蜘蛛といえば、と連想ゲームのように考えてみるが、どれもこれも何が遊戯に繋がるのか分からない。考えが煮詰まってきたため、その様子を見た東堂が別の話題を出した。



「少し話は変わるのだが、4日前に起きた投身自殺の件は覚えているか?」


「覚えてるも何も、最近のことだしまだ忘れてないよ。……あ、そういえば発見された場所って確か、さっきの立体橋のところと近かった気がする」


「よく覚えているな湖里君。そう、つい最近起きた投身自殺の一件と大蜘蛛が発見された場所が近いんだ。偶然かもしれないが、偶然で片付けていいとも思えない。近いうち、この辺りを調べる必要がある」


「……でも確か中央区って、かなり前から暴行が頻発してるって聞いたことがあるよ。ボクらだけで行っても大丈夫なのかな?」



 晴彦の言う暴行事件の頻発のことは2人もよく知っている。


 発端は6年前に起きた一方的な暴力行為であった。午後11時、夜中に2人の男女が居て、男性が女性を殴る蹴るなどをしたのが始まりだった。その男性が逮捕された1週間後、今度は別の場所で乱闘事件が発生した。


 それに続くように中央区の至る所で暴力事件が相次いでいたのだが、3年前を境に程々の頻度に落ち着き始め、今では1ヶ月に1度あるぐらいに治まりを見せている。とはいえ全く無くなった訳では無いため、十分な注意を怠らないようにと市から注意喚起が出されている。それを懸念して言っているのだろう。



「なら内田さんを呼んで一緒に付いてきてもらおう。非番の日に付き合ってくれないか聞いてみるよ」


「こういう時に事情を知っている大人がいるの助かるな。何より警察ときた、護衛には期待していいだろうな」


「迷惑じゃないかな? せっかくの非番の日に連れまわすのも」


(特に気にせずとも良いと思うがな)



 その駈剛の言葉は伝えず、まずは内田に連絡を取ってから話を進めると決めて実行しようという流れとなった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る