黒き鏡の玉兎。

和田島イサキ

抓まれる黒き鏡の玉兎色づく宵に鳴く声甘し

 そも、高校生が気軽に放課後デートとかする感じの立地ではないのだ。


 でかすぎる。合計三車線の車道を跨いで堂々そびえる、朱塗りも目に眩しい見事な大鳥居。話自体は事前に聞いていたものの、いざこうして目の当たりにすると、それなりにげんしゅくな気持ちになる。この私ですらそうなったというのに、でもそこに私を案内してくれた張本人、私よりよっぽど古風で迷信深いはずのさんは、


「おーおーおーおー! ずいぶんご立派な鳥居じゃのぉ! 周りに田んぼしかないくせにのぉー!」


 とか言う。というか、煽る。私の右隣、ハンドルを握ったまま窓から大鳥居を見上げて、威嚇するみたいにクラクションを乱打する(たまたま他に車がいなかったからいいけどやめてほしい、犯罪なので)、その度にゆっさゆっさ暴れ回るその豊かな双丘。でかすぎる。紺色の大人びたワンピース、その胸元は眼前の大鳥居に負けないくらいのそうごんさを誇って、やっぱり大きなもの同士なにか対抗意識でも湧くのだろうか——なんて、私は今日もひとり〝持たざる者〟としての寂しさを噛み締めるのだ。


 一応あらかじめ断っておくと、別にまったくないというわけでもない。おおよそ十人並み、具体的にはCの70か日によってはDってところで、それに身長だって一六五センチはあるのだ。世間的には発育の良い方に入るはずで、なのにどうしても卑屈な気持ちになってしまうのは、この野地屋さんがいろいろ規格外すぎるおかげだと思う。


 とにかく、でかい。何もかもが。一八〇センチを優に超える身の丈に、スイカとメロンの直売所かってくらいの大きな胸。膝の辺りまで届こうかっていう超ロングヘアはサラサラの黄金こがね色で(嗅ぐといい匂いがする)、あと酔っ払うと頭に何か動物の耳みたいなものが生える。こともある。いやどうだろう、彼女がベロベロになっているときは、ひっきょう私もそれなりに飲んだ状態なわけで、だから当の野地屋さんの、

「何を言うか。の、ののの飲み過ぎじゃろおおおおぬし」

 という見解、顔中を汗で滝のようにしながらのその言葉にはなるほど説得力があったけれど、とまれ変わった人には違いない。そういえば喋り方もちょっと癖が強いし、正確な年齢だって聞いたことがなかった。見た感じは私と同年代、だいたい二十代なかばか後半って感じだけれど。


 よくよく冷静になってみるとわからない。この人、いったい何者なんだろう——。

 なんて、そんな野暮は一度も考えたことがなかった。


 見たまんまだ。でかくて強くて金色でふわふわ、あとたまに頭から動物の耳ようのものが生えたりする女。それだけだ。この世界にはいろんな女が、いろんな過去や秘密を抱えて生活していて、そういうのを多様性だなんて殊更いまようの言葉で呼ぶまでもなく、人の過去をいたずらにほじくるのは下世話ってものだ。

 どうあれ野地屋さんは野地屋さんで、それは私の大事な(そして数少ない)友達で、まあ向こうが私のことを友達と思ってくれているかはわからないけど、でもこうしてたまの遠出に付き合ってくれる程度には仲良くしてくれている。

 あるいは、それとも、私でなく私の車が目当てなのだとしても。


 野地屋さんには好きなものがいくつかあって、例えば車の運転がそのうちのひとつ。

 でも彼女は自分の車を持ってないから、私と出かけるときはいつも彼女がドライバーだ。保険もそのようにしてあるし、私も運転せずに済むならその方が助かる。特段なんてことのない田舎道を、意外にも制限速度の範囲内でニコニコ満足げに走る(だってさっき狂ったようにクラクション乱打してた女だ)、その楽しそうな横顔を見るたび少し申し訳なく思う。

 ただ生活に必要だから持っているだけの、普通に走ればそれでいい、という軽自動車。その小さな運転席に、大柄な彼女はちょっぴり窮屈そうに見えて、だから私にもう少し車へのこだわりがあればなあと、毎回そう思うのだけれどでも帰る頃には忘れる。そんなものだ。実際、ないものはないのだからしようがない。


「これこと。おぬし、またわしの乳を見とるのか? 運転中は我慢せいと言うとろうに」


 野地屋さんが私を呼ぶ。見てない。いやちょっと前までは確かに直視していたけど、でも今はそのままぼーっと考え事をしていただけだ。というか、そんなに大きいと別にそのつもりはなくとも視線が吸い寄せられてしまって、そしてこの人はそのたび「ほれ」とそれを差し出してくる。

 どういう勘違いをされているのか知らないけれど、でも差し出された好意を無下にするわけにもいかず、だから仕方なくふにふにとそれを揉んでやると、また露骨に得意げな顔をして喜ぶのだ。あと運転を褒めてあげるのも喜ぶ。基本、人間が素直にできているのだと思う。こういうところは単純に羨ましい。


「耐えよ。なに、あと五分もすれば着く。確か〝玉兎〟じゃったの、おぬしの目当ては」


 うん、と頷く。いや実のところ、目当てっていうほど大袈裟な話でもないのだけれど。

 ただ、話の流れで見に行くことになった感じ。野地屋さんはこう見えて意外と物知りで、特に地元の細かい歴史や風俗に詳しく、だからなんとなく話を振ってみた結果、「知っとるぞ。見に行くか」となるのはまあよくある話だ。


 ことの発端は、そう——『黒き鏡の玉兎』。

 耳慣れないこの言葉が、いったい何を意味するのか私は知らない。

 ただSNSか何かでたまたま目にしただけの、何か都市伝説的な流行はやり方をしているらしい、正体不明のみたいな何かだ。

 そんなものを、かたくなに「わしはSNSだけはもうやらん」と言い張る野地屋さんが知っているはずもないけど、でも彼女が反応したのは〝玉兎〟の部分。曰く「なんじゃあおぬし、シューターか?」なんて、またしても聞きなれない言葉を持ち出すから、こちらも「なに、シューターって」と聞き返す羽目になる。


「知っとるぞ。それを『ギョクト』と読むのはシューターじゃ。『たまうさぎ』じゃろ、普通は」


 知らない。だって、もとより初めて目にした単語だ。意味もわからぬままなんとなくギョクトと読んだのは事実だけれど、でもそれじゃ答えになってない。

 私が訊いたのは「シューターとは何か」で、なのに彼女は「懐かしいのお。食いに行くか? 美味じゃぞ」とか言うから、私はてっきり今日のこのドライブ、シューターを食べに行くための旅なのかと思った。


「えええ。なんじゃあおぬし……そんなもの、わしでもよう食わんぞ。カニバルじゃ」


 いやどうじゃろ、わしが食う分にはカニバルでもないのか?——と彼女。なんだろうカニバルって。野地屋さんは本当に博識で、私の知らない言葉を山ほど知っている。

 彼女は笑う。その切れ長のつり目を楽しげに細めて、ひとこと「無知は罪じゃぞ」と。ものを知らぬはおのが人生に対する怠慢、平和な世に生まれ落ちたものには、世の太平楽を謳歌する責務というものがある。そのために何より肝要なのが、まず世の物事をることなのじゃ——と。


「考えてもみよ。この天下には美味なるものがごまんとある。そしてかな、わしらにはそれを食いに行く〝くるま〟まであるのじゃ。じゃがのう、そも、その美味うまいもの自体を知らぬでは、まず食いに行ってみようもなかろ?」


 なるほど。そう言われたならなんとなくわかる。

 つまりカニバルとは、なんかすごい美味おいしい何かってことだ。きっと古い神様に奉納されたりする感じの、なんか隠れた珍味とかそういうやつ。


「そうではない。今のは一般論というやつで、カニバルは人喰いとか同族喰いという意味じゃ。つまりシューターは人じゃ。弾幕系シューティングゲームをプレイする人」


 ——えっ。人を食べるの。


「莫迦者! わしはもう人は喰わぬ!」


 よかった。私は胸を撫で下ろす。例えどんなに美味しかろうと、さすがに人肉はグルメレポートにはならない。やってやれないことはないかもしれないけど、たぶん炎上とかするような気がする。


「レポートのう。よく続いとるものじゃな」


 えらいぞ、と彼女。別に何も偉くはないけど気持ちはわかる。他でもない私自身、最初はどうせ三日坊主だと思っていた。

 なんの変哲もない個人ブログ。でもせっかく野地屋さんから連れて行ってもらったのだからと、日記がわりにつけ始めた食道楽レポ。それが最近ではそこそこ読者に恵まれ、おかげで今ではすっかり主客が転倒、こうして遠出の名目にすらなっているほどだ。


「ふむ、それで玉兎か。そう大層なものでもないのじゃが、まあ書くことには困らんじゃろうて。なにぶん場所が場所、風光明媚な温泉街ときとる」


 ほれ着いたぞ、とひとこと、停車したのは広い駐車場の一角。まだ紅葉には少し早いくらいの季節、照りつける真昼の太陽が肌を焼く。暑い。こんなことなら日傘を持ってくればよかったと、そううなれる私に「しようのない奴じゃ」と野地屋さん。ほれ、と差し出されたのは日傘だ。彼女自身はどこから取り出したのか、つば広の帽子を悠々と被って、どうしてこうも用意がいいうえに世話焼きなのかとつくづく思うけどそれはいい。


 新潟県は西にしかんばら郡、ひこ村、弥彦温泉郷。

 霊峰・弥彦山の麓、越後いちのみやたるひこ神社の、門前町でもあるところの宿場町だ。


「甘いぞ真琴。おぬしはのう、いつもそうやって大きなもの偉そうなものにコロリと靡いてしまうが、神社の規模の違いが神格の決定的差ではないことを教えてやる。現にこの彌彦神社じゃがな、なんか『ここでデートすると別れる』とかいう噂がまことしやかに囁かれていての、地元の高校生カップルとかはあまり寄り付かんという話じゃ。おーおー偉ーい神サマは羨ましいことじゃのぉー! 手前のお膝元のわらしっこたちがお留守でもやっていけてのぉー!」


 一の鳥居をくぐって参道を進んだ先、拝殿を前にした瞬間、急に大声でそれを威嚇し始める野地屋さん。どうしたのこの人。さっきまでの世話焼きイケメンお姉さんぶりが嘘のようで、そういえば車で大鳥居をくぐったときもなんかこんなんなってたなと、そう思うよりも早く「高校生とかが放課後デートで来られる感じの場所じゃなくない?」って思った。


 なんせ、温泉街だ。坂が多くて道が細くて、神社までの道に旅館や土産物屋が軒を連ねて、でもその最中にどう見ても普通の民家なんかの混じっていたりする、ごく普通の。山麓の街だけあって交通の便は決して良いとは言えず、だから野地屋さんも、

「それはそうじゃな。じゃあ大学生とかじゃ」

 と珍しく意見を改めたのに、でもこのあと普通に見かけたからびっくりした。高校生。カップルではなくて女の子のグループだったし、神社の外ではあったけれど。


 とまれ、境内では本当に大変だった。一度威嚇状態になった野地屋さんはずっと収まる気配がなくて、そのかんの虫をよしよし宥めながら見て回るにはあまりに広すぎたのだけれど、それでも気合と根性で全部見て回った。根が貧乏性なのだと思う。

 私のお気に入りは宝物殿だ。最初は拝観料の三百円にものすごい剣幕でケチをつけまくっていた野地屋さんも(受付の若い巫女さんを泣かしていた。背が大きすぎるせいもあるとはいえ普通にひどい)、館内のお宝を見て回るうちにどんどん神妙になって、だのおお太刀たちを見るころには逆に彼女が泣く羽目になった。えぐえぐしゃくり上げながら曰く、「わしんにもこんなの欲しかった」とかなんとか。こんなでかいのどこに置く気だろう。いや、彼女がどんな家に住んでるのか知らないけど。


 めそめそしょぼくれたままの彼女の手を引いて、あちこち歩いて回る彌彦神社の境内。御神木を見上げておもかる石を持ち上げ、鹿苑の鹿と触れ合ってちょっと元気を取り戻した後、すぐ裏手に競輪場があることに気づいて一緒に驚いたりもした。競輪場の他にも神社の周辺、なんか森林公園や美術館もあるようだったけれど、そっちはさすがに遠慮しておく。普段あんまり歩かないせいか、すでに足が痛み出しているのが情けない。


「ふむ。ならばよし、そろそろ目当ての玉兎と行くか。ほれ」


 ふらりと立ち寄った土産物屋、その店先に山と並んだ目的の品。

 ——玉兎。

 という名前の、小さなお菓子。

 砂糖や穀物などの粉を固めた干菓子、いわゆる落雁だ。


「まあなんということのないただのじゃが、可愛かろ? 丸っこくてちまくて実にい」


 この玉兎、どうやら特定のお菓子屋さんの商標というわけでないらしい。いろんなお店の商品があって、大小あれば餡入りやチョコ(!)の品もあったけれど、でも形はどれも共通していた。

 丸く伏せたようなうさぎの意匠。野地屋さんの「土下座でワビ入れさせられとるんじゃ。かわいそうに」という説明がどこまで本当か知らないけれど、でも神様に怒られたうさぎの逸話が元になっているのは本当みたいで、そのつもりで見るとなるほど可哀想かわいい。


「どうじゃ。写真映えする形じゃし、ブログの記事にはちょうどよかろ」


 そんなことまで気を回してくれなくてもいいのに、と思うけれど、でも写真が多い方が喜んでもらえるのは事実だ。鞄からスマートフォンを取り出し、土産物屋の店先で早速一枚、謎のおもしろグッズを真剣に品定めする野地屋さんを撮る。いい顔だ。もしブログに載せるならさすがに顔は隠すしかないけど、そうしてしまうのがもったいないくらいには綺麗な顔だと思う。

 彼女の姿を画面に捉え続けながら、カメラアプリ越しに私は尋ねる。そういえば、よくよく考えたらひとつ足りない。玉兎はかわいいしこれでいいけど、でも元々のミームにはもうひとつ——。


 どうしよう。『黒き鏡』の方は。


「知らん。そんなものはない。ああ、さっきの宝物殿に銅鏡があったな? あれでよかろ」


 確かにあったし真っ黒だったけれど、でも宝物殿は撮影禁止だった。写真がない。いやでも事実として「玉兎」と「黒き鏡」の両方があったんだから、これはもう彌彦神社のことで間違いないよねよしオッケーと、そう慌てて付け加えたのは野地屋さんが「よかろうではあの銅鏡はわしんのものにしよう」とか言い出すからだ。それはまずい。さすがに泥棒はどうかと思う。いや強盗だろうか?


「物騒な。わしはただ、平和的に説得して譲ってもらおうと思っただけじゃ。いけるじゃろ。あの様子ならこう、もうちょっと強く出れば」


 それでわかった。さっきの泣かしちゃったあの巫女さん。彼女の弱気を前提にしているのが丸わかりで、その具体的な実現可能性がかえってひどいというか、もう普通に強めに「コラッ」することにした。だめだ。カツアゲは。巫女さんが可哀想すぎるし、それに祭神たるあまのかごやまのみことにも悪い。大体、それはいつもの野地屋さんの言い分というか、信念にもとるんじゃないだろうか?


 彼女は言う。

 平和な時代に生まれ落ちた私たちは、その平和を存分にむしゃぶり尽くす必要がある、と。


 不幸を嘆くなとは言わない。持たざる者には持たざる者の苦労があるように、持てる者には持てる者なりの苦しみがあって、それは互いに決して交わらぬものだ。豊かであるからといって必ずしも幸せではないのは事実なろうが、しかしその上でなお己が身の上の苦しみを嘆こうというなら、せめて手の届く幸くらいはきっちり堪能した上のことであるのが筋だ。美味いもん喰って安全な寝床で唸るほど寝て、それらを一度として得られぬままに死んでいった数多の命の分までそれを味わい尽くして、その上でなお謳える不幸なれば仕方がない。


 高貴なる者の責務ノブレス・オブリージュ。力あるのもが弱き者を護るように、また富めるものが貧者に与え施すように。生まれ落ちた時分よりそこにあった平穏に対して、先人の屍の上に築かれたいっときの安寧に関して、我々は少なからぬ責任を負っている。

 つまらぬ日々を侮らぬこと。

 代わり映えのせぬ日常を無駄にせぬこと。

 そして、なにより——愛すること。


 それが彼女、野地屋さんの信念あるいは信条のような何かで、なら大柄な彼女があの巫女さんを脅して強請ゆするのはその責務に反しているのでは、と、その言葉にでも当の彼女は、

「うるさい。おぬしが悪い。このたわけめ」

 とか言う。スマートフォンの小さな画面の中、露骨にへそを曲げた様子でそっぽを向いて、おかげで私はつい取り乱してしまう。

 ——まずい。ちょっと言いすぎちゃったかもしれない。だってこんなの自爆も同然、自分自身に言い負かされたとあってはもう逃げ場もなくて、こうなるともう逆に居直ってしまうより他にない——。


 なんて。


 その私の見立て、つまりはふたりきりのときに見せるいつもの拗ね顔なのかと、その予想はでも少し違った。


「銅鏡がだめなら、じゃあじゃ。のう真琴、おぬし、今日わしの顔を何度見た?」


 何を言っているのだろう。そんなの、なんなら朝からずっと見続けていると言っても——そう答えかけた私を遮るかのように、ゆっくりとこちらへ伸ばされる手。中指と親指で挟むような形で、ぐっと押し込むのはスマートフォン側面のボタン。そのまま数秒、電源を落とされ暗転した画面に、もう私の大好きな彼女の姿はない。


「どうじゃ。真琴や、何が見える」


 何も。電源オフのままの液晶は何も映すことなく、そこにはただ黒洞々たる夜が——。

 いや。


 いる。

 光沢グレア加工も眩しいパネルの表面、まるで鏡のようなそこに反射するのは。


 ——私の、顔。


「見えぬのじゃ。そこに映っとるということは、わしのがわからは、今日一番の楽しみであったところのそれが」


 やれやれ、と深いため息をひとつ、どこか大仰な調子で野地屋さんは続ける。

 のう真琴や。ものは相談なのじゃが、どうかけてはくれまいか。憎きその板っ切れ、無粋で野暮天で心底気の利かないその射干玉ぬばたまの手鏡を、わしとおぬしの間から。

 この神社、「嫉妬深い祭神が愛し合うふたりの中を引き裂く」などという噂は根も葉もない風説にすぎぬが、仮に本当であっても何構うものか。存分に見せつけてやればよい、罰など当たらなければどうということはないのじゃから。

 さあ真琴や、わしの可愛い玉兎や。どうか答えを聞かせておくれ、雛鳥のさえずりの如きその玉の声で。そしてもう一度見せてほしい、その麗しの花のかんばせを——。


 そう真っ直ぐ、どこまでも真剣な顔でお願いされては、もう私に逃げ場なんてどこにもない。ないのだけれど、でも困る。なんでこんな観光客で賑わう店先でスイッチが入っちゃったのか、そういうのはふたりっきりのときだけという約束のはずで、でも「知らぬ。おぬしが悪い。罪な女め」とか言い出すのだからもう本当にひどい。


 今やうんともすんとも反応しなくなった黒き鏡、役立たずの板切れに額を押し付ける。ぐりぐりと、言われたとのはまるで正反対に。

 こういう、本気になったときの野地屋さんは本当に手強くて、少なくとも私のような小娘はただ腰砕けになって「ふぁい」と返事する以外になくなるという意味ではそうで、だからスマホをどけろだなんてどだい無理な要求だ。

 できない。直視が。キラキラとばゆいその黄金色の髪が、そこから漂う甘く蠱惑的な香りが、私の網膜も鼻腔も突き抜けて直接脳を焼き切るのは目に見えていて、だから仕方ない。彼女が悪い。正直なところ、すいかかメロンみたいな胸なんか別にどうだっていいのだ。私が好きなのはその顔と態度と立ち振る舞いと声、あと性格や行動力に加えて細かな仕草と、そして私のこと普通に好き好き言って迫ってくるところだ。


 だから、どうしようもない。そんな優しく笑って子供をあやすみたいな声で、「ずいぶん恥ずかしがり屋の玉兎がいたものじゃの」とか言われたって。

 というか、おかしい。いつから私が兎ってことに。しかも黒き鏡がならもう最初からこの遠出いらなかったよねって、それを言うのは野暮っていうかいやそれはそれでずっと私んちでふたりきりってことになるから余計にどうなのって話だ。


 だめだ。暑い。なんかみんなこっち見てる気がする。土産物屋さんの軒先、庇から溢れた日差しが私のうなじを焼いて、でも本当の熱源は正面にある。黒き鏡の向こう側。画面越しでないといささか眩しすぎるこんじきの笑みの、そのいずれ食い尽くさんとする太平の世の美味なるものの、そのひとつたる玉兎が私だと言うのなら。


 ——カニバル?


「莫迦者。わしは人はもう、少なくともこんな公衆の面前ではその、ほれ、童っこが見ておるではないか! たわけ!」


 偶然そばを通りかかった女子高校生たちの、その遠慮のない好奇の視線。じろじろ焼かれて色づくのは私ばかりでなく、さすがの野地屋さんも一緒だった。黄金きんから、あかへ。巡りゆく季節の残り香の中で、私たちは何度でも旅を繰り返す。小さな自動車に大きな運転手を乗せて、西へ東へ南へ北へ。あまねく天下の美味しいもの、そのすべてを食い尽くさんと、きっとこれからもおちこち飛び回るのだ。


 世界は広くとも人生は長く、なればこの道行きを急ぐ必要はない。

 気の合う同輩ともがらと、美味しいもの。それとひと匙の愛があったなら、そこはどこだって天国なのだから。




〈黒き鏡の玉兎。 了〉

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黒き鏡の玉兎。 和田島イサキ @wdzm

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