端折れメロス
阿井上夫
端折れメロス
メロスは政治がわからぬ村の牧人で、けれども邪悪に対しては人一倍に敏感であった。
きょうは未明に村を出発し、シラクスの市にやって来た。十六の妹と二人暮しで、その妹の結婚式が間近かだったので、花嫁の衣裳やら祝宴の御馳走やらを買いに来たのだ。まずはその品々を買い集め、竹馬の友であるセリヌンティウスを訪ねるつもりだった。
歩いているうちにメロスは、まちの様子を怪しく思った。市全体がやけに寂しい。
途中で若い衆をつかまえて、「何かあったのか」と質問したが、若い衆は首を振って答えなかった。
次に会った老爺に語勢を強くして質問したが、老爺が答えなかったので、メロスは両手で老爺のからだをゆすぶって質問を重ねた。老爺は、あたりをはばかる低声で答えた。
「王様は、人を殺します。」
「おどろいた。国王は乱心か。」
「いいえ、乱心ではございませぬ。人を信ずる事が出来ぬ、というのです。」
メロスは激怒した。
買い物を背負ったまま王城に入り、たちまち警吏に捕縛された。懐中から短剣が出て来たので、騒ぎが大きくなった。
メロスは、王の前に引き出された。
「この短刀で何をするつもりであったか。言え!」
ディオニスは問いつめた。
「市を暴君の手から救うのだ。人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ。」
とメロスは悪びれずに答えた。
「人の心は、あてにならない。口ではどんな清らかな事でも言える。」
「私は命乞いなどしない。ただ、処刑までに三日間の日限を与えて下さい。妹に結婚式を挙げさせて帰って来ます。私を信じられないならば、無二の親友であるセリヌンティウスを人質として置いて行こう。私が帰って来なかったら友人を絞め殺して下さい」
それを聞いて王はほくそえんだ。
「その身代りを呼ぶがよい。三日目には日没までに帰って来い。おくれたら、おまえの罪は永遠にゆるしてやろう。」
セリヌンティウスは深夜に王城に召され、二人は二年ぶりにあった。メロスは友に一切の事情を語った。セリヌンティウスは無言でうなずき、メロスを抱きしめた。
メロスはすぐに出発し、十里(筆者註:約四十キロ)の路を急ぎに急いで、村へ到着したのは翌日の午前だった。
「市に用事を残して来たのですぐに行かなければならぬ。あす、おまえの結婚式を挙げる。」
そう妹に告げると、メロスは家へ帰って神々の祭壇を飾り、祝宴の席を調え、間もなく床に倒れ伏して深い眠りに落ちた。眼が覚めたのは夜である。
メロスはすぐに花婿の家を訪れ、「少し事情があるから結婚式を明日にしてくれ」と頼んだ。なかなか承諾してくれないため、夜明けまで議論をつづけて婿を説き伏せた。
結婚式は真昼に行われた。
新郎新婦の宣誓が済んだころに雨が降り出し、やがて大雨となった。メロスは「ちょっと一眠りして、それからすぐに出発しよう」と考え、宴席から立ち去り、羊小屋にもぐり込んで死んだように深く眠った。
眼が覚めたのは翌る日の薄明の頃である。悠々と身仕度をはじめ、雨中、矢の如く走り出た。
途中で呑気さを取り返し、ぶらぶら歩いて全里程の半ばに到達した頃、メロスの足はとまった。
前方の川が豪雨で氾濫し、木葉微塵に橋桁を跳ね飛ばしていた。
メロスは川岸にうずくまり、泣きながらゼウスに哀願した。
濁流はますます激しく躍り狂い、時は刻一刻と消えて行く。メロスは、ざんぶと流れに飛び込み、押し流されつつも対岸の樹木の幹にすがりつく事が出来た。
陽は既に西に傾きかけている。峠をのぼり切ってほっとした時、目の前に一隊の山賊が躍り出た。
「持ちもの全部を置いて行け。」
「私にはいのちの他には何も無い。」
「その、いのちが欲しいのだ。」
「さては、王の命令で、ここで私を待ち伏せしていたのだな。」
山賊たちは、ものも言わず一斉に棍棒を振り挙げた。メロスは棍棒を奪い取ってたちまち三人を殴り倒して、残る者のひるむ隙に峠を下った。
一気に峠を駈け降りたが、流石に疲労し、ついに膝を折った。
「もう、どうでもいい」
という不貞腐された根性が、心の隅に巣喰った。四肢を投げ出して、うとうと、まどろんでしまった。
ふと耳に水の流れる音が聞えた。見ると、岩の裂目から滾々と清水が湧き出ているのである。水を両手で掬すくって、一くち飲んだ。夢から覚めたような気がした。
日没までには、まだ間がある。
路行く人を押しのけ、跳はねとばし、野原で酒宴のまっただ中を駈け抜け、犬を蹴けとばして走った。
陽の最後の一片の残光も、消えようとした時、メロスは疾風の如く刑場に突入し、磔台に昇り、釣り上げられてゆく友の両足に、齧かじりついた。セリヌンティウスの縄は、ほどかれたのである。
「セリヌンティウス。」
メロスは眼に涙を浮べて言った。
「私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。」
セリヌンティウスは、すべてを察した様子で首肯き、言った。
「友達だから言うけどさ、こうやって
メロスは、ひどく赤面した。
端折れメロス 阿井上夫 @Aiueo
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