くじら

森 瀬織

クジラ


 うちのリビングルームの壁にはふさふさのくじらの絵が飾られていて、学校の美術室の入口には艶やかな皮膚が丁寧に表現されたクジラの絵が展示されている。


  あたしはクジラが世界で一番嫌いなのに、あたしの生活は鯨に侵されている。


くじらとクジラが結びついて、そんな思いが立ち上がったのはテレビ画面に映る海の生き物たちの雄大な映像を見ていたときだった。夏になると、内陸に住んでいても否応なしに海が目に入り、夏の音が鼓膜を鳴らし、瑞々しい色彩が瞳孔を散らす。

  大嫌いな鯨が画面いっぱいに広がった。目を逸らしたくなるようなグロテスクなフォルムに鈍いグレー。硬い皮膚を畝らせながら青く輝く海のなかを泳いでいく。まるであの美術室の絵にそっくりな姿だった。


 あたしが幼い頃は枕元にいたぬいぐるみを本物のくじらの姿だと思いこんでいた。犬も猫も、くまはちょっと違ってもやっぱりパンダもうちにいるぬいぐるみと画面の向こうにいるそれの姿はまるで同じで、クジラも勿論くじらと同じなんだと信じて疑っていなかった。ふさふさの毛に、丸っこいずうたい、水彩絵の具の透き通った水色にパステルの淡い青色。

だからあたしはぬいぐるみを当時のあたしの瞳を通してそのまんまに見たものを画用紙に書いておかーさんにあげた。


              ◇


 ゴミ箱から広がった紙屑に紛れていた青いラフ下絵を見た瞬間、あの日の鯨が脳裏をよぎる。

「ちょっと手離せないから、エンちゃん代わりにゴミ捨てて来てくれない?」

 次のゴミ当番は替わるから。ごめんね、と絵の具を混ぜる雛に言われるがままにトタンのゴミ箱を二つ持ってゴミ捨て場に向かっている途中だった。あたしは手にもっていた鉛筆を置いて、一ミリもアイデアが浮かばない真っ白な紙を一瞥して、それから教室を出て──。


 真っ青な紙に描かれた構図は、あたしの感性にはないものだった。絶妙な視点に、遠近法。少女が水に飛び込んでいく絵。スカートの靡きは風を感じさせて、雑ではあるものの胸が締めつけられるような。間違いない。この筆致はクジラの飼い主のものだ。

「エンちゃん」

 と、誰かに名前を呼ばれませんように。運動部の子たちの足音が響き始めてから、左手で散乱したゴミを集めているふりをする。左手は、廊下の砂埃を攫っていく。

青い紙のシワを伸ばすように撫でながら、右ポケットに仕舞い込んでいた。


 クジラの飼い主は、あたしのことを「絵乃ちゃん」と呼んだ。親以外に、あたしをそう呼ぶのはあの子だけだった。あの子はコンクールの常連で、あたしが中学までに築き上げたプライドを一瞬でさらっていった。

「なにか、足りないんだよね」

 あの子が入選して、あたしが選外になる度、曖昧な顧問の言葉はあたしのなかに蓄積した。審査員はなにを見ているのだろうか。美術室の壁に問いかける度にクジラはあたしをじっと見つめて、ただ悠然と佇んだ。

 あたしはクジラを見つめるたびに“絵乃”が嫌いになって、

「エンちゃん」

 と呼ばれるたびに安堵した。あたしの呼称は“エン”なんだと把握するたび、あたしは絵に、くじらに囚われていないのだと思えたから。でも、

「私、絵乃って名前好きだよ。絵乃ちゃんにぴったりで」

「絵乃ちゃんの絵も好き」

 とかなんとか。あたしが涙声になるたびにあの子は悪気なく、あたしの瞳にクジラを映した。それが、あたしへの慰めになると勘違いして。


 あたしは何事もなかったように美術室に戻って、「ゴミ捨てて来てくれてありがとう」の声に「どういたしまして」と答える。実際、なにもない。何か特別なことはなにも、起きていない。ただ、あたしのポケットの中でメモ用紙ぐらいの小さな紙がカサカサと音を立てるだけだった。


片付けが終わったらあの子とは平然と一緒に帰って、

「おめでとう」

 と伝えた。今日、顧問から伝えられたコンクールの結果のこと。

「ありがとう。でも絵乃ちゃんの絵も私は……」

「名前、そうやって呼ばないで。謙遜しないで、素直に喜んでくれればいいんだよ。そっちのほうがあたしも救われる」

 満員電車に押し流されて、バイバイも言えないままでホームに降りると、警笛とともに吹いてきた風に目が乾く。やっぱり、結果が出た日にはあの子の顔がクジラにしか見えない。ポケットの紙をなんとなく弄っていると、端っこが湿っていた。


              ◇


『あたし、コロナかも』

 とかなんとか言って、それからしばらく部活をサボった。咳も鼻水も出ていなくて、体温計は六度五分ばかりをさした。ただ、ふとした瞬間に風邪をひいた日の鼻水と同じ頻度で涙が出た。

 部屋のカーテンのそばにキャンバスを立てる。直射日光は避けて、でも柔らかい光が照らすところに。ポケットからあの紙を取り出して手のひらに載せると、真ん中のあたりを消しゴムで消した。

 これは、あたしの作品に描き変える。

 ベッドの上に居座っているくじらは、あたしが生まれた頃からともに寝ていたらしいいわば相棒だった。お絵かき教室に通い出して、あのくじらを描いたときから母はあれを宝物にした。

 あの子が描いたクジラから目を背けたかった。あれが“本物”だと確信した瞬間から、小さなあたしの未来は欠けていったから。

 線画を細かく描き込んでいくうちに、少しずつそれはあたしの絵に変わっていって、もはやあのラフは必要ない。

 審査員が求めるものはどうしてもあたしには掴めなかった。精緻さに、大胆な構図に、“らしさ”。あの子の絵にはそれがあって、あたしにはないらしい。

 太陽が動いていくたびに光の当たる位置も変わるから、絵を置く位置を少しずつずらしていって暗い色塗りに入る。

『エンちゃん、具合大丈夫?』

 スマホの画面にメッセージが表示された瞬間、ため息が出た。大丈夫、あたしはエンちゃんだから。何にも囚われてもいないから、大丈夫。

 涙は止まらずに頬を伝っていく。

『ちょっとひどくなってるかも笑 でも全然平気!』

 汚れていない小指で返信すると、お大事にのスタンプが届いた。


 水を含ませたスポンジが空っぽに乾いた頃にキャンバスを持って電車に乗った。

「絵乃ちゃん」

 と呼ばれるたびにあたしのどうしようもない悔しさを乗せた電車だった。

『凛花、部活向かってる?』

 久しぶりに開いたクジラの背景、あの子のトーク画面だ。

『うん。絵乃ちゃんは隔離?』

 ううん、とだけ送りかけて、消した。

『いつもの乗り換えの駅のホームに歩いてる』

『え、私も絵乃ちゃんのとこに向かっていい?』

 あたしが何にも返さないまま画面を見つめていると、

『向かうね』 

 と、メッセージが滑り込んできた。画面に落ちた雫を拭いて、見慣れたホームに降りる。久しぶりに履いた制服のスカートが太ももを擦ってキャンバスは脛をつつく。

「絵乃ちゃん、久しぶり」

 見慣れたキャンバスバッグに、丁寧に陰影をつける細い指。

「凛花、ごめんね」

 ごめんね、ごめんね。言葉にならない思いが溢れてくる。

「どうしたの? まだ具合悪い?」

 凛花はとりあえず改札を出ようと言ってあたしは嗚咽を漏らしながらそれに続く。初めての出口の向かい側の公園に向かって、

「ここに座ろう。落ち着いて」

 噴水のへりに座ると、凛花はキャンバスバッグをおろした。

「あたしね、凛花のラフのアイデア盗もうとした」

 キャンバスを取り出して膝に乗せる。凛花はあたしのキャンバスをしばらく見つめてから静かに首を振った。

「違うよ、違う。これはもう私のラフじゃない」

「あたし、凛花のクジラがすごく嫌い。どうしようもなく羨ましくなっちゃって、あたしの理想だった」

 くじらは、あたしの小さな頃の夢だった。後ろで噴水が吹き出して、甲高い歓声があがる。

「鯨が、あたしの絵を描くきっかけで、鯨はぬいぐるみのくじらだった。ずっと理想と夢ばっかりで本物の鯨から目を背けてた」

 凛花は静かにキャンバスを立てて、そうなんだ、と呟いた。

 せんせ、ふんすいで遊んできていい? 保育園児の声に振り返る。あたしがくじらを描いたのはあれぐらいの時だった。

「この噴水の噴き方、鯨みたいだよね」

 凛花の言葉に頷く。

「あたしも思った」

 園児がいなくなって、誰かの静かな寝息と風の音だけになった噴水にのぼる。凛花はあたしのほうを向いてニヤッと笑った。

 噴水が──くじらが、クジラが、鯨が潮を吹く。スカートの裾が水しぶきに濡れて、あたしの笑い声がくじらにこだまする。

「あーあ、濡れちゃって」

 あたしもキャンバスを立てて、チタニウムホワイトを絞り出すと、凛花はあたしの皿にたっぷりのそれを出した。

 凛花の絵は、いつものように淡くて、躍動感があって、美しい。

 平筆にたっぷりつけて、キャンバスに塗っていく。あたしの──凛花のラフが真っ白に戻っていく。鞄からメモ用紙を取り出して、急いで鉛筆を動かして、あたしのアイデアを絵にしていく。

「絵乃ちゃん」

「なに?」

 あたしの名前も、くじらも、嫌いじゃない。あたしの意識のなかを泳ぎ続けるくじらは、絵乃とともに。数年後のあたしたちは、くじらになっているだろうか。



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