青き海。

東聖

青き海。

1


 潮風を全身に浴びながら海に生足を沈める。温くて気持ち悪い海水は青紫に染まる空を映し出して海面を揺らしながら細かく白い光を反射させる。それが眩しくて顔を手で覆う。大きく深呼吸すると、鼻につんと潮の匂いが広がる。

 踏切の音と濤声がこだまする夕暮れに、何度俯いては涙を流したか。

 もうすぐ、帰らなくちゃ。好きだったものに、さようならを言う時間だから。



2


 放課後の教室は海の底みたいに静まり返っていた。ちょっと落ち着く。木材の匂いは鼻の奥をつんと刺激する。

 机の傷あとを数えていると、男の子が顔を覗き込んでくる。ねえ、と声をかけられ、声の主に目を合わせる。かき分けて目に掛かる前髪を揺らして微笑む、しんはまるで夏の海みたいな少年。真夏の煌々と照りつける太陽を水面が反射する。大きな波音みたいな少年。

せい、帰ろう。」

 頷いて鞄を抱え、欠伸をして先を進む真を小走りで追いかける。

真の隣に並んで歩くと、大きくて温かい手が私の右手を包む。

私の身体が熱を帯びていくのを感じる。それを見て真は悪戯に笑う。次こそ頭から湯気が出そうなくらい。


 私たちは放課後にいつも海辺を散歩する。

でも今日はなんだか、いつもの海が、いつもに増して、優しく寂しく見える。

大きなオレンジの夕陽が暖かく包み込む。海を見ると、どこか懐かしくて、帰りたくなるような気がするのは何故だろう。

「なんで泣いてるの?」

「わからない。海を見ると、泣きたくなるの。」

 私の頬を伝う雫を指で拭う真。そんな真もまた、泣きそうな瞳。どうして。

「もしも私ともう二度と会えないってなったら、真はどう思う?」

「いやだよ。だって、青のこと好きだから。」

 そんなこと言われたら、もう本当に会えなくなっちゃうみたい。言い出したのは私なのに。


 私は、思い出せない。今までどんな人で、何処に住んでいて、何が好きで。何も思い出せないでいる。ただ脳に焼き付いているのは、深い海の底のような真っ暗な景色、まるで私は何の取り柄のない人だったような気がする。


 私は、一体誰なんだろう。



3


 またあの深い海の事を思い出して目が眩む。足が縺れて体勢を崩したのを、担任の深月みづき先生が優しく抱き止めてくれた。大丈夫?と問いかける声は低くて甘いけど透き通る、海月みたい。

 先生は、静かな夜の海みたいな人。大きく輝く満月を浮かべて揺らめくのが綺麗だけど、どこか神妙な雰囲気を纏う。会釈して少し捲れたスカートを手で払う。深月先生はしなやかな指で眼鏡をくいと上げて言った。

「今日、花火があるらしいね。」

 花火は、真と見たかった。真は見れないっていうから一人で見ようと思っていた。花火を見たのはいつぶりか、はたまた初めてか。

「せんせい、暇?」

 うーんと考える先生の困り眉はお茶目だけど、本当は考えなくても答えは出ていたみたい。

「いいよ、見よう。」


 教室の窓から見える花火は、夜空のあちこちに次々と咲いていく。涙が出そうなほど美しくて息も忘れてしまう。

色とりどりに照らされる教室は、電飾煌びやかな水槽みたい。

「青ちゃん、手、繋ごっか。」

「せんせい、私は生徒だから。」

「駄目か。」

「はい。」

 先生はまた眉をへの字にして困りながら笑う。少し愛おしい。

「いつもなら、駄目です。今日はいいです。」

 返事をするとなんだ、と言いながら細い指を絡める。心臓が鳴ったのと同時に夜空に花が咲く。


 それと同時に思ってしまった。


 私は、こんな日常を過ごしていいのか。



4


 昨日見た花火は綺麗だった。どこかで見たことがある気がした。

だけどその時は、涙で霞んだみたいに、ゆらゆら、ぼやけていてよく見えなかったような。

だから初めてみるような気持ちになるのか。

 真と見ていたら、また違う見え方をしていたのかな。真と見ていたら、初めて見た日のこと、思い出せたかな。

わからない。考えても矜羯羅がるだけ。そのまま机に伏せて目を瞑ってみる。


 窓の外を燻んだ雲が流れる。水面が表情を失くす。それは私の心模様みたい。

 なんだか、わからないけど、晴れない気持ち。溜息をひとつ。私を追い込むかのように空から雫がぽつぽつと窓を突く。



5


 各局報道するのが鳴り止まないほど勢力を増した天気が、今まさに私たちの住む所を通り過ぎようとしている。閉めた窓はぎしぎしと音を立て、風がびゅうびゅうと家を揺らす。


 そして、私は、何かに導かれるように海へと向かった。


 轟々と威嚇する海が、私の心を揺さぶる。こっちに来い、そう言っている。

そうだ、言っている。

深い海の底、陽が差し込む水面、あの日の、花火だって。全てが繋がった時、私は私を理解する。

「青、危ない、行っちゃ駄目だよ!」

 真の声で「青」を取り戻した。耳鳴りがして頭が痛む。

「なんで外になんか出たの!死んじゃうかもしれないのに。」

 真が私が外に出たことをどこで嗅ぎつけたのかはわからない。震える声で説教紛いの言葉を浴びせる。

「わからない。少し怖い。」

「…大丈夫だよ。」

 抱き寄せられて、大きく優しい掌で私の背中を摩ってくれる真の耳元で告げる。

「ごめんね、真。私わかったんだ。私ね、私。」


海へ帰らなくちゃ。



6


 断片的な記憶を辿って自分を思い出す。ひぐらしの声が、私はもうすぐ帰らなくちゃいけないことを告げているように感じる。

せめて、真だけには、話したい。


 私はきっと、記憶を失くす。泡みたいに、なかったことみたいに、消えてなくなる。逆らえない運命。途端に「青」という名に違和を感じた。


「私、真のこと忘れちゃう。多分真も、私のこと忘れちゃう。」

「そっか。」

 暫く黙って俯く真の目元できらりと光る粒が見える。捉えたのも束の間、私は真の腕の中に収まっていた。気づけば私も泣いていた。

「やだ、真。私、真のこと、忘れたくない。やだよ。」

 心臓が強く、痛いくらい、苦しいくらい締め付けられて、居ても立っても居られなくて、子供みたいに泣く。

「うん、うん。でも、絶対忘れない。約束。」

 漣が嘲るように立つ今日の海。涙を流しながら小指を交わらせる。私たちは、哀しい生き物。


あぁ、全部、忘れたくないなぁ。



7


 深月先生と会ったのはあの花火の日以来だった。先生はよく私を「不思議な子」と言ったっけ。

「せんせい、私、居なくなっちゃう。」

「青ちゃんは、本当に不思議な子だね。居なくなっても、俺が君を想うのは変わらないよ。」

 先生は戸惑いもしないし、問い詰めもしない。それがちょっと嫌なような、安心できるような。

「俺ね、青ちゃんのこと好きだったよ。」

 沈黙が流れる。うん、先生、知ってたよ。そう言ったら、先生はまた困りながらも笑うかな。

「ありがとうございます。でもこれでもう、おしまい。ごめんなさい。」

 深月先生はわかっていたみたいで、指で頭を掻く。

「せんせいは、私のこと、忘れて。」

 深月先生とは、そこで別れを告げた。

「待って」

 腕を掴んで引き止められる。私は抵抗しない。本当はこうして欲しかったのかなぁ。

「元気で。」

 腕を掴んでいた手を離し、下がった眼鏡を華奢な指で定位置に戻す。去り行く背中には哀愁が漂っていた。


 先生だって、不思議な人だよ。

深月先生は、静かな夜の海みたいな人。美しさの裏で、静寂で哀しい人。



8


 朝日に照らされる海が別れを促す。どれほど今日が来て欲しくなかったか。

 まだ薄い空気の中にふたつの影が揺らめく。

「一緒に行けないよね。」

「うん。それはできない。」

「そうだよね。」

 真は、空を仰いで深呼吸する。

「空と海っておんなじ色なのに、全く違う。僕と青では住むところが違うけど、同じ色で繋がってる。そう思うことにした。青のこと、忘れない。」

 真の大きな身体に収まる私はまた、笑いながら、泣いていた。この世界に居て、幾度も流した雫、集めたら新しく海ができそうなくらい。それだけ好きだったんだなぁ、この世界も、「青」という名の私自身も、真のことも、全部が。

「大好き。」

 今日の海は、穏やかで水平線が一直線。かもめが一羽、飛んでいる。


 いつも、青、って名前を呼んでくれる。好きだと言ってくれる。そんな真を、背中で見送る。

 真は、真夏の海みたいな少年。雄大で、ずっと眺めていると離れるのが惜しいような少年。

 ごめんね、ありがとう、大好きだよ、真。



9


人魚は、儚い生き物。人もまた、同じだったかもしれない。


 今日は、花火が上がっているみたい。でも涙で霞んだみたいに、ゆらゆら、ぼやけていてよく見えない。こぽこぽと、私の吐く泡が重なる。

あの日、本当は真と見たかった花火。今年は誰と見るのかな。人間の、女の子かな。そんなこと考えた途端、左胸がちくりと痛む。

真と見た海は、色々な顔をしていて、あぁ、海はこういう表情をするのか、とその都度感じた。

真と見たから、特別だった。私は、真が、大好きだった。



あれ、真、誰だっけ。







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