仮装現実
燐火亜鉛(りんかあえん)
仮装現実
朝が、始まった。
カーテンを開けて、伸びをする。
今日はあいにくの雨模様で、窓の外はいつもに増して車の数が多い。
スマホを手にとる。
普段よりも三十分ほど早く起きられた。
アプリを開き、顔も知らないみんなに、いつもの挨拶を、毎日欠かさずに、いつまでも変わらない笑顔でする。
一日の始まりを、ほんの少しの苦痛と、それを上回る『みんなと生きている喜び』で満たそうとする。
身支度を終えて、玄関を開ける。
マンションのオートロックを越えて、最寄り駅へと足を進める。
大きく育った灰色の雲に、自分の心まで覆い尽くされたように、どんよりとした顔で、歩く人が、普段よりも多い気がする。
僕も同じように下を向いて、またスマホを取り出す。
今日は、電車の大幅な遅延が起きているらしい。
この様子だと足止めは一時間を超えるだろう。
学校には間に合うだろうか。
会社には間に合わないと社会人としての自覚を問われるから、学生のうちから気を付けるべきだね
鏡に映った僕の聲が、籠ったように聴こえた。
それを声に出す前に、少しの迷いを感じた。
だから、なんとか考え直して、
「一限間に合わないけど、みんな日本史は自習しているから、問題なし!
こんな調子のままだと、ろくな大人にはなれなそうだけど……」
と言い換える。
日本史の授業は自習がデフォルトであるのは、今も昔も変わらないものだから、きっと伝わる筈。
ほら、みんな頷いてくれた。
その様子に満足して、同じ内容をスマホに打ち込む。
改札を抜けてホームに立ったあたりで、ポツポツとリプライが来る。
それに答えて、また返ってきてを繰り返す。
その後も、明日の小テストとか、仕事場での恋愛事情だとか、話す話題がないようにみえて、意外と日々違う面白い話題が出てくる。
そんなたわいも無い会話を続けながら、カバンに入っているイヤホンに手を伸ばす。
画面の向こうのみんなと一言二言話していると、降りていく他校の人と目が合った気がした。
背筋が凍ったようだった。
その氷を溶かすように、少しのため息をつく。
彼らが降りて空いた席に、腰を下ろす。
寒さに耐えるように腕を撫でると、耳につけたイヤホンの音量をひとつ上げた。
————————————————————
思いついた優れたアイデアも、世界を変えるような一言も、たった少しの誰かの言葉で、図ったかのように無かったことになる。
出来るようなことが無い。出来る筈がない。
違う。
一時の気付きが誰にも拾われないから、いつになっても変わらない。
実際、真理は隣にある。使われるのを待っている。例えそれが彼らの影を掴んでぬか喜びをしているだけであっても、それすらしないよりかは遥かに有益である。
そう信じている。
紡ぐ言の葉、頭に浮かぶだけの糸くずのようなものに、価値を、形を作り上げて、そこに誰かが意味を植える。だから、今の社会がある。
見えないものに囚われない、
見えているものから開放されない。
消えない、失えない、と思う。
暗がり。
まとまりと、まとわり。
理想は幾らでもある。
今はまだ変えられていないだけで、
僕は「 」だから。
ただ、それだけのことなのに。
————————————————————
駅のホームに立った。
燻んだ点字ブロックから線路に向かって、心が満たされていくのを感じていた、かもしれない。
救える筈の大事な命だった、と誰かが言った。
だが、助からなかったと、無念を口にする人がいた。
止める理由も、その行動がどれほど愚かか述べる根拠も、何もろくに持たない僕らには、助けることは出来なかった。
今ならそれが分かる。
そして、そんな今にあるのは、その事実だけだ。
がたついたアスファルトの上に投げ捨てられた鞄。
しっかりと全身の映る画角。
人前で決して泣かなかった彼の涙が、パタパタと落ちて、
怖いものを見ないようにしていた、なんとかとどまっていたはずの彼が
踏み越えてはいけなかった場所に消えてしまった。
————————————————————
誰も見ていないSNSのアカウントを見つけたのは、それからすぐだった。
47秒。彼が使った最初で最後の時間。
短いようで、しっかりとそこにある時間。
当たり前であったはずのことを突き付ける彼は、たったそれだけの時間で、僕らに一生の傷をつけた。
あの日から、俺は『彼』になった。
彼に足りなかったのは、学力でも、優しさでも、友人でもない。
彼はただ、インターネットという箱に入って、もっと多くの支持者がいるだけで良かったのだと、気付いたからだ。
普段の彼と変わらない、理解出来ない文字羅列をみて、言い様もない心のざわめき、同情、自己嫌悪。
目の前に広がるそんな現実に、ただみているだけで抗うことも出来ない二人の人間に、哀しくなったからだ。
彼は、いつも居た。
でも、ここに居るのに、もう、こんな風に言葉を形にすることが出来ない。
だったら、君が
今まで聞けなかった、彼の、彼だけの聲が聞こえた。
だから、僕は彼を、彼をみる俺を救う為に、ここにいる。
————————————————————
彼の言葉を、誰にみられるとも分からないその全てに目を通し、彼の遺したものを、彼自身として昇華する。
大学、社会人と歳を重ねた今でも、彼が紡いだ五年の歳月の間、毎日彼が書いたものを、時に書き換え、時に彼の遺品の日記を使い、彼として生きてきた。
彼はただ、至らなかっただけで、そんななかでも俺を救い出してくれた。
でも俺は、本当は彼に取り入られただけなのかもしれない。
彼に縋ってもいるのだとも思った。
絡み合って渦になって、元々が分からなくなったのも、遠い昔。
新しいアカウント、新しい時間、新しい彼の言葉。
そのどれもが、偽りでない一つの証明である筈なのに、心はほんの少しの違和感でざわついてしまうほどに、落ち着くことはない。
独りでないから、この辛さも、あの孤独の蝕む生き方に比べたら、と思える。
例えそれがどんなかたちであっても。
————————————————————
今朝と同じホームで、乗り換えの電車を待つ。
いつものように、文字を打ち込む。
学校は集合時間に厳しい。
学校は輪を乱すことを容認しない。
でも、学校は、グループから外れた人には、優しい。
それらは、学校という場が、勉学という学生の領分と同じくして、社会性を養う場であるからだ。
正しくて、大人になっても変わらない事を教える場だからだ。
でも、所詮はキレイゴトだったんだよ。
目の前の僕が、言った。
それが最後、ここまで長かった五年の最後。
彼が唯一人のせいにしてしまった、彼の史上最大にして最低な人生の汚点。何も響かない哀しい言葉。
キレイゴトでは無いよ。学校は、正常に……
みんなは普通に生きていただけだから。
彼を、彼の綺麗なままで、終わらせるために、僕は一つ一つ丁寧に、初めて自分で言葉をつむいだ。
『僕』は怯む。
なんで、僕は、『ボク』は……
そういった僕は、かたちを保てなくなって、身体のあちこちが歪み始めた。
突然の事に慌てふためく『ボク』に、吐き捨てるように俺は、言った。
お前はもう僕じゃないから
もう原型をとどめられない『ボク』は俺の手に払われて、煙になって消えた。
あぁ、終わったと、思ったその時、独り言が聞こえて
大事な事を忘れているよ
消えたはずの『ボク』が、俺の手を引いて、僕は足を踏み外した。
仮装現実 燐火亜鉛(りんかあえん) @Pensive_occasionally
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