under the sea
山田ぼびん
第1話
その日、病室内は意外なことに(言い換えれば不幸なことに)、がらんとして、見舞客は一人もいなかった。しかし中央のベッドに彼女はちゃんと座っていて、まるで僕を待っていたかのようににっこりと笑って見せた。
僕はずっと彼女のことが苦手だった。クラスで一番の人気者で、優しくて明るくて美人で、才色兼備を絵にかいたような彼女、水瀬うみのことが苦手だった。自分でもどうしてここまで彼女を毛嫌いするのかよくわからない。ただ彼女のあのうっとりするような綺麗な笑顔が僕には不気味に見えて仕方がなかった。
漂白されたように白い整った歯列が薄い唇から覗き、口角が上向きに上がるその顔は、僕にはまるで歯を剥いているように見えて、酷く恐ろしかったのだ。
もっともそんなことを感じているのは僕一人のようで、休み時間になれば彼女が動かずとも机の周りには大勢の生徒が集まってきていた。
それでも幸いなことに、僕は水瀬とは正反対にクラスの隅の方で座っているタイプだったので、今まで一度として彼女と言葉を交わすことすらせずに学校生活を送ってこられた。それでも時折見せる彼女の満面の笑みにはぞくりとさせられたが。
しかしそんな日常も数日のうちにあっけなく瓦解してしまった。それは夏休みに入る少し前、水瀬うみが倒れたことから始まった。
正直に言うと彼女が病気で倒れて入院したと教師の口から聞いたとき、僕はこころのどこかでほっとしていた。もちろん彼女を心配する気持ちもあったが、それよりも水瀬うみという存在への恐怖の方が幾分か勝っていた。クラスメイトの心配げなざわめきの中で僕は小さく息を吐いた。
そんな僕がなぜわざわざ虎の巣穴に入るような危険を冒してまで彼女の病室に、馬鹿らしくも花束を携えてお見舞いに来る羽目になったのか。答えは単純で、母さんがどうやら彼女の母親と知り合いらしく「あなたもお見舞いに行ってきなさい。」と否だ応だもなしに送り出されてしまったという次第だ。
病室を前にして僕は考えていた。彼女のことだからきっとたくさんいる友人たちが見舞いに押しかけているだろう。それに紛れて花束だけ置いてきてしまえばいい。
しかしそんな予想に反して彼女は病室の中に一人で、僕を待っていたかのようにベッドの上でにこりと笑った。
「ゆう君来てくれたんだ~! 嬉しい!」
心底嬉しそうな柔らかい声色で言いながら例の不気味な笑みを深くする。彼女のその笑みを見た瞬間、背中がゾッと冷気に撫でられたように総毛立ち、体は操られているように勝手に彼女の方へ進んでいく。
「あっお花、持ってきてくれたんだね! ありがとう。」
その声に「あ、うん。母さんが、持って行けって……」とうわごとのように気のない返事をしながら震える手で花束を彼女に近づける。彼女の真っ白い手が花束を受け取る様子が、スローモーション再生のようにやけにゆっくりと見えていた。早く花束を渡してこの病室から出ていきたいのに、彼女の動きはそれを知ってか知らずか、もどかしいほどに遅いのだ。
「っじゃあ僕はこれで、お大事に……」
焦れた僕は花束を彼女の押し付けるように渡して急いで踵を返し病室の扉に手をかけた。
「ねえ山岸くん、お願いがあるの。」
背中に冷たい声がかかる。決して大きくも低くもないその声は、それなのに絶対的な力を持っていて僕は足を止め、振り返るほかなかった。
「……海に連れて行って。」
鈴の鳴るように小さな彼女の囁きが、まるで耳の中に直接話しかけられたかのようにはっきりと耳に届く。白い病室に負けないくらい青白い彼女の頬がふっくらと丸みを持って、彼女はとびきり美しく、不気味に微笑んだ。
————
耳の中をざらざらと涼しい波の音が心地よくなぞる。砂に車いすの車輪がとられて重たい抵抗が手にずしりと染み込んだ。
「駆け落ちみたいでロマンチックだねぇ、ゆう君。」
「駆け落ちにしては移動距離が近すぎないかな……」
僕と水瀬うみは、なんのことはない病院の近くの海に来ていた。もちろん逃げ出してきたわけでもなく外出許可を得た上で、だ。
ぎゅっと引っかかったような違和感が手に伝わって、車いすがとうとう止まる。
「どうして僕に……」
――頼んだのか。そう聞こうとした唇が薄く開いたままに固まってしまった。
長いしっとりとした黒髪が彼女が動くのに合わせて生き物のようにゆらゆらと風を泳ぐ。車いすから踊るように立ち上がった彼女は僕の方をちらりと見ると、微笑みながら、その体を重力にままに、海の上に投げ出した。
ざぼん
彼女の体が水とぶつかった音が人のいない海岸に波のように広がっていく。生暖かい頬に冷たい海水が跳ねた。
あまりの出来事に唖然とすることしかできなかった。飛び込む前の彼女のぞっとするほど美しい、融けたような真っ黒な瞳が、覗いた白い歯が、頭の中を占拠してしまってどうにもならない。海面の波紋がだんだんと薄く、ゆっくりと消えていく。
警察? いやまずは救急? 病院に知らせる? 助けに入るべき?
真っ白な頭の中でぐるぐると色々なことが巡っては消えていき、そのくせ体は一歩もそこを動けないでいた。
波の音をどこか遠くの方で聞きながら呆然と砂の上に立ち尽くす僕の耳にどこからかくすくすと笑う声が聞こえてきた。
「びっくりした?」
顔を上げるとそこには海面からひょこっと顔を出す彼女がいた。
透き通った水の中に見える彼女の下半身は、ちらちらと光を反射して虹のように輝いて、その様子は人間とはあまりにもかけ離れていて、まるで魚のようだった。しかしそんな、明らかに異常な彼女の姿を見て僕は(自分でも驚くべきことに)安堵にも近い納得のようなものを覚えていた。だからだろう、僕は彼女の問いに無意識に首を横に振っていた。
彼女は僕の答えに満足げに微笑んだ。
「だと思った。
だってゆう君、私のこと気付いてたでしょ?」
そう言って楽しそうに曲げられた口の白い歯の間から、炎のような舌が見え隠れした。
————
その日から不思議と僕は毎日のように彼女のいる海に行くようになった。彼女は相変わらず恐ろしい笑い方をするけれど、人の体に不釣り合いだったあの笑顔は、人魚のようなあの艶めかしい体にはよく似合っていて、それを見ることも苦でなくなっていた。
「お腹空かないの?」
この夏何度目かの海岸で、じわじわと迫る熱をコーヒー味のアイスで逃がしながら、涼し気な顔で海面を滑るように泳ぐ彼女に訊ねる。僕が見ているところで彼女は食べ物を食べていたことがない。ただのなんとはない質問だった。
彼女はすこしだけ考え込む風を見せた後で、何の前触れもなくとぷんと海の中へ消えていった。どうしたのかと思案し終わる前にまたすぐ彼女の黒い髪が水面にゆらゆらと上ってくる影が見える。
浮かんできた彼女の手の中には事切れた小さな魚がいた。魚を持つ彼女の手は知らないうちに随分と鋭い爪が生えそろっていて、なるほどあの爪で捕えられてはひとたまりもないだろう。
「おいしいよ。」
食べる? とでも言いたげな様子でぬらぬらとした、今まで生きていたそれをなんの衒いもなく差し出してくる。もっとも彼女は本当に僕に食べてほしいというよりは己の一挙一動で僕を嫌な気持ちにさせたいだけなのだ。彼女はそういう生き物なんだ。
案の定僕がその磯臭いような変なにおいに顔を歪めると、彼女は満足げに微笑んだ後でちょっとの躊躇いもなくその魚の頭を口に入れた。ごりごり、と口内からするのに相応しくない不快な音が耳に響く。
「よく噛めるね。」
頭の中ではまださっきの魚の食われる音が止むことなく聞こえている。
「私歯が強いから。」
にっ、と歯をこちらに見せるように剥いて口角を上げて見せた。ぎざぎざした歯はのこぎりのようで、人のそれとは比べようのない凶器だった。彼女の舌が自慢げに歯列をなぞる。白い歯の隙間からさっきまで生きていたはずの赤い血が覗き、ぞわりと背中が泡立った。
彼女の「触ってみる?」という声が催眠術のように頭の奥の方で聞こえてくる。僕の手がじりじりと導かれるように彼女の唇に近づいていく。
触れた歯は、本当にのこぎりのように細かくざらりとしていた。それは正しく、何かを傷付けるためのかたちだった。手から伝わる感覚に脳みそが恐怖で染まっていく。それなのにどうしても金縛りにあったように体が動かない。
ぷつり、と指の皮膚が裂けて珠のように血が膨らんで、彼女の口内で魚とまぜこぜになる。自分の指の先のあまりの赤さに眩暈がする。彼女は薄く笑みの形を作ったままに口を、ゆっくりと閉じようと、僕の指を咀嚼しようと動かした。その刹那、遅れてやってきた痛みでやっと体が自分のもとに帰ってきた。
僕は逃げた。心臓が耳の後ろで僕を急かす。じわじわと気持ちの悪い汗が体中を伝ってどうしようもない。指先がじんじんと痛みを主張してくる。
駆け上がって、駆け下りて、走って、走って、走って、玄関の扉を閉めて初めて、僕はやっと足を止めることができた。動きすぎた心臓のせいで頭が異常なほどに音をたてて痛む。気づかないうちに握りしめていたアイスで手がべたつく。僕は玄関にへたり込んだ。
その日以来僕はあの海岸に行っていない。いや海そのものに近づいてすらいない。
最近よくニュースが病院近くの海岸で行方不明がでたと報じている。原因不明だと真面目な顔で専門家が真面目な顔で語るその事件の真相を、僕は知っている。新しい被害者がでるたびに連続誘拐だなんだと報じられるそれを見て、僕はなぜだかあの彼女のうっとりするほど美しい笑顔を思い出す。頭の中の彼女はあの恐ろしいほどに尖った白い歯を剥いて僕をずっと待っている。
きっと次にニュースになるのは僕だ。
under the sea 山田ぼびん @yomogi_omochi
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