星、欲しい

桜零

星、欲しい

 病室に吹き込む隙間風が、肌寒く感じるようになった頃だった。

「ねえ、星野。私、もうすぐ死ぬんだ」

 君が、ヘラりと笑いながらそう言ったのは。

 その時俺は危うく、君に剥いてあげていたみかんを床に落っことすところだった。

「どうしても死ぬの?」

「うん、どうしても死ぬの」

 笑顔を崩さずにそう答えた。その頃の君はまだ血色がよく、髪だって艶やかだったから俺は到底信じられなかった。

 そういえば、君は「もうすぐ」と言っておきながら具体的にいつ死ぬのかは最期まで教えてくれなかった。余命ってやつを君は知らされていただろうに。だから、俺にとっては毎日が君との別れだった。毎日足しげく病室に通っては「じゃあね」とそっけなく別れをつげた。俺は、「また明日」が言えない苦しみを噛みしめながら、逢瀬を繰り返した。


 もう肌寒いという程度では済まなくなった季節を迎えた頃だった。俺が見舞いの品のリンゴを剥きながらふと君に聞いたのは。

「なぁ君川。何か欲しいものはないか?」

 ちっぽけな学生の分際で何を言っているのかと自分でも思ったが、それでも聞いてしまった。

 君は少し悩んでから、何か妙案を閃いたかのようにこう言った。

「星、がいいな」

 にっこりと笑いながらそう言った後、君は墨をぶちまけたような夜の空を差した。

「星、か」

 思わず復唱する。

「あ、別に駄洒落じゃないよ?」

 星が欲しい。なるほどそういうことか。

 慌てて気が付いたように弁明する君は、どうしようもなくかわいかった。だから、俺はついそれを承諾してしまった。見てろ、とびきりのを用意するからなとも言ってしまった。


 身を切るような寒さに、追い打ちをかけるように雪がちらつき始めた頃だった。ノックもせず君の病室に飛び込んで、そして君を連れ出したのは。君はぽかんとして俺が押し付けたふかふかのコートに袖を通した。その後は、何も聞かずに、ただ俺に手を引かれていた。

 俺たちは電車に乗った。夕方だったから帰宅ラッシュに巻き込まれると思いきや、案外空いていた。

 俺は、ガタンゴトンと規則的に揺れる車両に身を任せた。その隣には、俺に身を任せる君が座っていた。

「寒くない?」

「あったかい」

「そう、よかった」

 ぽつりぽつり丁寧に言葉を紡ぐように、俺たちは会話をした。言葉に集中するために、俺も君も滅多に表情は動かさなかった。お互い真顔で前を向き合って、気が向いたら口を開く。俺たちは昔からそんな感じだった。

 

 いつの間にか太陽は役目を終えて、地平線に沈みかけていた。海と空の切れ目は赤々と染まり、まるでこの世の終わりのようだった。

「今から、世界が終わるよ」

 冗談めかして俺は言った。

「私たちは生き残れるかな?」

 君はちょっとだけ楽しそうに言った。

「どうだろう」

「じゃあ、みんな知らないうちに死んでいくのね」

「そうかもね」

「哀れね。でも、世界の終わりを知ってしまった私のほうが哀れかもね。そう思わない?」

「そんなことないよ。終わるまでの時間を有意義に過ごせる」

 君は、沈みゆく世界の象徴をじっと眺めていた。瞬きもせず、息をひそめて。


 空は赤から紫へと変化し、やがて闇が訪れた。雪雲の地域を通り抜けて、電車は遥か遠くに俺たちを運んだ。

 やがて、目的地にたどり着いた。

「葭ケ丘」

 ペンキの禿げた看板にはうっすらとその文字が書かれていた。俺は、君の手を引いて電車を降りた。

「お二人さん、こんな遅くに大丈夫かね」

 気のよさそうな運転手が心配そうに俺たちに声をかけた。

「大丈夫です」

「まあ気ぃつけてな」

「ありがとうございます」

 

 そこには、その名の通り立派な広い丘があった。そして、首をほんの少し上へ傾けると――


「わぁ、きれい」

 ――満天の星空だった。君はうっとりとした顔で空を見上げていた。

「あれが、冬の大三角形。プロキオン、ベテルギウス、シリウス」

 俺は、順を追って南東の方角を指さした。

「詳しいのね」

「君のために勉強したんだ」

「ありがとう。最高の贈り物よ」

 君は大きな目をさらに押し広げて、まるで小さな子供のような顔をして笑った。

「その顔、久しぶり」

「その顔って?」

「そういう無邪気で純粋な笑顔」

「そんなことないよ」

「そんなことあるよ。君は何か言いたいことを隠しているとき、笑う癖があるんだよ。気づいてた?」

「そ、そんな隠すなんて」

 君はうろたえながら微妙な笑みを浮かべた。もうすぐ死ぬって言った時も、星が欲しいと言ったときも君は笑っていた。別に君に怒っているわけではない。ただ本心が知りたかったんだ。

「なんで、星が欲しいなんて言ったの?」

 俺は君を真っすぐに見つめた。真っすぐに見つめて、満天の星よりも美しい君の眼にずかずかと足を踏み入れた。君は涙目で視線を泳がせた。そして、呼吸を整えてかすかに聞こえる程度の声でつぶやいた。

「あなた、よ」

 暗くて見えないはずなのに、君の頬が赤く染まっていくのが見えた気がした。

「俺……?」

「そうよ。私、星は星でも星野が欲しかったのよ」

 俺は脳髄に直接電気を流されたかのように固まった。

「星は星でもこの俺――星野が欲しかったのか」

「そうよ。私、星野に恋してるの。毎日会いに来てくれるのが好き、果物剥くのがうまいのが好き、背が高いのが好き、」

 いつもじゃ考えられないほどの勢いで、君は俺への愛を吐き出した。

「ス、ストップ。その、えっと、君川さん、俺も好きです。もちろん恋愛感情のほうで」

 俺も、いつもの俺じゃ考えられないほどしどろもどろになりながら返事をした。そしたら君は、脱力したようにその場に座り込んで号泣し始めたから、俺はどうしようかと困ってしまった。とりあえず、俺も隣に腰を下ろし、君を横から抱きかかえた。そして、怖い夢を見た子供をあやすようにそっと背中を撫でた。

 

 しばらくして、君は泣き止んだ。

「最初から、そんな謎かけのようなことせずに言ってくれたらよかったのに」

「……嫌われたくなかったから」

「俺が君を嫌うことなんてないよ」

「ほんとに?」

「うん、ほんとに」

 相変わらず俺たちは顔を合わせずに言葉を交わしあった。

 その時だった。俺たちの目の前を一筋の光が通り過ぎた。そしてそれを引き金に、光は次々と現れた始めた。

 ――双子座流星群。俺は君にこれを見せたかったんだ。

「すごいね」

「うん、すごい」

 喜んでくれただろうか。

「世界が終わった後に、こんなきれいなものが見れるなんて。案外悪くないかもね」

「またその話?」

 君はずいぶんと先ほどの俺の冗談がお気に召したようだった。

「死んでからも、流れ星は見れるかな」

「君が望めばね」

「じゃあ、私の世界では一年中流れ星が見られるよ」

 世界が終わったら、また作り直せばいい。

 君は知っていたのだろうか。星の形というものは、木・火・土・金・水の五つの元素の働きを表している。つまり、星には世界を形作る要素が全部含まれているのだ。君は、この俺という星を手に入れたから、いくらでも世界を構築することができる。

「君の世界にいつか俺も招待してくれるか?」

「何十年も経ったらね。流れ星見せてあげる」

「そうだな。待ちくたびれないでね」

 そして、俺は君に最初で最後のキスをした。


 春風に乗って桜が舞い散る頃だった。君の世界が終わりを迎えたのは。俺がいつも通り「じゃあね」と言って病院を後にした数十分後だったらしい。

 棺に横たわる君はまるで夢を見ているかのように安らかな顔をしていた。きっと、次の世界のことを考えているのだろう。

「また、数十年後な。君川」

 俺は君の耳元でそっとつぶやいた。

 君ともう一度、流星群を見る日を夢に見て。 

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