第8話 わたし、恋しちゃったみたい
今日はレッスン日。
あたし――結花は事務所のレッスンルームで休憩していた。
「ふう……。えみり、どうしてるのかな」
あたしはあの事件以来、えみりと連絡していなかった。
スマホのロックを解除して、ラインを開く。えみりの文字とアイコンが一番先頭にある。
連絡した最終日、4月28日で止まっていた。
えみりとのトーク画面を開くと、入力欄には未送信の状態で文字の羅列が残っている。
気まずかったのだ。
あれから、ろくなお話もせずに一週間程経過していた。
一週間という時間はやはり大きく学校でも、若干距離が出来てしまったように感じる。お昼休みも率先して声掛けられなくなったし、声を掛けに行っても返事は一言二言で、かなり素っ気なかった。
レッスン中にでた汗を額から落ちるのを感じてあたしは、右腕のTシャツの生地で拭った。
「皐月さんとあんなこと……」
あたしは、人差し指で自分の唇をなぞった。
なんでだろう。素直になれない自分がいる。
怖くて、それ以上の事が怖くてあたしは、振り払った。だけれど、えみりは怖くなかったの? それとも言えなかった? ううん、そんなのはどうでもいい、皐月さんはなんでえみりと?
そんな、疑問がずっとぐるぐるとうずめいていた。
レッスンルームをでたあたしは、自販機が4台程並ぶ廊下に出る。すぐ左手に大きな柱があり、その柱を囲うようにベンチが設置されている。そのベンチにあたしは腰を下ろした。
レッスン再開までまだ三十分ある。
両肘を両膝において前のめりになるようにして床をみた。
五分ぐらいした時だろうか、コツコツ、と軽快なリズムを刻むように次第に大きくなって音を立てていた。
長い廊下のその先を見てみると、見慣れたきれいなお人形さんみたいな人物が立っていた。
煌めく黒髪は更に伸びたのか、腰の位置までに達していて、凛とした目つき。スラッとしいて上品な佇まいでこちらを見つめていた。
思わず見とれて、あたしはしばらく見ていて。
フリーズしたままで、あたしは動けなかった。
そして、ふと我に帰って顔に視線を向けると目があって、軽く笑みを浮かべてこっちにコツコツと歩いてきた。
なんて、小悪魔な人なんだと思わずにいられない。
「結花さん、最近拝見しないのだけれどどうしたの?」
あたしの隣に腰を下ろして言った。
「……そ、それは気まずくて。あんなことしてしまいましたし」
「ふうん、そうなんだ。そんな事で距離を置くなんて、わたし、そんなに近寄りがたい人?」
そうですよ、とは言えなかった。なんだか違う気がして。
「あたし……あの後、謝ろうと色々考えていたんですが、その矢先に見ちゃった……いや、正確には聞いてしまったんです。えみりとあんなことしていたなんて。怖くて、いけない所を見てしまったなんて思って逃げちゃいました。それから、頭は真っ白で」
「あ~あ、柳下さんと……。聞いちゃったのね」
ふと、口元を覗くとなんだか楽しそうで口角が少し上がっていた。
「じゃあ、もう一度結花さんとしてみる? 柳下さん以上のコト。ふふふ」
「えっと……その…そうい――」
しどろもどろになっていたその時、視線が停電したみたいに真っ暗になった。
甘い匂いが鼻孔をくすぐる。とろけてしまいそうで、肩の力が入らず抜けているのがわかって。
しばらく、このままでいたい。何もかもどうでもいい。この時間が永遠に続けばいいのに。
そんな煩悩の塊があたしの頭に、凄まじいスピードでやってきた。
そして一気に視線が開いて、まるで朝日が差し込む時のように明るくなった。
皐月さんの頬は、まるで桃のように淡いピンク色に染まっていて、耳が赤かった。
「わたし、恋しちゃったみたい」
そう言い残してそれじゃ、と手を振って帰ってった。
あたしも、手を振って呆然と挨拶をして相当ウブなんだなと、自覚した瞬間であった。
リリー・ブロッサム 量子エンザ @akkey_44non
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