第35話 好き嫌い


「少しいいかしら、ローグラン侯爵」


 立ち上がって部屋を出ようとしていたローグラン侯爵は、足を止めて振り返る。訝しげな視線を受けながら、フィオナは微笑んだ。


「先日、あなたが語った言葉がずっと気になっていたの。……あなたが見た『叶わぬ夢』とは、どんなものなの?」

「……えっ? 姉さん、それは聞くべきじゃないと思うよ!?」


 シリルが慌てて小声で囁く。

 ローグラン侯爵はシリルの狼狽をちらりと見たが、心情を探らせない薄い笑みを浮かべた。


「フィオナ嬢。どういう意図の質問か、伺っていいかな」

「あなたが気にするような陰謀はありませんわ。ただ知りたいだけですから」

「姉さん……まさか、知りたいってだけでここに来たの?」


 思わず呟いたシリルは、恐る恐るローグラン侯爵を見る。

 元武人の侯爵は何も探り出せない笑みのままだが、怒っている様子は微塵もない。

 いつも通りの冷静さがある。ただ……フィオナを見る目だけはやっぱりいつもより柔らかい気がする。


(……これ、怒ってないどころじゃないよなぁ。やっぱりこの人は……そんなに姉さんのことが……)


 そんなに……好きなのか。

 心の中ですら言葉にしたくない。シリルは麗しい微笑みを浮かべつつ、ほのかに顔を引き攣らせる。

 ここがカーバイン公爵邸だったら、頭を抱えて走り回っていただろうが、そんな衝動をグッと堪えるだけの理性は残っている。


 フィオナは、必死で動揺を押し殺す弟のことは気にしていない。

 緑を帯びた白い目を見上げながら、小さく首を傾げた


「どんな夢を見たのか、教えてくださるかしら?」

「……つまらない、とてもささやかな夢だ」


 ローグラン侯爵はポツリと呟いた。

 しかし、すぐには言葉は続かなかった。お茶のカップや菓子の皿が並んでいるテーブルを見やり、やがて自嘲するように唇をわずかに歪めた。


「……例えば、食事の時に向かいにあなたがいる。南部の果物に目を輝かせるだろうし、執務室に招けば博識なあなたは有益な助言をしてくれるだろう。閉鎖的な南部の屋敷が、顔の広いあなたを慕う来客で賑わう日が来るかもしれない。そんな日々を夢見てしまった。……我ながら愚かな妄想だな」


 ローグラン侯爵は髪をかきあげ、苦笑を浮かべながら目を逸らす。

 気配を消してお茶をすすっているシリルに目を向け、気まずそうな顔に笑いかけた。


「シリル君が退屈しているようだ。そろそろ屋敷に戻るべきではないかな? 道中の邪魔にならないよう、譲渡書は我が家の者に届けさせよう」

「あ、そうですね。そうさせてもらおうよ、姉さん! 遅くなると、母上が心配するよ!」


 シリルは勢いよく立ち上がり、姉の前に手を差し出す。

 しかし、フィオナは弟の手をじっと見たものの、立ちあがろうとはしなかった。眉をひそめながら、何かを考え込んでいる。

 これはよくない傾向だ。

 嫌な予感がするから、シリルはさらに姉を促そうと口を開きかける。

 しかし、言葉を紡ぐのはフィオナの方が早かった。


「ローグラン侯爵は、そんな平凡な夢を思い描くのね」

「図々しい夢だと軽蔑されるかと思ったが、意外に寛大なのだな。だが、申し訳ないが、私も執務に戻らねばならないから……」

「ねえ、ローグラン侯爵。私、あなたのせいで『結婚できない女』と呼ばれているのよ」

「それは……申し訳なかったと思っている」

「『婚約破棄おめでとう』なんて言うから、あなたに嫌われていると思っていたわ」

「……同情的な慰めより、元気になっただろう?」

「そうね。とても元気になったわ。自分から飛び込む夜会も楽しかった。それに、私は気付いたの。誰とでも結婚できると思っていたけれど、私はそんなに心が広い人間ではなかったみたい」


 フィオナは立ち上がった。

 慌てる弟を無視し、ローグラン侯爵の前に立つ。

 床にレースや刺繍を凝らした裾を広げるドレス姿も美しいが、すっきりとした乗馬服を着たフィオナはいつも以上に生き生きとしている。

 そんな躍動的な姿で、フィオナは華やかに微笑んだ。


「私、また婚約がダメになったみたいよ」

「……そんな馬鹿な。ルバート伯爵がまた誤解をしたのか?!」

「いや、そんな話は聞いてませんよ!? 今日だって、僕たちが出かける前に近くに来たからとわざわざ挨拶をしに来てくれて……どう考えても順調ですよ。そうでしょう、姉さん!」


 顔を強張らせるローグラン侯爵に、シリルは慌てたように言って、姉の真意を探ろうと顔を見る。

 フィオナは可愛らしいため息をついてみせた。


「シリル。どうして私がいつも断られると思っているの? 私が断ることだってあるでしょう」

「…………え? あ、そういえばそういうことも……ええっ、姉さんが断るつもりなの?!」

「ええ、そうよ。初めて私から謝罪することになるのね。申し訳ないけれど、なんだかワクワクするわね」

「ね、姉さんっ?!」


 シリルは焦った。

 姉フィオナが本当に楽しそうにしているのが、ますます焦りを煽っていく。

 どうやら姉は本気で言っているのだと悟り、とっさに頭の中で慰謝料の金額をいろいろと計算してしまう。それから改めて青ざめた。

 ローグラン侯爵は、眉を潜めてフィオナに向き直った。


「フィオナ嬢。ルバート伯爵には何も問題はないはずだ。それとも、何か気になることがあったのだろうか。誤解ではないのか?」

「あら、ローグラン侯爵まで私が断るわけがないと思っていたの? 私は人形ではなくなったのよ。家や立場のための結婚より、自分の気持ちを優先したいと思う平凡な人間になったの」

「それは」

「ルバート伯爵はいい方よ。私のことも大切にしてくれるでしょう。でも、それは私がレイティア様に似ているからよ。私に対する時、今もレイティア様を基準にしているわ。私は病弱ではないし、気に入らないことがあれば自分の手で払い除けることができる。なのに、それを理解していないんですもの」

「そ、それは、そのうち変わると思うよ! 男って夢見勝ちな子供だから! そうですよね、ローグラン侯爵!」

「……シリル君の意見に賛成だ。すぐに素のままのあなたに慣れるだろう。不要な争いはしないが、不当な扱いを許さないあなたの気の強さも気に入っているはずだから」

「でも、私は嫌なの」


 フィオナははっきりと言い切った。

 そのはっきりとした態度に、シリルは言葉を失って口を閉じた。

 愛人の存在すら許容しようとしていた以前の姉とは別人のような、当たり前の感情を見せる姉に驚き、そして驚いてしまっている自分に愕然とした。


 フィオナは聡明な女性だ。

 聡明すぎるゆえに、未来の夫が愛人を置くことを許容しようとしていた。結婚は貴族の義務であり、子を成すことが最優先という価値観の中で生きてきた。

 だが、好き嫌いがないわけではない。

 昔からフィオナは果物が好きで、嫌いな料理もあって、でも立場があるからそんな素振りは見せず、何も言わずにいた。


 その姉フィオナが、嫌だと言った。それを否定する意味などあるだろうか。

 シリルは大きく息を吐き、ゆっくりと頷いた。

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