第36話 ぴったりな言葉
「……わかったよ。姉さんがそう決めたのなら僕は応援する。父上も説得するし、ルバート伯爵への謝罪や交渉も僕がするよ」
「ありがとう。でも、我がままを言うのは私だから、私が矢面に立つつもりよ」
フィオナは微笑む。
穏やかで、明るくて、しっかりとした意思がにじんでいる。
周辺国で平和が続いていれば、将来は王妃になるはずだった。そんなあったかもしれない未来を思い描いた時に、誰もが納得する美しく誇り高い姿だ。
シリルはため息をつく。
しかしすでに覚悟は決めているから、姉に笑顔で腕を差し出した。
「父上と母上に話をしなければいけないから、もう帰ろうか」
「そうね。失礼しましょう」
弟の腕に手をかけたフィオナは、ふとローグラン侯爵に目を向ける。
黒髪の侯爵は、じっと床を見ていた。
すぐにフィオナの視線に気付いて苦笑を浮かべ、ほとんど乱れていないのに髪をかき上げた。
「私が余計なことを言ってしまったから、あなたは気付いてしまったのだろうな」
「あら、違和感はあったから、そのうち気付いたと思うわよ。むしろ、今気付けてよかったわ。私が負けず嫌いな性格ということも自覚できたし」
「……えっ、姉さん、自分の性格に気付いていなかったの……?」
「私、もっと物分かりがいいと思っていたわ」
「まあ、それはそうだったけどね。遅くやってきた反抗期というか……でも、そんな姉さんもいいと思うよ」
シリルは深いため息をついて、戸口へと向かおうとする。
しかしフィオナは弟から手を離して、立ち尽くすローグラン侯爵の前へと行った。
「今後、誰に命じられたとしても、私のことで勝手に動ないで。次はためらいなくローグランを潰しますわよ?」
「肝に銘じよう」
ローグラン侯爵の唇が笑みの形に歪む。
いつもの底が知れない顔に戻っている。手段を選ばない不敵な謀略家に対し、フィオナは手を差し出した。
「また、南部のお話を伺ってもいいかしら?」
「……あなたが望むなら」
フィオナ流の和解の言葉に、ローグラン侯爵は薄く微笑む。
乗馬用の手袋をはめた華奢な手をゆっくりと持ち上げたが、口付けの形は取らない。
しかし……わずかに緑色を帯びた白い目は、強気に輝くエメラルドグリーンの目を見つめていた。
その目にいつになく熱がこもっている気がして、シリルは内心の叫びを押し殺し、少しわざとらしい咳払いをした。
シリルにちらりと目を向けたローグラン侯爵は、フィオナの手を離した。
ほっとしたシリルは、部屋の外へ出ようと扉へと体を向ける。
しかし、フィオナは小さく首を傾げた。
「もう一つ、わがままを言いたいの」
姉の声に、足を踏み出しながらシリルは肩越しに振り返る。
フィオナはローグラン侯爵を見上げ、艶然と笑った。
「ローグラン侯爵。あなたに結婚を申し込むには、どうすればいいのかしら?」
シリルの肩が大きく動いた。
踏み出しかけた足が空を切り、とっさにバランスを取ろうとした体が大きく傾く。
しかしシリルは若い。それに意外に反射神経もいい。見苦しく床に倒れることはなかった。代わりに、五歩ほど騒々しく足踏みする。
変な動きをしたようで、首の筋を少し痛めてしまった。
痛みに思わず首を押さえながら、シリルは今聞いた言葉が幻聴であることを本気で祈っていた。
「……あの、姉さん。今、変なこと言わなかった……?」
「ローグラン領は閉鎖的で王都からも遠いけれど、軍は強いわ。果物は美味しいし、前王陛下のご落胤のレイティア様を娶った実績があるのなら、利点しかないんじゃないかしら」
「え、まぁそうだけど……そうなんだけど、姉さんは自分が何を言っているのか、理解しているのっ?!」
「私はレイティア様の身代わりではない、と言った時のあなたの笑顔は悪くなかったわ。それに、意外に平凡な夢を語るあなたもね」
フィオナはふと言葉を切って、何かを考え込む。
それから、顔を明るくして手を叩いた。
「そうよ、こういう時に、ぐっときたというのでしょう?」
「……はっ?! その言葉、どこで覚えたのっ?!」
「ロフロス様がよく言っていたわ。ニュアンスがわからなかったけれど、やっと理解できた気がするわ!」
「せめて『キュンとした』くらいにしようよ!?」
シリルは首の痛みを忘れて、頭を抱えた。
もちろん、頭の中では王甥ロフロスへの罵詈雑言が飛び交っている。
そんな弟を気に留めず、フィオナは呆気に取られたような顔のローグラン侯爵を見上げて、にっこりと笑った。
「私はローグラン領とあなたが欲しいわ。カーバインとローグランが手を組めば、我が王国は安泰でしょう。だから私と結婚……」
「……姉さん!! 急用を思い出したからすぐに帰ろうっ!! 侯爵、また後日っ!」
「え、ちょっとシリルっ? 私はまだ話の途中よっ!」
突然、シリルが割り込んだ。
陰鬱に頭を抱えていた美青年が、まるで腕利きの騎士になったかのように姉を引き寄せ、肩に担ぎ上げて、ものすごい勢いで走り去る。
廊下ですれ違ったメイドたちが、目をまん丸にして見送る。
肩越しに振り返ると、ローグラン侯爵が呆然と見送っているのが見えた。
しかし、シリルと目があった途端に口元に手を当て、背を丸め、肩を震わせた。抑えようとした笑いはすぐに大きくなり、廊下に笑い声が響く。
居合わせてしまった従者たちは、ギョッとした顔で主人を見ていた。
シリルは前を向き、さらに足を早めた。
細身に見えても、シリルは護身術を身につけている。その上、護衛たちは「坊ちゃんも女をさらえるくらいの甲斐性を持つべきです!」などと言って、重い荷物を担ぎ上げる訓練を課していた。
当時は「何を言ってんだこのおっさんたち……」と呆れたものだが、無意味と思っていた訓練が役に立っている。多少は息が切れたが、無事に馬に姉を乗せることができた。
姉の馬の手綱を引きながら、シリルはカーバイン公爵邸へと馬を急がせた。
フィオナが不満そうに何か言っているが、もちろん聞き流している。
今はただ、脳まで筋肉が詰まってそうな護衛たちの先見の明を称賛し、姉フィオナが小柄で細身であったことを心の底から感謝するばかりだった。
「つまり……フィオナは、ルバート伯爵を振るのだな?」
「申し訳ありません」
「そして、ローグラン侯爵との結婚を望む、と」
執務机に肘をついたカーバイン公爵は、手のひらに顎を乗せながら机の前に立つ娘を見上げる。
銀髪のフィオナは、帰宅した時のままの乗馬服姿だ。やや髪は乱れているが、エメラルドグリーンの目はきらきらと輝いている。
こんなに前向きで明るいフィオナは久しぶりだ。
まるで……かつての婚約者たちとの婚約を承諾したときのようだ。
あれは誰の時だったかと一瞬悩んでしまい、カーバイン公爵はうんざりと頭を振って考えるのをやめた。
「……あの男は、お前の婚約を壊してきたのだぞ?」
「カーバインを出し抜いた、狡猾で優秀な人物だと思っています」
「すでに結婚歴があるそうではないか。それに浮名にも事欠かない男だぞ。愛人を抱えているのではないか?」
「後妻であろうと、正式な妻です。それに愛人はいないそうです。ただ、今後は女性関係は控えてもらわなければいけませんね」
「十歳も年上だ」
「私も二十一歳なので、そんなに差はない気がします」
「あの歳になってまだ子がいないのは、将来的には問題になるかもしれないぞ?」
「先代侯爵の御息女には子が複数いるそうですから、私が子を産めなくてもなんとかなります」
「……まあ、そうではあるがな」
カーバイン公爵はため息をついた。
天井に目をさまよわせていたが、小さく首を振った。
「フィオナの望みは理解した。それで、あの男の反応はどうなのだ?」
「返事を聞く前にシリルに邪魔をされてしまいました」
「僕は謝らないからね。一度、頭を冷やす時間が必要だったから」
「あら、私は冷静なのに」
「……いっそ、熱に浮かされている方が良かったよ!」
シリルも父親そっくりのため息をついた。
美しい大理石の柱を見つめ、すぐにきりりと表情を引き締めてフィオナを見た。
「あのさ、そのまま聞いちゃうけど。姉さんは……ローグラン侯爵のことが好きなの?」
「シリルよ。いきなりそれを聞くとは無粋だぞ」
「……父上こそ、こうなることを狙っていたでは? あの変な茶番劇を提案したのは、ローグラン侯爵の本気度を試したかったからではありませんか?」
シリルはこっそりと父親に囁く。
カーバイン公爵は心外そうに目を大きく見開いたが、すぐにニヤリと笑った。
「選ぶのはフィオナだ」
「……わかりました。この件、母上に言い付けておきますから」
「え、それはちょっと考え直してほしいっ!」
初めてカーバイン公爵が動揺を見せた。
公爵夫人である母エミリアは、七回も婚約を繰り返したフィオナを心配しているし、溺愛もしている。
そして、家の中のことに限っては、カーバイン公爵は妻エミリアに極めて気を遣っている。
夫婦円満なことはいいことだ。
だが、たまにはきっちり絞ってもらおう。
シリルが母への密告を決意した時、ずっと首を傾げていたフィオナは小さく頷いた。
「あの人のこと、好きかどうかわからないわ。でも明日会ったら、もう少し確信が持てそうな気がするわね」
「えっ? 明日の夜会、まだ出るつもりだったのっ?」
「ローグラン侯爵に返事をもらっていないもの」
すまし顔のフィオナに、シリルは「明日は絶対に両親も連れて行こう」と強く心に決めた。
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