第34話 寄り道



「……姉さん。今日は遠乗りに行くと言っていたよね?」

「ええ、言ったわよ」

「…………ここが最終的な目的地だったの?」

「もちろん違うわ。でも、近くを通りかかったからには、寄ってもいいと思わない?」

「他のところだったら、そう思わないことはないよ? でも、なぜここなのかなぁ!?」


 ゆったりとした椅子に腰を下ろした姿で、シリルは頭を抱える。

 その横で姿勢良く座るフィオナは、ても楽しそうに見えた。正確には、目がキラキラと輝いている。

 ……いや、輝いている、とも違う。

 戦意に満ちている、というべきだろう。シリルは頭から手を退け、恐る恐る姉を見た。


 乗馬服を着て、風に当たったせいでわずかに紅潮した頬をしたフィオナは、堂々としている。

 今日のフィオナを見て、人形のようだと思うものはいないだろう。

 生き生きとして、感情豊かで、気の強さがにじんでいる。

 途中で馬を駆けさせたりしたから、多少整えたと言っても髪はわずかに乱れているし、化粧も十分ではない。

 なのに、そんなフィオナはとても美しい。


 敵地に乗り込んだというのに、自信に満ちている。こんなに姉が美しく見えたことはないかもしれない。

 シリルは、せめてここが普通の貴族邸だったら……と絶望的な気分で考える。


(……というか、なぜここに寄ったのか、僕には全く理解ができないんだけどっ!)


 今、姉弟が座っている椅子は貴族邸宅の客間のもの。

 目の前のテーブルには、王都ではあまり見慣れない果物がいくつも飾られている。気が向けば食べることができるようにという、南部らしい風習だ。

 ここは南部大貴族の屋敷。

 フィオナは、この屋敷の主人であるローグラン侯爵が現れるのを待っている。




 乗馬に出かけて、帰る途中で先触れもなくローグラン侯爵邸を訪問した。

 追い返されるかと思ったのに、すぐに客間に通された。ローグラン侯爵もすぐに来るらしい。

 在宅だったのは良かったが、なぜ自分がここにいるのか……シリルは全くわからない。

 いや、姉フィオナの付き添いのためだとはわかっている。それが弟としての務めであることも理解している。

 しかし、なぜ姉がここを訪問したのか、それが理解できなかった。


 わざわざ人前でプロポーズを断ってみせたのは、余計な噂を封じるためだったはず。

 好奇心旺盛な貴族たちが、無責任にフィオナの恋物語の続きを囁き合い始めたらどうするつもりなのだろう。

 ルバート伯爵との婚約が間近だというのに。


(……間近、と思っていいんだよね……?)


 ふと嫌な予感に襲われ、シリルはブルリと体を震わせる。

 扉が開いたのは、その直後だった。


 黒髪のローグラン侯爵は、フィオナを見て少し眉を動かした。

 本当にフィオナが訪問していると確かめて、改めて驚いたのかもしれない。

 だが白翡翠のような目は冷静で、わずかにひきつりが残っている口元に薄い笑みが浮かんだ。


「麗しきカーバイン公爵家の姉弟をお迎えするとは、実に光栄ですよ」

「近くを通ったから、ついでに寄らせていただきましたわ。……書類が出来上がったというお知らせもいただいておりましたから」

「確かにお送りしていたな。それで来てくれたのか」


 わずかに苦笑したローグラン侯爵は執事に合図を送る。

 落ち着いた表情の執事は、フィオナとシリルの前にお茶とお菓子を置いた。


「フィオナ嬢をお迎えする日が来るとは思っていなかったから、南部の菓子しかない。口に合えばいいが」

「珍しいものは大好きですわよ。……ん、確かにちょっと変わった風味ですのね。でも美味しいわ。シリルはどう?」

「……美味しいです」

「あら、このお茶も変わった香り。花の香りとも、柑橘の香りとも違うみたい」

「そうか、その茶葉も王都の人間には珍しいかもしれないな。この辺りでは香辛料として扱われているのだったか。これは茶葉と混ぜて飲みやすくしているが、匂い消しとしても使われる。質の良くない水しかない戦場ではよく飲んでいた。汗をかいた時に良いとも聞く」

「まあ、そうなのね。確かに飲むとスッキリするわ。もう一杯おかわりをいただけるかしら。シリルはどう? 美味しいと思わない?」

「……お茶も美味しいです」


 満足そうに茶を飲んだ後、フィオナはさらに別の菓子を口に運んでいる。目がキラキラと輝いているから、それも気に入ったのだろう。

 しかし……フィオナのこの笑顔は、ただ美味しいものを食べて喜んでいる顔ではない。弟シリルは姉が次に言いそうな言葉をすでに察してしまった。

 だから諦めの境地でテーブルに目を落としながら、もそもそと菓子を食べ続ける。

 果たして、フィオナは目をきらりと輝かせた。


「ローグラン侯爵。もしかして、南部には王都で出回っていない食材も多いのかしら?」

「それなりにあるだろうな。南部はこの辺りにはあまりない癖が強いものがある。そのままでは受け入れられにくいから、わざわざ持ち込むことはないはずだ」

「でも、このお茶は飲みやすくなっていますわよ?」

「これは……王都の人間にも飲みやすいように、いろいろ改良していた時期があったからな」

「王都育ちのあなたの奥様のために?」

「……そういうことです」

「なるほどね。でもこれは売れますわよ? もう少し改良していいかもしれませんけれど。シリルはどう思う?」

「…………売り出し方によっては、かなり流行ると思う」

「ふふ、やっぱりそう思うわよね!」


 フィオナは機嫌よく微笑み、お菓子を食べ、お茶を飲む。

 ローグラン侯爵はそんなフィオナを、薄い微笑みのまま見ていた。

 だが、シリルは硬い顔をしていた。……フィオナは、弟が極端に口数が少なくなっていることに気づいているだろうか。


 シリルは、ただひたすら途方に暮れていた。

 姉フィオナが何を考えているのか、やっぱりわからない。

 ローグラン侯爵はフィオナの婚約を壊してきた男で、先日は人前でプロポーズをさせ、手ひどく拒絶して見せたばかり。なのに、近くに来たからと言って屋敷に乗り込んで、菓子を食べ、茶を飲んでいる。

 ……本当に、何をしに来たのだろう。


(というか、この和やかな雰囲気は何なの? 姉さん、本気で楽しんでいるよね? このお菓子は美味しいけど、お茶も面白いけど! ローグラン侯爵も、もっと迷惑そうな顔をして追い出しにかかってもいいと思うんだっ!)


 心の中で頭を抱えつつ、でもシリルはなんとなく気付いている。

 ローグラン侯爵は、いつもは翡翠そのもののように冷たく無感動な目をしている。なのに……今はとても穏やかだ。

 明らかに和んでいる。

 いつかの夜会で、フィオナとレモンや葡萄の話をしていた時のように。

 気のせいでなければ、ローグラン侯爵はずっとフィオナを見ている。そして当然というべきか、フィオナの隣にいるシリルにほとんど目を向けていない。


(……ああああ、これ、絶対に気づきたくなかった……!)


 すでに十回を超えた心の中の絶叫をまた繰り返した時、フィオナがカップを置いた。


「ところで、準備をしていただいた書類のことですけれど」


 そう言って微笑む顔は、獲物を前にした猫のようだ。

 やっと本題が始まるらしい。シリルはほっとしながら、背けかけていた姿勢を少しだけ戻した。

 ローグラン侯爵はその言葉を待っていたのだろう。控えている従者を振り返った。従者も心得たように壁際に置いていた箱を侯爵の前へと運んだ。

 ローグラン侯爵が箱を開ける。

 中に入っていたのは、国王のサインが入った公式文書だった。


「トラジル地方を用意している。トラジルのことはご存じだろうか?」

「果物の産地だそうですわね」

「土地としては小さいが、街道に近く、栽培されている果物の種類は豊富だ。きっと満足していただけるだろう」

「そんな良い土地を、私がもらっていいの? かなり重要な場所ではないかしら」

「軍人時代に報償として受け取る程度の地だ。価値を見出してくれるのはあなたくらいだろう。私の署名は終えている。持って帰られるか?」

「そうですわね」

「では、支度をしてこよう」

「——でも、先に伺いたいことがあるの。少しいいかしら、ローグラン侯爵」

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