第3話 神様に選ばれる理由、即ち虚無

 だが全てを超越する存在になった私の在り方は、あまりにも退屈に過ぎた。全てを知っている、ということは、新たに知ることの出来る一切がもはや残されてはいないということである。どんな言葉もどんな知識もどんな感覚も見飽きた映画のように知り尽くしてしまい、あらゆる現象は私にいかなる刺激も興奮ももたらさない。

 それは、私がここで一個だからだと思うかもしれない。しかしそれは当てはまらない。私の想像世界の中には、自己の実在を錯覚することによって生きる無数の者たちがいる。しかし誰だって自分の頭の中で空想しただけの存在を他者と認識することはできないだろう。

 では彼らを実世界に創造してみたらどうだろう。これも結局私にとっては意味が無い。たとえ私の想像世界の誰かを実在させたとしても、結局それは私が一度想像したことが実世界で繰り返されるだけなのである。

 例えばその創造した誰かがどんな心情でいるのか、何を欲しているのか、どんな刺激を与えたらどんな反応が返ってくるのか、その全ては私が最初に想像したことであり、一分の隙もなく完全に自明なのである。 

 何を話しかけてどんな言葉が返ってくるのか、それすら一言一句違わず当たり前に分かってしまう。そんな存在を他者として認識できるだろうか。いや、それはもう自己の延長のようにしか感じられないだろう。

 だから今の私はほとんどどんなことにも意味を見出さない。唯一にして絶対の存在者になるということは、同時に底なしの虚無と孤独の深淵に沈んでいくということでもあるのだ。孤独であることを寂しいとは感じない。

 想像によって気分を変えることはできるし、その感情そのものを消し去ってしまうこともできる。それよりどうしようもないのは虚無感のほうだ。全能の力があればどうとでもなるのだが、全てがどうでもよくなりすぎて力を使ってどうにかする気すら起こらない。

 そして最終的には唯一絶対であり世界である「私」そのものがどうでもよくなってくるのだ。そう、自らが存在することそのものに飽きてしまうのである。今なら私にもあの白いウサギの気持ちが理解できる。存在そのものに飽きてしまった存在者は、誰かにその絶対の位を譲渡して自らは消滅することを選ぶのである。あの白いウサギも今はもう消滅している。

 あのウサギだけではない。ウサギもまた以前に神の位をもらい受けた存在だった。ウサギの前の神は殺し屋に射殺された男の手から落ちて床にたたきつけられようとしていた生クリームたっぷりのクレープ、その前の神は、善良な人々に拾われた捨て猫に捨てられた元キャット・ホームの段ボール箱だった。更にその前の神はスベスベマンジュウガニ(エビ目・カニ下目・オウギガニ科・マンジュウガニ族)だった。

 これらは全て私がいた世界に存在した生物や物体である。神の後継者とする対象は別に生物でなくてもいいのである。全能の力を使えばどうとでもなることである。自分のことすらどうでもよくなった神は基本的に判断基準が適当なのである。

 だから次の神の選び方も適当になり、その選択に大した意味はない。ただ神になった者は皆すぐ飽きて自己消滅してしまうのでわざわざ幸せな者を神の力の後継者に選ぶことは少ない。あの白いウサギの適当な性格もそこに起因していたのである。

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