第2話 全能の虚無

 目覚めた時、私は爆発しそうな感覚を覚えた。私の中には知識が滝のように次から次へと流れ込んできていた。同時にあらゆる知識・アイディア・思考が閃き内から噴水のように湧き出ていた。                      

 それらの全ては完全な理解とともに私の中に刻まれ記憶された。これはまだ全能の力の中の全知に過ぎない。更に私の中にはあらゆる力がみなぎっていた。 

 この小さなウィルスの体が破裂するのではないかと思うような膨大な力が内に溢れ、苦痛とも快楽ともつかない壮絶な感覚に狂いそうになった。しかしそれは刹那の感覚だった。

 一秒という時間ですら、私がこの状態でいた時間と比べれば長すぎるほどの一瞬で、その感覚は終わった。 

 一秒が経過するころには、私の中の膨大な知識にも力にも慣れ、それは完全に私の体の一部として当たり前のものになっていた。

 そして私は全てを悟った。私が全知全能の存在になったことも、この世界の真実も。そして、ウサギが最後に放った言葉がどれだけ皮肉なものだったのかということも。

 私は全知全能を手に入れた。私は、あの白いウサギが言う所の神になったのである。

 しかし目が覚めても私の目の前は相変わらず真っ暗なままだった。周囲のものに触れて辺りの様子を確かめようとしてもまず私が動く余地のある空間が存在していない。実際に試したわけではない。全てを知るものとなった私はそのことも知っている。普通は全く身動きの出来ない所にいたら気が狂ってしまうだろう。

 しかし全能の力を得た私はそんなことにはならない。空間を創造して動き回るスペースを作ることもできるがそんなに大それたことをする必要もない。私はただ、その全知全能の力を使って想像すればいい。

 身動きの出来ない状態に息苦しさを覚えたら、私は十分な空間のある所で自由に動き回る感覚を想像する。私は想像することでそれがどんな感覚か実際の経験と寸分違わず実感することができる。

 何故なら全知全能の力を得た私は想像力も完全だからである。そしてこれは他のあらゆることにも当てはまる。ウィルスとしての天命を全うし生物の細胞内で分裂する感覚も、鳥になって大空を飛ぶ感覚も、わざわざ生物に感染しなくとも、他の生き物に変身しなくとも私は想像の中で完全に再現し実感することが出来る。

 因みに私の今の姿は元のままのウィルスである。姿を変えることもできるがやはり慣れた姿が一番しっくりくる。ここには他者と呼べる誰かはいない。完全な存在になった私は外から何かを取り入れる必要もないしすでに全能なのだから経験することで向上するような何かを持たない。

 そんなわたしにとって実際に何かを行うこととそれを想像することは最早同義だといっていい。全ては想像するだけでことたりるのである。

 では、今まで私がいた世界はどうなってしまったのか。いまや、私は想像するだけで全てを実感できるのだから実際になにかを行う意味を持たない。そしてそれは、最初に世界を創ったであろう神も同じはずである。だとしたら、そもそも世界を実際に創造する必要はない。ただ想像するだけで充分なはずなのである。 

 つまりそれが答えである。               

 そもそも初めから世界は創造されてなどいなかった。ただ想像されていただけなのである。完全な想像力で完全に再現されているが故に、想像世界の中で自我を持った存在者として設定された者は自らが実在すると錯覚するのである。

 人々は普通、自分が存在することを疑ったりはしない。たとえどんなに周りの世界が信じられなくとも、自分、「私」という何かが存在することは疑いようのない真実だ、と思っている。しかし結局は、何かを考えている、と思っている「私」すらも、より大きな考える存在、つまり完全な想像力を以って世界を再現する存在、の思考の断片でしかないのである。

 ただ、想像世界の住人は実世界には存在しないが、しかしそれでも彼らの主観的な感覚は実世界に創造された場合と何一つ変わらないのである。

 ならば世界を想像することには何か意味があったのだろうか。神様が世界を創ったと信じるものは、そのことに何か意味があると考えたがる。しかしそのことに意味はない。

 全知全能であるという定義を満たすならば、知ろうとも想像しようともしなくてもあらゆることを既に知っていることになる。世界を想像しようとしなくても、完全に再現され想像された世界が既に私の頭の中にある。だから私が想像する意思を持つと持たざるとに関わらず、想像世界において自我を持つと設定された者の自己実在の錯覚は、完全な想像力を持つ者が存在する限り必然的に発生する現象なのである。

 そして全てを知るものである以上、私の想像の中に存在する世界は今まで私がいた一つの世界だけではない。それは、想像されうるあらゆる世界が私の想像の中にあるということである。

 私がいた世界とは異なる法則を持つ魔術や魔法の世界、そもそも世界の始まりから私の世界とは異なる世界、いくらでもあるが私がいた世界を含むそれら全ての世界がそれぞれに持つ、過去から未来へ無限に分岐してゆくあらゆる平行世界、そのすべてが私の想像世界の中にあるのである。

 そしてそれはあらゆる想像世界の中に存在するあらゆる自我を持つと設定された者達は、自己の実在を錯覚することでその世界で生きているということである。

 だから結局、幸福な世界も不幸な世界もどちらでもない世界も、あらゆる世界は全知全能の誰かの存在によって勝手に成り立ってしまうのだ。そしてそこには善意も悪意も関わろうとする意思すらない。全知全能の絶対者でしかない神は別に慈悲深くなどない。けれど残忍なわけでもない。

 もしも全知であるという完全性を放棄して悲劇の世界を知識から消去すれば悲劇を消し去ることはできる。しかしそれは悲劇的であっても錯覚であってもとりあえずそこで生きていたはずのものを消し去ってしまうことになる。

 悲劇の世界を消せばそこにいたものが幸福になれるというわけではないのである。神は残忍ではないからそんなことはしない。だから全ての世界を想像する者は、想像された全ての者に平等に自己の実在を錯覚する権利を認める。

 そして実世界と呼べるのは私がいるこの場所だけなのである。他者と呼べる誰かも存在しない、時間や空間すらも存在しない、在るのはただ私だけである。 

 今、唯一の実存者たるこの一個のインフルエンザウイルスこそが世界であり、その中にあらゆる想像世界が詰まっているのである。

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