第8話 執着したのは誰だったか


「あの、在沙音あざねさんはいったい……どうしたんですか?」


「大丈夫。正気に戻った罹患者りかんしゃはだいたいなるから」


 ニアと宇賀持うがじの視線の先で、在沙音あざねは四つん這いでうなだれていた。顔を赤くしたり青くしたり忙しい。


「違うの……。違うのよ! 発狂中は頭が変になるから。アレはあたしの本音なんかじゃないのよ。あ、愛とかなんとか……ただの世迷言なんだから!」


「分かってるって」


 軽く言って手を差し出す宇賀持うがじに、在沙音あざねはまた顔を真っ赤にして涙目になる。


「~~っ! 嫌い! 死ね!!」


「酷い!」


 在沙音あざねは手を取らずに自力で立ち上がった。

 咳ばらいをし、何ごともなかったふうを装う。


「さっきから表のほうが騒がしいわね」


しょう君たちが来るって言ってたから、そのせいじゃない?」


「げっ、あいつら? あたし反りが合わないのよね」


「そうだニアちゃん、彼らが居るってことは、君のお姉さんも来てるはずだよ」


「え? あの人が?」


 意外な発言に聞き返す。

 宇賀持うがじ在沙音あざねと視線を交わし、説明を始めた。


「君は覚えてないかもしれないけどね。そもそも在沙音あざねがここにいるのは、君がしょう君たちに助けを求めたのが始まりなんだ」


「私が……?」


「そそ。罹患者解放連盟に拘束されて移送中だった君を、たまたま彼らが見つけてね」


 まったく覚えていない。そういえば在沙音あざねが言っていた。初期の稀癌きがん罹患者りかんしゃはよく発狂前後の記憶が曖昧になると。そのせいだろうか。


「君は半狂乱で事情を説明してくれたらしい。お姉さんが利用されてる。危ない。お姉さんを助けてくれって。相手をあざむくために君はその場に残った。でも一人じゃ危ないから、在沙音あざねを新しく見つかった罹患者ってことにして送り込んだんだ。もしもの時の、君の護衛としてね」


 向けられた二人の視線に、在沙音あざねがそっぽを向く。


「別に貴女のためだけじゃないわ。下っ端に扮してる宇賀持うがじだけじゃ、罹患者がどういう扱いを受けるのか調べきれてなかったから、ちょうどよかったのよ。連盟の背後バックにいる連中はどうやら、罹患者を懐柔して使役したいみたいね」


「その辺の調査はこっちの都合だ。利用してごめんね。それで、君の願いを聞いたしょう君たちは君のお姉さんを探しに行った。そして見つけた。たぶん連れてきてるはず。行こうか」


 連れだって表を目指す。だがニアの足取りは重かった。

 気づいた宇賀持うがじがニアを覗き込む。


「どしたの? もしかして……会いたくないとか?」


「そういえばどうして、お姉さんは貴女を妹と勘違いしてるの?」


 今更な質問にニアは数秒の躊躇のあと、決心したように服の裾を握りこんだ。


「たぶん要素が似ていたからです。それで、妹が馬車にかれたときに居合わせた私を、妹と認識したんでしょう」


「えっと……。妹さんが死んだショックで記憶がすり替わったってことかしら。頭おかしいんじゃない? なにそいつ罹患者なの?」


「なにも精神の狂いは罹患者の専売特許じゃないよ在沙音あざね。特に記憶っていうのは曖昧だ。人間なら誰しもが狂気に蝕まれる可能性がある。それが異能のせいか否かってだけで」


「へぇ。あんたもちょっとは勉強してるのね」


「任せて。君の相棒だからね」


 いつの間にか周囲は静かになっていた。建物の中にも、生きた人間の気配はない。


「先代の妹は茶色の毛色をした、碧眼の女の子でした。でもあの人は正真正銘の一人っ子です」


 転がる死体を慣れた様子で踏み越えてニアが続ける。


「あの人は幼いことからずっと、青いボタンの目をした茶色いクマのぬいぐるみを、まるで生きている人間の妹のように扱っていたそうです。たぶんの中で、姿形は媒体に過ぎないんですよ。だからクマがき潰された時たまたま通りかかった私を、そのまま妹にすり替えれたんだ」


 屋敷の表に出た彼女の目に入って来たのは、どこか見覚えのある気がする二人の男と、紳士服の男に突き飛ばされる女性。


 褐色の肌に黒髪碧眼のニアとはまるで違う、金髪白人の女だった。



       ◇   ◆   ◇



 深海から浮上して、水面にやっと顔を出したような目覚めだった。


「っ!?」


 目を開ければ真暗闇。自分が寝転がって空を見上げているのだと理解は遅れてやってきた。


 そんな脳みその機能を置き去りにして、シャレイは自分の腹部に手をやる。記憶の通りならば、えげつない威力の小銃にそこを撃たれたはずだった。


 だがいくらまさぐっても傷はない。出血どころかかすり傷一つなかった。ただ服に残った穴だけが貫通を物語っている。


「あっ、起きた。一回見殺しにしてごめんねっルスファさん」


 声に目を向けると、ズタボロの布切れをまとった夕俄ゆうがが前かがみにこちらを見ていた。元の焦り口調に戻っている。首の刺青も、細く一周しているだけだ。


「発狂中って稀癌きがんの力を普段より発揮できるからっ、触れた相手の時間もさかのぼれるんだっ。だからっ、見殺しにするつもりはなかったんですよ?」


 なぜか疑問形で終えて、おもむろに視線をしょうへ注ぐ。

 しょうは握りこぶしに親指を上げて応えた。


「当然だ」


「そ……そう……」


 納得はしたが、それを実行できる神経がシャレイには理解できなかった。


 撃たれた瞬間の痛みと衝撃、それから恐怖。思い出すだけで身の毛がよだつ。たとえ受けた傷を帳消しにできると理解していたとしても、何度も経験したい感覚ではない。


 こんなことを何千回と繰り返して心が壊れないなんて。この純朴そうな少年は本当に気が狂っているのだ。


 辺りを見渡すとすでに敵は制圧されていた。死体は一か所に積み上げられ、押収したと思しき刀剣類や爆薬が松明と離れた場所に集められている。あとで尋問にでもかけるのか、あの紳士服の男を含めたほんの数人だけ縄で縛って転がしてあった。


 夕俄ゆうがへ視線を戻す。彼の身体には真新しい傷がいくつもついていた。


「怪我してる? どうして」


「ああこれはっ、逆行は三秒くらいが限界で。さかのぼりきれなかったのは残るんです。でもっこんなのかすり傷だからっ。それに痛みの鮮度は忘れないようにしたいしっ。ちょっとは残ってくれたほうが都合良かったり」


「そういうことを言うと被虐性欲マゾヒストと勘違いされるぞ」


 しょう夕俄ゆうがたちに背を向けて、転がる連中へ足をかけた。


「さて、お前らの言い分は?」


「なぜだ。なぜ貴様らは理解しない!? 我らの思想の崇高さが! 幸せを願うなら、我らと来るのが救済だとすぐ分かるはずだ!」


 紳士の態度を投げ捨て男が噛みつく。呼びかけられた当人は、気の抜けた顔でぼんやり答えた。


「おれは今でも十分に幸せですからっ。それにあなたの言葉は、なんか響かないなっ」


 指で作ったバツに、洋装男が絶句する。

 夕俄ゆうがはそれにと付け加えた。


「本当に相手のためを思っている人はっ、もっと思い悩むものですよ。だって相手の幸福が自分の思い描くものと同じかなんてっ、分かんないし。あなたがそんなに確信を持てるのって、それが“他人のため”じゃなくて“自分のため”だからじゃないですかっ?」


「何を言っているんだ!? 我らの活動はすべて稀癌きがん罹患者のためじゃないか。我々は貴様らのために時間を割いて、私財を投げ打っているんだぞ。それが言うに事欠いて自分のためだと? どう解釈すればそれほど拒絶できる。だったら、お前のためになる事とはいったいなんだ? 言ってみろ稀癌きがん罹患者りかんしゃ!」


 半ば命令のような質問。夕俄ゆうがは笑みを消して考える素振りを見せた。今までどこか義眼めいていた少年の瞳が微かに人間らしく揺れる。


「おれは……いままでずっと我慢して育ったんだ。酷い父親に恵まれて、母親のため、弟のため、おれだけ頑張ってっ、痛くても辛くてもお腹が空いてもみじめでもそうやって我慢してっ、耐えて耐えてっ、自分を殺して息の根止めてっ、窒息したまま都合のいい誰かとして生きてきた。だから自分を我慢せずに済む、今の自分がとても嬉しいっ。それを許してくれるしょうくんが大好きです。だからしいて言えば、おれの今を奪わないでくれ、かなっ」


 控えめな笑みに、男は今度こそ言葉を失ったようだった。

 静かに聴いていたしょうはやっと足を退けて、自分の手首をさする。


「想いに絶対の正解などない。最善を尽くしたとて、それが正しいとは限らない。想いと過程はどうあれ今回お前は間違っていた。確かなのはその結果だけだ」


 責める口調ではなかった。ただ静かに、自分に言い聞かせるようにも聴こえる。彼らのやりとりに、シャレイは心臓を締め付けられるようだった。


「認めない……」


 だが、それが届かない人種もいるのだ。

 男が飛び起きる。


「我々は間違っていない!」


 縛られていたはずの男が血走った目で駆けだした。


「おいぃ! 縄抜けされているぞ夕ちゃん!」


「結ぶの下手糞へたくそでごめんなさいっ!」


「邪魔だ!!」


「きゃっ!」


 向かって来た男にシャレイは突き飛ばされた。


 男がシャレイの後ろにあった松明に手を突っ込み、火のついた木片を掴む。火傷も気にせずそれを持ってまた駆けだした。その方向には押収して集めておいた火薬の山が。


「おいおい、連日爆風は勘弁してくれ!」


 しょうの泣き言は男の足を止められない。


 しょうの手首が薄く光る。夕俄ゆうががシャレイと暁の二人に手を伸ばす。だが自暴自棄になった男のほうが早い。


 男が火薬を視界に収める。まっすぐ向かっていく。

 勝利を確信した笑みが、しかし直前でぐりんとあらぬ方向を向いた。


「はっ!?」


 首につられて身体ごと回転する。バランスを崩して滑り倒れてしまった。木片は血だまりに落ちて火を消す。


 見ていた全員が驚きの声を上げるが、一番混乱しているのは男自身だ。

 なぜ自分がそっぽを向いたのか。なぜこっちに大股で近寄って来る小さな褐色の少女から目が離せないのか。まばたきすらできない理由が、少女の正体と共に脳裏へ浮かぶ。


稀癌きがん……罹患者りかんしゃ


「お姉ちゃんに何しくさってんだテメエ!!」


 駆け寄って来た少女が、男の顔面を勢いのまま蹴り飛ばした。


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