第6話 咲き乱れる
妹に狂乱の変調が見え始めて、すぐのことだ。
純白の紳士服を着た怪しい男がルスファの邸宅へやって来て、妹が
「このままでは、君の大切な妹さんは世界に殺されてしまう。たとえ上手く逃げ隠れしようと、狂気が彼女を内側から殺していく。そうさせたくはなかろう?」
どうすればいいかとシャレイが問うと、男は声を潜めて答えた。
「
「そこは私たちが受け入れてもらえる土地なの?」
「奴の方針は内部成長だからね。外国人も受け入れている。帰化も簡単だそうだ。何より皇和国の術理は
皇和国に着いたら僕の仲間に会いなさい。
男はそう言い残して去って行った。彼がどうやって
そうしてシャレイは見送る両親に別れを告げて、妹と二人旅へ出た。
皇和国に着くと言われた通りに港を飛び出し、男の仲間へコンタクトを取る。
落ち込むシャレイに、彼らはさらに言う。
もしも自分たちの仲間になるのなら、その覚悟を見せてくれるなら、君はまた妹と過ごすことができるよ、と。
◇ ◆ ◇
刃は骨を避け、筋組織を掻き分け、瑞々しい唯一絶対の臓器に
はずだった。
「えっ……?」
強く握り締めた柄が少年から抵抗なく離れる。なぜか柄の先に刃はなかった。
思わず後退るシャレイを、さらなる
「びっくりしたぁっ。驚いたじゃないですかっ」
声に見上げると、少年は何事もなかったかのようにそこに立っていた。刺したはずの腹部に傷はない。刃に裂かれた服が地肌を露出させている。布の端には血がついているものの、なぜか出血している気配がない。
おかしい。肉を断つ感触を手で感じたはずだ。傷は、血は、刃は、どこへ消えた。いったい何が起こっている。
「どうして──」
言葉が途切れた。引き倒されて視界が天地を返す。気づけばシャレイは地面に抑えつけられていた。
「悪いなシャレイちゃん。大人しくしていてくれ」
低い声で気づく。自分は
さっきの異常も彼が何かしたのか。
あんな理解不能な現象、起こせるのは
「お前ら、こいつになに吹き込んだ。まあ想像は付くがな。純粋な奴を
「何を言います。彼女は快く自ら進んで行動したのですよ。罹患者の自由を奪う術理使を消す。そして罹患者を保護する。協力してくれれば仲間に入れる価値を証明できる。簡単なことです」
「ようは人質だろう。やり方が気に食わないな。何よりその目。自分の正しさを欠片も疑ってない無神経な目だ。昔の自分を思い出して
「いいのっ? 暁くん」
刺した鍵を回す瞬間のような空気で少年が問う。
「ああ、好きなだけ、好きに暴れよう」
青年が応えるように手首の黒い輪を松明の火にかざす。
対する少年が襟巻きを外し、滑らかな首元があらわになる。その首を細く黒い刺青が一周していた。
二つの刺青が、呼応するように微かに発光する。
「────
「思う存分、狂い散らせ、夕俄」
呼び声にガクリとうなだれた
「んふふふっ、ははっ、はぁい。りょぉかぁぁァい!!」
瞬間、姿勢を低くした少年が敵陣に飛び込んだ。
「罹患者と付き合っていくなら、あいつをよく見ておけ」
頭上から
暁は少年の動きをまっすぐ目で追っていた。
「夕ちゃんの狂気は純粋で分かりやすい。他の罹患者に度肝抜かれる前に慣れておくことだ」
◆ ◇ ◆
ニアは覚えている。
雨上がりの早朝。道端で泣いていた小綺麗な女性の悲劇的な表情を。
そんな彼女が自分を見上げてパッと瞳を輝かせた、あの瞬間の
『なんだ、こんなところにいたんだ。ほら、早く帰るよ』
『はっ? な、な、なんです? 誰ですあなた!?』
『変なこと言うなぁ。自分の姉の顔を忘れちゃったの?』
『はぁ?! いや本当に誰!? 怖い! 引っ張らないでくださいっ、どこに連れてく気ですか!?』
『どこって、私達の家だよ』
『い……え……?』
覚えている。覚えているから、
だから自分はきっと、狂気に魅入られたのだ。
◇ ◆ ◇
「ちょっと
「うが……?」
「あ、オレ
「女の子にコナかけてんじゃないわよ!」
「ただの挨拶だよ!?」
ニアたちが地下牢から抜け出すと、そこは古びた土蔵だった。大きな屋敷の裏手らしい。外を窺うと七人ほどの人間が敷地外へ通じる門の前に陣取っていた。
屈強そうな彼らを見て、
「雇われっぽいけど、おかしいな……。この時間は本当に誰もいないはずなんだけどなぁ……」
「ガセ掴まされたんじゃない? 一か月も私を放置して潜入してたくせに、信用の一つも得られなかったってことでしょう。どれだけ無能なら気が済むの。存在が無為なの?」
「無為どころか危うい
「嫌」
「そこをなんとか」
「絶対に嫌。自分でなんとかしなさいよ。主席術理使のくせに。同期が哀れよ」
「いやぁ、オレってば要領が良いだけで実力はそんなに。あのゴミ共よりはいくらもマシだったけどさ。ほらオレ、知っての通り瞬発力より持続力が持ち味だから」
「子どもの前で何を言ってるの!?」
「?」
謎に庇われて首を傾げるニアの様子に、
「──っ。分かった。分かったわよ。その代わり、あいつら片付けたら即、終わりだから」
「うん、いつもありがとう、
にこっと
「~~~~っ! 言っておくけど、あたしは貴方のことなんか心底大嫌いなんだから! そこのところ忘れないでよね!」
「承知してるよ。じゃあお願い」
「
俯いた
「なんだこの小娘」
「おい、誰が連れ込んだ」
少女が顔を上げると、どよめきはさらに強くなる。
「あ……ああ、ああ、あああああああ愛おしい! 愛しい愛しい貴方! あたしの良い人! こんなに並んで、感動で息が詰まりそう!」
歓喜を叫んで身を震わせた。
見張りたちは半狂乱で隣近所をつつき合っている。
「ずいぶん熱烈だな。おい、誰の連れだ。お前か」
「違えよ。こんな
「じゃあいったい」
冷やかしの空気が徐々に困惑に変わっていく。
「愛しているわ。貴方の喜ぶ顔が見たいわ。嬉しそうな顔が見たいわ。幸福にゆるんだ顔が見たいわ」
男が一人、
「おい嬢ちゃん、いったいどこから迷い込んだんだ?」
「待て、そいつまさか牢の──」
止める間もなく男の手が少女の肩に触れる。少女はその手を握り返し、
「愛してる。愛してるから………………貴方の苦しむ顔も、いっぱい見たいの」
綿毛を摘み取るような軽やかさで五指をもぎ取った。
「は──はあああああっ!?」
血の吹き出す手を押さえて男が悲鳴を上げる。
力などろくに入っていなかったはずだ。指を切断できそうな得物も持っていない。
「痛いいたいいたいっ、指っ、俺の指、なんでええええぇっ!?」
男が顔を真っ青にして尻餅をつく。それでようやく他の連中も事態を察したようだ。遅れて臨戦態勢を取った。
転げまわる血まみれの男を、
「アハハハハハっ! もっと苦しんで、痛がって、怖がって、恐れて、憎んで、絶望して。見たい。ぜんぶ全部、見たいのあたし! 愛してる貴方の色んな顔を! たくさん!!」
奪った指を放り捨ててうっとり血に酔う。
その様子を蔵の中から見ていた
「すごいでしょ。ああなった彼女ね、目に映る人間がぜんぶオレに見えてるんだって。愛されてるよねオレ」
背筋の冷たくなることをさらっと言う。ニアは飛び出そうになる悲鳴を手で直接押し込めた。
「あ、あれが
「打ってないよ。打ったフリはしたけど。普段はオレの術理で狂気を抑えているからクスリなんか必要ないんだ。というか、常時狂乱しちゃう末期だとクスリとか効かない効かない」
視線の先で、
その様はまるで、結合部の甘い
ニアが視線で問うと、
「彼女の
最初の犠牲者はもうピクリともしない。出血多量で死んだのかもしれない。
「ふふふっ、アハハハハっ! 楽しいわね。もっともっと遊びましょう?」
血で紅をひいて
その視線は宙を虚に
好物を見つけたような輝く瞳に射抜かれ、ニアはぞっと身を強張らせた。まさに蛇に睨まれた
彼女の一歩一歩がニアの寿命を縮めるよう。手を伸ばせば触れられそうなほど追い詰められる。
「駄目だよ
二人の間に、
躊躇うことなく
「隣のオレをほっぽってこんな小さい子に夢中なんて、酷いなぁ。君はオレだけ見てればいいんだよ」
道端の女を口説くような口調で
「そうね……ごめんなさい貴方。偽物で我慢しすぎたみたい。だって色んな貴方が見たいんですもの」
「うん。いくらでもいいよ」
「ありがとう。心の底から愛しているわ。あたしがいつか貴方を偽物と間違える日がきても、変わらずあたしを愛してね?」
「もちろん。君が盲目でいられるほどに愛してあげる」
宇賀持の存在を確かめるように深く身をうずめる
「見てもらえて、いいなぁ……」
気づけばニアは、そんな呟きをこぼしていた。
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