第2話 そのころ彼女は


 ふと目を覚ますと、ニアはなぜか硬く冷たい場所に寝そべっていた。

 横たわった視界に映る、岩壁を削って作ったみたいな低い天井。ざらついた感触を頬に感じて気づく。床は乾燥した土そのもの。なのに景色は閉じている。


 思考の連なりが答えをはじき出した。ここは牢屋だ。

 外に通じていそうな通路とこっちを隔てるように、鉄格子がはめてあるから。


 起き上がろうとして眩暈めまいがした。こみ上げてくる謎の吐き気を耐えて上体を起こす。


「なんだ、やっと起きたの」


 背後で軽い呼びかけがして振り返る。上手く体を動かせなくて、四肢が縄で拘束されていると知った。


「…………えっと」


 転がしただけの丸太に腰かけていたのは、長い茶髪をゆるく編んだ小柄な少女だった。やっと十二になったニアより五つは年上だろう。自信に満ちた切れ長の瞳をしている。明るい彩色の和服が彼女の整った顔を引き立てていた。目が貧困なニアですら分かるほど、ずいぶんと上質な生地だった。


 少女の足に拘束がない。手にだけ木組みの枷がはめてある。少女は組んだももに頬杖をついて、ニアへ嗜虐しぎゃく的な視線を向けた。


「目の前が遊覧船みたいにぐらついてオエェッって感じでしょ? 抗精神薬を打たれてるからね。心の波が静まって、穏やかに考え事ができるでしょう。初期だとわりかしちゃんと効くのよ。あたしも打たれたし」


「……ここは」


「地下牢。どうして自分がここにいるか、覚えてないわけ?」


「…………」


 思い出そうとするが何も浮かんでこない。下船客にこっそり紛れ込んだところまでは覚えているのだが。もうずっと遠くに感じる記憶なのに、そこから今までの体感数十時間がすっぽり抜け落ちている。


 頭を抱えるニアに、無理もないと少女が肩をすくめた。


「前後の記憶が曖昧なんでしょ。成ったばかりの混濁期にはよくあることよ。症状が進むと安定してきて思い出せるようになっちゃうけど。そうなるとクスリも効かなくなるのよねぇ」


「……?」


「気にすることないわ。ふと気づいたら部屋がめちゃくちゃ、見知らぬ場所、なぜか血だまり、怯えて叫びむせぶ身内、どれもよ」


 意地の悪い笑みで言う少女に、ニアはやっと当然の問いを投げた。


「あなたは……」


 短い誰何すいかに、しかし素直に答えてはくれない。


「あたしは貴女の先輩みたいなもの。ここでは頼れる保護者と思ってくれて構わないわ」


「保護者……母様かかさま?」


「誰が母かいっ!!」


 急に立ち上がって叫んだ。声を聞きつけて通路の奥からひょろ長い男が駆け寄って来る。


「どうかし──」


「誰が父様ととさまか誰が!」


 少女が顔を真っ赤にして、駆け付けた男に向けて鉄格子を蹴り上げた。格子が揺れて天上から砂が降ってくる。

 男は目前で繰り出された蹴りに驚いてのけ反った。


「えっ、なに?! なんで怒られてるのオレ!?」


 軽薄そうな男が身を縮めて困惑している。だが少女は耳まで赤くしたまま男を睨みつけるだけで答えない。二人の雰囲気が初対面には見えなくて、ニアは首を傾げた。


「そっちの人は……?」


 男を一瞥し、少女はむすくれてプイと顔を逸らしてしまった。


「別に。取るに足らないただの見張りよ! 優しくされても応えちゃダメだから。コイツすぐつけ上がる馬鹿だもの! 頼りないし! すけこましだし! 本当に最低な優男やさおとこ!」


 聞いてもないのに悪口を連呼する。

 一通り文句をつけると機嫌が回復してきたようで、少女は再び丸太に腰を下ろしてため息をついた。

 ニアをじっと見つめ、こう忠告してくる。


「他の奴らも優しそうな顔して近づいてくるだろうけど、絶対に心は開かないこと。従属の条件に沿いかねないから」


 言っている意味は分からないが、真剣な瞳が事の重大さを物語っているようだ。


「どうして……いろいろ知ってるんですか」


「あら、察しが悪いのね。理由はそうね……あたしがあなたの同類だから、よ」


 試すような視線。世界のことわりが勝手に翻訳したある一つの名称がニアの頭に浮かんだ。


「……稀癌きがん罹患者りかんしゃ


 少女が正解だというように表情を和らげる。かと思えば、掻き上げた髪を意地悪い表情で払う。


「あたしは在沙音あざね。これからよろしく、ニア・さん。ここにいるってことは貴女、身内に売られたんでしょう?」


 くすりと笑うその首元には、まっすぐ首を切り落とす目印のように、黒い刺青が太く引かれていた。


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