第1話


あおいくんは大切な記憶か命のどちらかを奪うっていう死神の都市伝説を信じてるか?」

 十二月に入って底冷えの厳しくなった会社の給湯室で休憩中、一緒にインスタントコーヒーを飲んでいた課長がキャビネットに腰掛けて嫌に真剣な顔で切り出した。その顔つきと声色から良くない報せを受けるのだと身構えていた私は全身の力が抜け、あやうくマグカップを落とすところだった。ただでさえ高身長とヒゲ、それから感情の読めないポーカーフェイスのせいで威圧感があるんだから勘弁してほしい。

「死神……ですか。まさか課長の口からそんなファンタジーっぽい言葉が出るなんて」

「いやな、俺もはじめは眉唾ものというか若い子たちの間で流行ってる漫画か何かの話だと思ってたんだよ」

「私だってそう思いますよ。そもそも命を奪われるんなら証言のしようがないじゃないですか。すぐ近くでその様子をボケっと眺めてるならまだしも」

「普通に考えればそうだよな。葵くんは占いとか全然信じないって感じだし」

 実際問題、私は占いなんて信じない。あんなの、何かに縋らないと生きていけない弱者のためのものだと考えているくらいだ。


「大切な記憶を奪われるというのもあやふや過ぎません? ”大切“の価値なんて人それぞれでしょうし。極端な話、テスト前の学生なんかは覚えたばかりの英単語や公式だって大切な記憶ですよ」

「一理あるかもな……どうした? そんな難しい顔して」

 そう言われて初めて私は眉間に皺を寄せていたのだと気が付いた。生来の切れ長の目と組み合わさるとお世辞にも良い人相だとは言えず、先輩から『男ウケが悪いからやめたほうが良いよ』と言われたこともあるので気をつけないといけないのだけど……。

「あと、それ」

「それ?」

 どれ、と尋ねようとしたら課長の人差し指が私の左耳を差した。厳密には耳たぶのあたりを。そこにあるのはひまわりを模したピアス。そしてそれをつまんでいる私の手。

「前からそうだよな。気が付いたらよく耳たぶを触ってるなって思ってたんだ」

「あー……なんというか、癖みたいなものですよ。考え事をする時とか、集中したい時に自分でも知らないうちに触ってまして」

 言いながら、私は人差し指と親指で挟むようにつまんでいたピアスを中指と薬指まで動員して隠した。ずっとそこを見つめられていたせいか、言いようのない恥ずかしさが込み上げて。

「隠さなくて良いのに」

 そんなこと言われても。

「や、まぁ、ちょっと子どもっぽいデザインですから」

「そう? 俺はギャップ萌えって感じで可愛いと思うけどな。俺みたいな独身のオッサンに可愛いって言われても気持ち悪いだろうけど」

「そんなこと思ってませんよ。ちゃんと嬉しいです」

「だと良いんだけどな」

 信じてなさそうに苦笑いしながらコーヒーカップを呷る課長。私は喉仏と口もとを覆う無精ひげを見るともなく眺めながら先の言葉を思い返した。

 ギャップ、か。強面のおじさんが実はパンケーキやクレープが好きだとか、小柄でお姫様みたいなファッションの子が派手なスポーツカーを乗り回しているとか、そういったものに比べると私のは地味だと思うんだけどなぁ。

「そういえば課長、私が前の部署にいた時も今みたいな感じで話し掛けてきましたよね」

「そうだったか?」

「忘れちゃったんですか? ほら、資料のコピーを取ってる時に『キミが葵くんか。随分可愛らしいピアスをしているんだな』って」


 それは人事異動の時期が近付いた九月の出来事だった。今まで面識のなかった他部署の課長が突然私に会いに来てひとことふたこと交わすなり「来月から俺の部署で働いてくれ」と言ったんだ。

「あの時は驚きましたよ」

「驚いた? なんでまた」

「だって、面識のない上司がヒラの私に用があるなんて普通は良い報せじゃないでしょ。ひょっとしたら他部署に迷惑を掛けるような真似をしちゃってそこのトップが直々に叱りに来たんじゃ……とか。社会人にもなってなんだこのピアスは。こんなピアスを付けてお客様や取引先と会うのか、とか、色々考えちゃったんですよ」

 背中に嫌な汗が浮かんでやたら緊張したなぁ。ホント、心臓に悪かった。そんな私の苦労を知ってか知らずか、課長は「あははっ。ないない」と笑った。人の気持ちも知らないで、もう。

「キミがいた部署に行った時、近くにいた人に葵くんはどこにいるかって訊いたんだよ。そしたら『コピー機の所にいますよ。花柄のピアスをしてるんですぐに分かります』って教えてもらったんだ。それが印象に残ってて、いざ本人を見たら本当に分かりやすくてつい、な」

 そう言って課長は思い出し笑いをした。ちょっと恥ずかしい。

「彼氏からの贈り物だったり?」

「そんなんじゃないですよ。なんていうか、いつのまにか付けてたって感じです。自分で買った覚えはないので多分、母のおさがりとか、そんなのですよ」

「おさがり、ねぇ。お袋さんもピアスを開けてたのか?」

「えぇ。今は塞がっちゃってますけどね」

 だから私にくれたのかも。覚えてないけど。

「本当に自分で買ったんじゃないのか?」

「それは間違いないと思います。だって自分で言うのもなんですけど、私ってひまわりのピアスを付けるようなキャラに見えます?」

「だとしたらなぜ律儀に付けてるんだ?」

「それはそうなんですけど、なんというか、愛着? みたいなのが湧いてまして」

「ふぅん。まぁ、自分でも上手く言えないのってあるよな」

 課長は一足先にコーヒーを飲み終わり、流しでマグカップを洗い始めた。私はまだ半分以上残っている。どうしてだか今日は味がよく分からなかった。


「このあと軽く打ち合わせがあるから俺はもう行くよ」

「あ、私ももう戻ります」

「いいから。そんな悩める乙女みたいな顔したままデスクに戻られたら俺が何かキツイことを言ったんじゃないかって思われちゃうだろ。このご時世、セクハラだパワハラだってうるさいから」

「え、そんな顔してます?」

「してるしてる。悩みでもあるのか? 俺で良かったら聞くが……あ、いやでも男には話しづらいことだってあるか」

「あー、大したことじゃないんです。ただ、最近ちょっと物忘れが多いというか、昔のことを上手く思い出せなくなってるような気がして……。ピアスの件もそうですし」

「ふむ。物忘れに関してはキミが単純におっちょこちょいなんじゃないか?」

「……」

 人が真面目に相談してるのに、とジトッとした目で不満を訴えると課長は悪びれもなく「冗談だよ。冗談」と頬にえくぼを浮かべた。

「それと、なんだか変な夢を見ることが多くて。そうそう、今日も見たんですよ」

「夢? どんな?」

「えっと……部屋で気持ち良く寝てて、ふとした拍子にその夢の中で目が覚めるんです。そしたら脇に知らないおじさんがいて、何か話をしたと思うんですけど、現実の世界で目を覚ました私はその内容もおじさんの顔も全然覚えてなくて、みたいな」

「それは昔のことを思い出せないのと関連があるのかもしれないな」

「ですかね」

「あぁ。それか脳になんらかの異常があるか。不安だったら一度、脳神経外科を受診すると良い」

 脳神経外科? それはいくらなんでも大げさじゃないだろうか。私を怖がらせて面白がっているだけな気もする。この人、そういうところがあるし。

「まぁ暇があったらまた聞かせてくれ。それじゃ」

 そう言って課長は軽やかな足取りで去っていった。私は横目でラックに置かれた彼のマグカップを覗く。三秒で描けそうなユルイ猫の顔が私の目を射抜いたような気がした。私のピアスもだが課長のマグカップもキャラに合わないと思う。どちらかというと無地の黒いタンブラーなんかが似合うのでは、とも。

 そんなことを考えているあいだにも現在進行形で温かみを失っている黒い液体は、今の心を映しているかのようでちょっと気味が悪く、私は目を瞑って一思いに飲み干した。


 時々、本当に時々だけど自分は何か大切なモノを忘れている気がする。何かをしてもらったのは確かだけど、具体的には思い出せない。例えるなら、そう。たくさんの人から誕生日のお祝いを貰ったのに、一番嬉しいプレゼントをくれたのは誰だったのか、どれだけ記憶の海を潜っても辿り着けないような。

 でもそんなことはあり得ない。あり得てはならない。たとえば私がモテモテの男だとして、大勢の女子から似たり寄ったりなバレンタインチョコレートを貰ってどれが誰のチョコだか分からなくなるのはまだしも、とても返しきれない大きな価値のあるものを譲ってくれた人のことが記憶に無いなんていくらなんでも薄情が過ぎる。これは課長が言っていたことと関係あるのではないだろうか。


 死神。

 私の貧相な想像力では黒いマントを羽織った骸骨が大きな鎌を振り下ろす姿くらいしか思い浮かばない。そんなおとぎ話みたいなことが現実に起こるわけないと馬鹿にしつつ、どこか無視できない思いもあるのだ。

「大切な記憶、かぁ」

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