第9話 後悔しているのは

 あの時、降下作戦参加にタイクウを誘ったのは、ヒダカだった。


 天空鬼スカイデーモンの存在により、『彩雲』は完全封鎖された。

 高度約八千メートルの世界で快適な環境を維持するには、限りあるエネルギーのほとんどをバリアに回す必要がある。

 華々しく便利な彩雲の生活は、急速に退化していった。


 当時十九だったヒダカにとって、その生活は不満だらけだった。

 彩雲から脱出できる上に、武器を持ち異形と戦うことができる。その非日常も含めて、ヒダカにとっては願ってもみないチャンスであった。


 強く勧誘したのはヒダカだが、最終的にタイクウが頷いたのは、少なからず彼も現状に不安を抱いていたからだろう。


 果たして彩雲政府により志願者は集められ、一年間の厳しい訓練を経て作戦は決行された。

 厳選された三十四名の志願者達は、希望を胸に地上へ向かってダイブしていく。


 その一分後。

 希望は絶望に変わった。



 高度四千メートル地点。天空鬼の群れと遭遇した志願者達は、その暴力的な力に命を散らしていった。

 周囲に聞こえるのは断末魔の叫びと、何かを失いと落下していく人ばかり。


「この野郎!」

 目の前で見知った人が、次々に命を散らしていく。怒りで真っ赤になった視界で、ヒダカはわざと異形に突っ込むように落下速度を上げた。


 怒りと憎しみで歯を食い縛り、がむしゃらに武器を振り回す。

 隙だらけの刃は、硬い皮膚に傷一つつけることはできず、気づいた時には、目の前に誰かの血が滴る犬歯が迫っていた。


『ヒダカ‼︎』


 聞き慣れた声が聞こえて、ヒダカの体に何かがぶつかる。

 下へと追いやられた彼の頭上に、トマトを叩きつけたような赤い液体が飛び散った。

 体勢を整えて、上空を見上げる。


 幼馴染の肩口に、異形が食らいついていた。


「たい、くう……?」


 突如、天空鬼が大きく口を開いた。腕から青い、明らかに人ではない滴を零しながら。

 左手に青く染まったナイフを握って、何かが欠けたタイクウの体がぐらりと傾く。

 大きく仰け反ってヒダカの横を通り過ぎ、下へ下へと落ちていく。


『――――!!』

 喉が裂け、言葉にならないほど叫び、腕を伸ばす。

 速く速くと、限界まで落下速度を上げる。

 夢中でしがみつくようにして掴んだその体は、人形のように力を失くしていた。


 グローブ越しでも伝わる、凍えるように冷えた体、右肩から大量に流れ続ける赤い液体。

 最悪の考えが、襲ってくる。


 無防備なヒダカを狙い、上空から敵が迫ってきていた。それに気がつきながらも、彼は動くことができない。

 自分を、庇ったせいで。

 それは裁きを待つ、罪人のような気持ちだった。


『だ、めだ……』

 その時、微かな声が、ヒダカの耳に届いた。


 腕の中で、タイクウの体が大きく脈を打つ。それ自体が心臓そのもののように、力強く、何度も。


 時が止まったような、永遠にも感じる時の中で、ヒダカは大きく目を見開いた。


 失ったタイクウの右腕が、逆再生のように修復していく。

 いや、腕だけではない。人間には明らかに存在しないまでもが、彼の体に作られていく。


 背中の一部が瘤のように盛り上がり、皮膚を突き破って。

 生えてきたのは、天空鬼の持つ悪魔のような両翼。

 やんわりとヒダカを押し退けた腕は、鋼のような色をしていた。


 翼を動かし、幼馴染が天空鬼に向かって飛び上がる。


 それが、タイクウが人でなくなった瞬間だった。






 薄暗い病院の廊下に、固い靴底が奏でる足音が響く。顔を上げると、記憶より幾分か歳を重ねた兄の姿が見える。

 眼鏡のレンズ越しに、相変わらず冷えた瞳が自分を見下ろしていた。


「久しぶりだな」

 その声には、特に何の感慨もこもってはいない。


「……テメェがあんな所にいるとはな」

「こちらも『彩雲』にいると思っていた弟と、こんな形で再会するとは思わなかったがな」

 松風時雨まつかぜしぐれは気怠げに呟くと、そっと眼鏡の位置を戻す。


 あの後、天空鬼を全て撃墜したタイクウは、元の人型に戻り意識を失った。

 ヒダカはなんとか二人分の体重を支え、パラシュートで地上へ下り立ったのである。


 彼を取り囲んだ集団の中に、十数年ぶりに会う実の兄がいたのは予想外であった。



「お前の友人、『天野大空あまのたいくう』だったか。命に別状はないが、問題はあの腕だ。あの腕、完全に人間のものではないぞ」

 何があった。

 そう告げられて肩が大きく跳ねる。

 唇を震わせヒダカが黙り込んでいると、時雨がため息混じりに言った。


「今は、良い。もう目覚めているぞ」

 その言葉で全てが吹き飛び、ヒダカは病室へと駆け込んだ。

 



「あ、ヒダカ」

 ベッドに上半身を起こし、ヒダカを迎えたタイクウは一見元気そうに見える。

 しかし、右肩からその先端にかけて、グルグルと巻かれた包帯が現実を突きつけた。

 タイクウは自分の右腕に視線を落とし、顔を歪ませる。


「あー、これ? うん。もう、人間のものじゃないんだって。詳しい検査が出てからになるけど、多分、身体の組織自体も、人じゃなくなってる可能性が高いって」


 ヒダカは息を呑み、口を閉ざした。

 何を、何と言えば、いいのか。分からない。


 病室の入り口で黙り込んでいると、タイクウが独り言のように呟いた。

 

「僕が、もっと強かったらなぁ」

 声を震わせて、苦しげに眉を寄せながら。

 タイクウは微かに、その言葉を漏らした。


「そうしたら、


 ヒダカがあの時抱いた感情を、どう表せば良いだろう。

 体に流れる血が、全て沸騰したように熱くなった。

 世界は色を失くし、喉が締まって呼吸が止まる。

 怒りとも悲しみとも言えない激情に駆られ、全身がガクガクと震える。

 気づけばヒダカは、病室を飛び出していた。


 走って走って、たどり着いたのは人気のない非常階段の踊り場。

 壁に背を預け、彼は肩で息をした。突然足に力が入らなくなり、その場にずるずると座り込む。

 耳元で、心臓の音が激しく鳴り響いていた。


 何故、自分を庇った。

 そのまま見捨ててくれれば、自業自得で済んだのだ。タイクウは望み通り、地上で平和に生きられたかもしれないのに。


 何故、そんなことを悔いた。

 いつもいつも、ありとあらゆることで後悔し続けていたくせに。

 いっそ、思い切り責めて欲しかった。タイクウらしい言い方で。


 こんなことになるなら、おヒダカなど救わなければ良かったと。


 惨めで、悔しくて、情けなくて。

 この場で自分の喉をかき切ってしまいたい。

 胸を切り裂いて、この心臓を、思いきり握りつぶしてしまいたい。


 戦慄く両手で、髪を鷲掴んで引きちぎった。その自傷行為とすら呼べない何かも、生温なまぬるすぎて反吐が出る。

 胸の奥から絞り出すようにして、ヒダカは叫び喉を震わせた。


「なんで、だよ……!? もう人じゃねぇって言われてんだぞ!? もう、二度と戻らねぇかもしれねぇだろ!? そんなんで、おれに、気でも遣ってんのかよ⁉︎ どうでも良いだろうが、おれのことなんか! そんな、そんな風に後悔なんて、してんじゃねぇよ……っ!!」


 本当は分かっていた。

 タイクウは決して、他人を責めるようなことはしないということ。

 ヒダカを見殺しにすれば、それこそ甘いタイクウは、一生後悔し続けることになるということを。


 分かっていたのだ。

 ただ、どうしても、結果的にこんな事態を招いた自分の弱さが許せないだけ。


 ヒダカはぶつける事のできない感情を渦巻かせ、声を圧し殺して、ただ泣いた。

 泣くことしか、できなかった。




 あんな想いは二度と御免だ。

 ヒダカは優しい目をした異形へと視線を向ける。


 あれから数年が経っても、タイクウは一度も、人でなくなったことを後悔しているとは言わなかった。


 体がそっくり怪物のものに変わるのだ。平気なわけがない。

 タイクウはいつも、何かに堪えるような表情をしているし、変身後は不自然なほど長時間眠り続けている。

 必死で気づかせないようにしているけれど、負担は計り知れないはずだ。

 いつも細かい事で、ため息ばかりついている癖に。


「本当に、バカだよなぁ」

『え、何か言ったー?』

 タイクウが首だけをひねって、こちらを振り向こうとしている。

 小さい呟きは、風の音でかき消されたようだ。


 ヒダカは大きくため息を吐いて、迫ってきた天空都市『彩雲』を睨みつける。


『お前の力なんて、今は帰りの足代わりで十分だ』

 いずれは必ず。タイクウの力など、全く必要としなくてもいいように。

 その言葉は、ヒダカの決意の証だった。

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