第4話 最初からもう、落ちている

 ――カリカリ、カリカリ

 何かを引っ掻くような音がして、俺は思わず「何!?」と身構える。それまで読み進めていた小説を、物音を極力立てないようにそっと置き、俺は恐る恐る辺りを見回した。

 俺は今日、家でゴロゴロしながらこれまで溜めていた積読を消化した後、午後から引越しの挨拶に行くと三日前から決めていた。段ボールの中の荷物を片付けるのに意外と手間取ってしまい、挨拶に行く時間が無かったのだ。

 それなのに、まさか俺、齢二十五、そして新居に引っ越して来て早々に不審者にやられてしまうのか……!?

 ぎゅっと余っている春ニットの袖を、恐怖のあまり握りしめる。このニット、少し大きめのものを買ったので、いわゆる萌え袖状態なのだ(俺の萌え袖なんて誰得だよ、という感じだが)。

 少なくとも、今の所は不審人物の姿は見当たらなかった。が、まだ、カリカリと何かを引っ掻くような音は止まらない。

 しかも、それが不規則に鳴るのだから、俺はもう怖くて怖くてしょうがなかった。

 と言うのも、俺はホラーがからっきしダメな人間なのである。

 ホラー映画も心霊番組も、お化け屋敷だって、女子が全力でドン引きするくらいの勢いで全力の逃走を図るくらいには苦手なのだ。そんな俺が、正体不明の音と命の危機かもしれない状況に耐えられるか? 答えは否、当然耐えられる訳が無いのである。

 ――ここ、そこそこセキュリティーしっかりしてるマンションじゃなかったのかよ!! 

 泣き出したい心のまま、俺は側に置いていたスマートフォンを握りしめ、改めて部屋を見渡す。

 音の発生源は……ベランダ。……ん? ベランダという事は、外?

 いや、待ってくれ! ここって、五階……だよな? まさか、不審者が登ってきたとか……!?

 とんでもない事実に気が付いてしまった俺の心臓、もうバックバク。声を出さないように必死に口を抑える俺の左手も、後はボタンを押すだけで通報ができるようにしたスマートフォンを持つ左手も、プルプルと情けなく震えている。

 俺はリビングから玄関への脱出経路を確認し、じわじわとドアに向かって窓から遠ざかった。

 そして、玄関へと続くドアに手をかけた時。

 ――にゃあ

 突然聞こえて来た新しい音に、俺の心はとうとう泣き出した。

 しかし……。

 ん? にゃあ? にゃあって何の音だ、冷静になるんだ俺!!

 そう念じて直ぐに気が付く。

「あれ、にゃあってもしかして……猫?」

 と。

 怖々、窓に目を向ける。先程までは目の高さ辺りに向けていた視線を下げると、視界に黒いもふもふが映り込む。

 もふもふの足らしき部分が、ベランダに座り込んだまま、しきりに窓を引っ掻いて、カリカリと音を立てているのだ。

「ほんとに、猫……?」

 そっと窓に近付いてみれば、黒いもふもふは確かに猫の形をしていた。

 その時、ぱちっと金色の瞳と目が合う。途端、まるで開けてくれと言わんばかりに猫がにゃあにゃあ鳴きだした。

 グイッと二本足で立ち上がり、身体を精いっぱい伸ばしてこちらにアピールする姿に、思わず「かわいい……」と呟く。そして、身体が伸ばされたことで、首元に赤い首輪が付いていることにも気が付いた。

 野良猫だったら万が一の病気が怖くて保護に困っていただろうが、この子は飼い猫なのか。

 それってつまり、この子は脱走してきたという事では?

 そして、今も現在進行形で飼い主さんがこの子を探されているのでは……?

 ピコーンと閃いた僕だが、迷い猫の飼い主探しだなんてした事がない。けれど、ここはマンション五階。

 ということは、だ。

 つまり、このマンションの住人が飼い主の可能性が高いのではなかろうか。

「とりあえず、まずは管理人さんに連絡して、一番可能性の高そうなこの階の部屋を訪ねていくか……うん、引っ越しのご挨拶が早まっただけだと思う事にしよう」

 俺はたまたま所持していたノンアルコールのウェットティッシュを手に取り、かちゃりと窓の鍵を開けてしゃがみ込んで窓を開け、まだ招き入れていなかった猫を迎え入れた。

「ごめんね、部屋を汚された時に怒られるのは俺だから、足だけ拭かせてね」

 生まれてこの方、犬を抱いたことはあれど、猫にはほとんど触れたことが無い俺、恐る恐る猫を抱き上げてみる。

 そっとそっと手を伸ばし、いざ、人生初のお猫様の抱っこへ。

 てっきり全力で暴れられるものと思って覚悟していたが、それはあっさり成功した。

 意外にも猫は大人しく抱えられてくれたので、この黒猫の気が変わらぬうちにせっせと足を拭きあげる。

 どうやら、洗濯ネットに猫を入れる方法は取らずに済むようだ。

「きみ、良い子だね。全然嫌がらないで大人しくされてくれるなんて、すごく助かるよ」

 決して上から手は出さず、そーっと下から手を差し出し、ふわふわの毛をいいこ、いいこと撫でてみる。

 毛並みも綺麗で肉付きも良い。それから首輪も比較的新しいので、やはり飼い猫であることに間違いはなさそうだ。

「きみはどこからやって来たのかな。きっと飼い主さんが探してるだろうから、ちょっと俺と一緒に来てもらうよ」

 なー、と返事のように鳴き返してくれた猫をもう一度撫で、俺は立ち上がる。

 とりあえずスマートフォンだけポケットに突っ込み、家の鍵を片手に俺は猫を抱え上げたまま家を出る。

 靴はサンダルを一瞬履こうとして、万一猫が飛び出して走る事態になった時のため、スニーカーを選んだ。

 そしてガチャリと家のドアを開ければ、まだ少し冷たい風が吹き込んできて、思わずぶるっと身体を震わせる。

 これはなにか上に羽織るものが必要だったかもしれないが、もう猫も抱き上げてしまったし、諦めるとしよう。一度上着を着るために猫を下ろした後に再び捕まえられる自信も無いので仕方ない。寒さは頑張って耐えよう。

 とりあえず、端から順に訪ねていくかと気合を入れた、ちょうどその時だった。


「あっ!」


 女性の大きな声の方へ、俺は勢いよく振り向いた。

 そこには、俺の方を指差して目を見開く、『現代版白雪姫』の姿が。

 いや、『現代版白雪姫』ってなんだよ、と自分で自分に思いながらも、俺は「意外とその例えは間違っていないぞ……?」と、俺の部屋からは少し離れたエレベーター側からこちらに走り寄ってくる女性を見て、考えていた。

 だって、綺麗な黒髪と赤い唇の映える白い肌。そして走るのに合わせて揺れる淡いイエローのマーメイドスカートには、白シャツにネイビーのニットが合わせられていたのだから。

 色味がなんとなく白雪姫を彷彿とさせる上に、彼女自身がいかにも『冬の女性』と言ったような黒髪と白い肌をしていれば、パッと思い浮かぶのはやはりあのプリンセス。

 つい、綺麗な人だなぁとぼんやり眺めてしまっていたところを、「すみません!」という現代版白雪姫さんの声で引き戻された。

「あの、その猫なんですけど……」

 その猫、と指を刺されたのは、俺の腕の中ですっかりリラックスしている黒猫のことで。

「もしかして、この子の飼い主さんですか!?」

 これはもしやと尋ねてみれば、「そうです! ああ、見つかってよかった……」と、彼女はホッとした笑顔を浮かべた。

「この子、俺の部屋のベランダに居たみたいで。窓の向こうから、音を立てて部屋に入れてくれってアピールしてたところを慌てて見てみれば、飼い猫っぽかったから、きっと飼い主さんが探していらっしゃるんだろうなと思って。それで、この子と一緒に外に出て来たんです。……ふふ、きみ、ご主人様がすぐ見つけに来てくれたね」

 ほら、おかえり、と黒猫を現代版白雪姫さんの元へ帰す。

 大人しく彼女の手に渡ってくれた猫は、しっかりリラックスした様子で抱っこされていた。

 慌てているのは人間のみ。全く気ままなお猫様である。

「本当にありがとうございました……! 開いていた窓から逃げ出しちゃったみたいで、慌てて探していたんです。本当に助かりました」

「いえいえ。すごく大人しくて、猫の扱いに慣れていない俺にもすんなり抱っこされてくれたので助かりました。本当に良い子ですね、この子」

「ふふ、ありがとうございます。よかったね、るう、良い子って褒めてもらったよ?…………ところで、貴方はもしかしてお隣に引っ越されて来た方でしょうか?」

 るう、とはきっと猫の名前だろう。猫のるうちゃんが可愛くて仕方がないといった様子で愛おしげに見つめる彼女に、なぜか目を奪われる。綺麗な人は何をしても様になるという事なのだろうか。

「はい、先日隣に越して来ました、酒井暖弥と申します。幼馴染や友人が手伝いに来てくれていたのですが、騒がしかったですよね……申し訳ありません……」

「いえ! 大丈夫ですよ。しばらくお隣が開いていたので、どんな方が越して来られたのかずっと気になっていたので、ついお尋ねしてしまいました……! あ、私はお隣の北村つばきと申します」

 なんだか優しそうな方で安心しましたと笑う彼女に、安心とは、と内心首を傾げていると、彼女は「以前はとても気の強そうな歳上の男性が住んでいらしたので……」とこっそり教えてくれた。

「酒井さん、これから、よろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 ふわりとやわらかく微笑む現代版白雪姫さん、もとい北村さんにまたしても見惚れてしまう。

 本当に綺麗で優しそうな方がお隣で良かった……! ご近所付き合いもしやすそうで助かる……! と、内心ガッツポーズしたのは内緒で。

 と、そこで引っ越しの挨拶用に、主に日用品で全国展開するブランドのハンドソープを用意していたことを思い出した。失礼かもしれないが、この際折角だから渡してしまおうと、彼女に声をかける。

「あっ、少し待っていてもらえませんか? 実は今日、引っ越しのご挨拶に伺おうと思っていまして……直ぐに持って来ますね」

「わあ、ありがとうございます! すみません、私も一度猫を部屋に帰して来ても良いですか? 直ぐに戻りますので」

 そうして、お互い、一旦部屋に戻ることになった。

 俺はやはり寒かったので上着を羽織り、玄関横に置いていた手土産を持つ。そして、いつの間にか速くなっていた心臓を落ち着かせるために深呼吸した。

 初めはまさか不審者かと慌てた新居での暮らしだったが、お隣さんとその猫のおかげで、なかなかに良いスタートを切れそうだ。

 不思議と熱い頬を「熱か……?」と不思議に思いつつも、きっと気のせいだろうと思う事にする。引っ越し早々、風邪はごめんだ。病は気からとも言うし、気にしない気にしない。

 それよりも俺はこの春生まれた新たな出会いに、心が弾み、これからの暮らしへのワクワクでいっぱいになるのであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

最初からもう、落ちている いよの ちか @iyonochika

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ