生まれ変わったら真逆の家庭環境だった件

鍋谷葵

生まれ変わったら真逆の家庭環境だった件

 私は生まれ変わった。

 私が生まれた家は、おしとやかな医者の家だった。

 前世、暮らしてきた貧乏な家とは真反対の良い家だった。父親も母親も居たし、私を育ててくれた。そして、幸せと勉強を教えてくれた。

 おかげで、八歳なのに文字が読めるようになったし、書けるようになった。計算も出来るようになった。

 何より、小学校に通えていることがうれしくて仕方が無かった。


◇◇◇


 僕は生まれ変わった。

 僕が生まれた家は、ある団地の一部屋で、酷く貧乏で不潔と不幸の満ち満ちた家だった。部屋のあらゆるところにゴミが散乱し、いかがわしい臭いが満ちた地獄様な家だった。

 僕の産まれた家の持ち主、つまり今生の僕の父親と母親は滅多に僕の相手をしてくれなかった。そして、学校にも行かせてもらえなかった。それは父母共に、僕に対して暴行をしていたからだ。思いっきり頬を平手打ちしたり、プラスチックの物差しで丸裸の背中を思いっきり打ったりした。その際、出来た痣や傷を社会に見せないために、父母は学校に何かと理由を付けて、僕を学校に行かせなかった。児童相談所から数回相談員が来たが、来るたびに罵声で追い返していた。

 おかげで、僕は八歳で口がきけなくなった。ただ、literacyは前世の記憶が担保してくれた。


◇◇◇


 私が十二歳になるころ、優しくて賢い両親のような医者になりたいと思った。前世では抱くことの出来なかった具体的な夢を抱くことが出来て、私は心底嬉しかった。嬉しかったから、私は私の夢を両親に伝えた。

 両親は私の夢を聞くと、ゆったりと優しく微笑んで私の頭を撫でてくれた。そして、私の夢を応援してくれた。

 ただ、同時に医者になることは酷く険しい道だとも教えてくれた。人生のほとんどを勉強に費やす必要があると、そう両親は教えてくれた。けれど、私は厳しい現実を教えれてもなお、医者になりたいと両親に言った。私の意志は強かった。

 目を丸くして、両親は驚いていた。きっと、私の夢に対する意欲が満ち満ちていたからだと思う。だから、両親はすぐに胸を撫でおろしてもう一度、私の頭を撫でて、私に名門の私立中学の入試を受けるように勧めてくれた。

 私は両親の勧めに鼻を鳴らして、「うん!」と頷いた。そして、私は中学受験に向けて必死に勉強し始めた。

 おかげで、私は難関私立中学に入学することが出来た。両親は私が合格したことに、涙を流して喜んでくれた。私もそれが嬉しかった。


◇◇◇


 僕が十二歳になるころ、両親は離婚した。

 おびただしい量の悪習を持ち合わせていた父親に、母親がついに耐え切れなくなってしまったからだ。だから、母親は僕を置いて、蒸し暑い七月の夜にどこかに行ってしまった。

 後日、役所から送られてきた離婚届を見て、父親はアルコールとヤニの臭いが染み付いた罵声しか紡げないと思っていた粗暴な口をぶるぶると震わせて、すすり泣きながら印鑑を押していた。薄暗い部屋の中で、散々殴られた後の僕は醜い父親のそうした姿を見ていた。

 翌日、僕はまた殴られた。普段通りの意味を持たないただ父親の苛立ちを発散させるためだけの暴力だった。そして、また夜が来て、父親はおびただしい量の焼酎を飲んで倒れるように寝た。

 僕は全身が痛む体を起こして、警察に連絡しようとした。けれど、僕は人と喋ることすっかりを忘れてしまっていた。学校には親が行けと言われたときだけ行っていたけれど、保健室登校に過ぎなかったし、保健室の先生も僕に深入りすると自分に多大なる面倒ごとが自分に降りかかることを知っていたから、何一つ僕に干渉してこなかった。だから、会話の一つも出来なかった。

 助けすら求められない僕は、現状を打開するために非合理的な手段に出た。ビールの空き缶や食い散らかされたコンビニ弁当のおびただしい山の間を、音を立てずに進み、台所に向かい、僕は母親の残していった全く切れない包丁を手に取った。

 そして、やせ細った手で、心地よさそうに汚らわしい寝息を立てる父親に馬乗りになって、ゴロゴロと動く喉仏の付近に包丁を思いっきり突き刺した。何度も何度も突き刺した。

 その後、僕は疲れ切って寝た。

 夏の気温は一個の死体を腐らせるには、ちょうどよかったらしい。殺して放置した父親の死体は、翌日の昼頃には奇妙な色に変わって、異臭を漂わせ始めた。鼻に付くこの異臭は、普段は干渉してこなかった隣人の堪忍袋の緒を切って、不幸の一室に警察を派遣した。

 そして、僕は捕まった。


◇◇◇


 私が受かった中学校は、中高一貫校だったから高校受験が無かった。おかげで、十五歳のいわゆる受験期は、ゆったりと過ごすことが出来た。

 ただ、とてつもない進学校だったから普段の授業は酷く難しかった。けれど、私は十二歳の時に抱いた夢に対する情熱を忘れずに持っていたから、その勉強に必死に食らいついていった。理解できるまで何回も何回も理論から復習して、完璧に理解できるまで勉強した。おかげで私は学年トップを入学以来ずっと保っていた。

 もちろん、勉強ばっかりじゃなくて、友達も一杯できた。癖のある子も、素直で滅茶苦茶良い子も、普通の子も、色々な友達が出来たし、その友達と一杯遊んだ。思い返せば、良い思いでしかない。

 特に修学旅行は、濃密な思い出として私の中に残ってる。

 修学旅行は京都に行った。京都での自由行動は、四人一組の班での行動だった。もちろん、班は友達と組んだ。班を組むことも、修学旅行に行くことも、前世では出来なかったことだからすごくワクワクしたことを覚えてる。小学校の修学旅行は、季節外れのインフルエンザにかかって行けなかったから、よりワクワクしてた。

 けど、正直、中学生の私たちに京都は渋すぎた。東西本願寺、金閣寺に銀閣寺、三十三間堂、その他エトセトラ、仏教建築はあんまりおもしろくなかった。けど、班員の一人に仏教マニアが居て、隣でずっと興奮していた様子を見ているのは楽しかった。それにその子の熱狂的な講釈は、日本史を理解するために、すこぶるためになった。

 だけど、何より思い出に残ってるのは、京都の旅館だった。京都の町を周って、へとへとになった私たちだけど、旅館に入った瞬間、その疲れは吹き飛んだ。ザ・京都のような旅館に私は胸が躍った。広間でクラスのみんなと食べたすき焼きも、何か特別な味がしたし、部屋でこっそり食べたお菓子はいけない味がしておいしかった。そして、寝る前に咲かせた恋バナは心ときめいて、甘酸っぱい気持ちになった。高校は大学受験があるからって理由で、修学旅行が無かったけど、高校の分まで中学の修学旅行は楽しめてよかった。月並みな感想だけど、前世じゃ味わえなかったことが味わえて本当に楽しかった!


◇◇◇


 十五歳の頃、僕は鑑別所を出た。

 人を一人殺しても、少年法が僕を擁護してくれた。そのおかげで、僕はまだ人生をやり直せる年齢で自由の身になれた。だけど、僕は鑑別所に居た方が良かった。二年間鑑別所に居ながらも、口すらきけない人間が自由になったところでたかが知れているのだから。それに親元に帰りたくなかったことも、不自由を欲した理由だ。

 けれど、社会は母親の下に戻ることを決定した。

 断頭台に首をかけられる心持で、僕は鑑別所を出て、母親の下に向かった。送りは施設の人の車だった。収監されていた時も、今も尊敬する人が僕を畜生にも劣る母親の下に僕を送り届けてくれた。

 別れの時、尊敬する人は僕の人生に幸があることを願ってくれた。この人が父親になってくれれば、僕の今生はどれほど幸せだったんだろうか。

 しかし、それは無いものねだりに過ぎない。

 僕に与えられたのは、再婚した母親が築いた家庭に過ぎなかった。

 母親は離婚して間もなく、名の知れた会社勤めの中年男性と結婚した。そして、僕が鑑別所から出た当時、母親はその男の子を身ごもっていた。だから母親は、僕を見捨てた時と同じく、僕を徹底的に排除するような冷たい視線を出会い頭にぶつけてきた。子を子と見なさいその視線に慣れ切っていた僕は、冷たい母親について何か思うことは無かった。ただ、母親の僕に対する排他的な態度は自然なものの一つとして認めていたのだから。

 こうして僕の自由な生活は始まった。と言っても、僕に自由が与えられたのかと言えば異なる。僕はあの家庭においては邪魔者でしかなかった。新しい父親は、僕のことを新しい家族として認めてくれていたけれど、間もなくしてそれは新しい父親が世間的を守るための虚勢であることが分かった。母親は言わずもがな、僕を邪険に扱った。その上、新しい家庭は僕の自由を縛り付けた。勝手な外出を禁じ、高校も強制的に通信制の高校を選ばされた。親殺しを内包する家庭を取り繕うための措置だった。

 もちろん、強制された選択を僕は受け入れた。衣食住を邪険にしながらも、最低限与えてくれる人たちへの恩返しの心持で。

 もっとも、その心持も長くは続かなかった。


◇◇◇


 ついに私にも六年ぶりの受験の時がやってきた。

 十八歳となり、いよいよ学校で学んだことを全て注ぎ込む機会というよりも、試練が私の前に立ちはだかった。学年中が三年生になった瞬間、独特な緊張感を醸し出して、毎日の空気がどこか重々しく感じられるようになった。普段は遊んでばかりいた友達も、すっかり遊ぶことを止めて、今まで適当に通ってた塾に真面目に通うようになった。

 同時に学年中に、ライバル意識が芽生えた。これまで習ってきた知識でもって、全国の同世代と戦ってやろうという少しだけ獰猛な意識を同学年の誰も彼もが纏った。そして、この剥き出しの意識のおかげで誰もが、誰よりも頭が良くなろうと、誰よりも多く点数を取ろうと努力に磨きをかけ始めた。きっと、受験は集団戦っていうことの本質はこういうところにあるんだろうと思う。

 もちろん、私もこの雰囲気に乗って、今までよりも勉強に励み始めた。ずっと学年一位を保っていたけど、今の自分に決してあぐらをかかないように、意識が覚醒している間はずっと勉強に励んだ。

 物理、数学、化学、古典、英語、現代文、世界史、受験に必要な科目を出来る限り入試に向けて頭に叩き込んだ。前世では書くことすらできなかった英語を、計算することの出来なかった複雑な方程式を、全く見えなかった社会についてを、日々の研鑽と共に頭の中で積み重ねた。そして、積み重ねた知識の模試にぶつけ続けた。結果として、私は模試で一桁台の順位を保ち続けることが出来た。けれど、やっぱり、安易な順位に満足せず、冬の入試まで全力で勉強し続けた。

 そのおかげで、東京大学の理科三類に合格することが出来た。その時は本当に嬉しかった。今までやってきた努力の全てが報われたような気がして、胸の内が青々と晴れ上がった気分になった。そして、お母さんも、お父さんも私の合格に泣いて喜んでくれた。もちろん、その時、私も泣いた。泣いてお母さんと、お父さんに抱きしめてもらった。暖かい両親の体は、私が一年間張り詰めていた緊張を解きほぐしてくれた。ただ、お母さんとお父さんは「本当の勉強はここからだよ」と学問の本質を教えてくれた。それはきっと、国立の医学部という地位を安易に自慢しないようにするための警句だったんだろうと思う。

 だから、今もなお、一つの戒めとしてあの言葉が心に宿っているんだ。うぬぼれない様に、慢心しないように。


◇◇◇


 十八歳。

 僕は家庭内で孤独だった。けれど、もう一年でこの地獄のような気まずさが満ちる家庭から抜け出せると思うと、僕の心持は随分と晴れやかになった覚えがある。

 ただ、十五歳の時、僕に出来た父親違いの弟と別れることは少々辛いことだった。通信制の高校に通い、外出を許してもらえなかった牢獄のような家庭で、無邪気な愛を僕に向けてくれた弟とは離れたくなかった。家ではいつも僕の後ろをよちよちと追いかけ、あどけない笑みを浮かべてくれる弟と二度と会えなくなると思うと、胸は張り裂けそうだった。

 けれど、ただ一人の弟もいつかは両親のように、歪んだ認識を持ち合わせて僕のことを邪険に扱うと思うと、小さい時分に離れておくことが最もだろうと僕は考えた。例え、別れが辛かろうとも、後年になって愛を注いできた小さな弟に嫌われるよりかはずっとマシだろうと考えたからだ。

 それだから僕は、都内にある小さな工場から内定を貰ったことを紙面で(僕はこの期に及んでも口がきけなかった)両親に伝え、一人暮らしをする旨も伝えた。両親は家庭の中の厄介者が、自発的に家庭から出てゆくことがすこぶる嬉しかったらしく、すぐさまワンルームの小さなアパートを契約してくれた。僕もまたこの地獄の家庭から抜け出せると思うと、胸が躍った。

 まだ肌寒い風が吹くころ、無事に高校を卒業した僕は地獄の家庭から出て行った。引っ越すほどの私物を持っていなかった僕は、大きめの黒いボストンバッグに着替えと生活に必要な各種証明書と、自分の手で殺した父親が残した唯一の遺産である二十万円が入った通帳だけを入れて、まだ薄暗い午前五時頃、家を出ようとした。けれど、その時、履き潰したスニーカーで足を覆ったとき、背後から愛しい弟の声が聞こえた。小さい男の子のまだ眠たげなあどけない口ぶりで「どこへ行くの?」っと、幼い子供には分からない別れについて、僕に尋ねてきた。その時、僕の胸はキュッと縮まった。だから、僕は「ちょっと旅行に行ってくるんだよ」と嘘を吐いて、玄関から寒空の下に向けて駆けだした。


◇◇◇


 大学に入って三年が経ち、大学生活四度目の冬が来た。

 関東地方では珍しく雪がしんしんと降って、無機質な世界を幻想的な世界に変えた。と言っても、大学一年の時に行った福島に比べれば、その積もり方は全然優しいものだと思う。向こうの積もり方は、都会育ちの私から見れば異常な積もり方で、雪に飲まれてしまったら一巻の終わりを感じられた。

 だから、それに比べればほんの少しだけ、舗装された道の上を薄っすらと白く染める程度の雪は、世界を変えるなんて大層な言葉で形容するほどものじゃないのかもしれない。特に日本海側に住んでいる人たちからしたら、全然危惧する程度の雪じゃないんだと思う。

 けれど、やっぱり東京に住んでいる私からしてみれば、しんしんと降り積もる雪は幻想的な雪だ。大都会の明かりに照らされ、きらきらと輝く雪の一つ一つは宝石のように見える。真っ暗な冷たい夜に、自然の宝石は良く映える。

 白い息を手に掛けながら、私は少しだけ乙女チックなことを考える。もう、乙女というには年を取りすぎたのかもしれない。けれど、心はいつまでも夢見る乙女なのだ。ロマンチストで、ヒロインで、喜劇の主役でありたい女の子なんだ。

 年甲斐もない少しだけ楽しいことは、日々の忙しさですっかり冷めてしまった私の心を温める。それに体もほんの少しだけ温まる。自分の体で自分を温めていることだけが、リアルでほんのり冷たさを覚えるけれど、この際、温まればどうだって良いや。

 少しだけ浮かれ気分で、少しだけ躍るような気分で、駅構内に足を踏み込む。

 雪のせいで、電車の時間は滅茶苦茶になっているけれど、その混乱具合も非日常的でどこか楽しい。多くの人に迷惑をかけていることを楽しむって言うのは、不謹慎なのかもしれない。でも、やっぱり非日常的な事件は普段とは違った緊張で心が躍る。

 普段じゃ考えられないほど人で混雑する構内を、人波をかき分けながら進んで、帰省するために千葉市行きの改札に向けて歩みを進める。人の蒸し暑さに体が包まれ、ほんのりと体は汗ばむ。少し不快だけれど、ここを乗り切れば家族に会えると思うと不思議とその不快感も消える。

 色々なことに胸を躍らせながら、人混みの中を進み、遂に改札を通ることが出来た。ただ、プラットフォームの中も人でごった返していて、次の電車に乗れるか怪しい節を感じる。それに、東京駅から千葉市だとそれなりに長い距離、乗らなきゃいけないから出来ることなら座りたい。

 思ったなら吉日。

 そういうことで、私は出来るだけ前に行くために再びプラットフォームの人混みをかき分けて、黄色い線が見えるところまで進んでみる。体をねじって、分け入って、そうやって何とか私は黄色い線のすぐそばまでたどり着いた。

 同時に電車が入構する音も聞こえた。

 ラッキー! これで座れる。


◇◇◇


 地獄の家庭を飛び出して、早三年半が経過した。

 三年半の労働は、あの地獄の家庭に閉じ込められた僕にとって中々厳しい仕事だった。いや、この小さな工場勤務、つまるところ誰からも見られていない一匹の蟻のような労働は、例え誰であっても厳しい労働だと言えるだろう。

 朝五時に起き、六時から十二時まで一切の休憩なくプレス機を扱い、十二時から十二時半まで昼食と形容された軽食を食し、十二時半から二十時半まで再び機械を動かし続ける仕事は、想像を絶する労苦だった。いや、しかし、これだけならばまだ常人は耐えられるんだろう。むしろ、このような仕事の様式は日本においては一切疑問視されないパターン化されたものであり、これを辛いというのは弱さの証拠となり得る仕事内容なのかもしれない。

 ただ、僕にはこのパターン化された仕事以外にも、僕にしかできないもう一つの仕事があった。これはもう仕事と言っても、誰もが認めてくれるであろう。観念的な配属によれば、社会的弱者が被る一つの労役なのだから。つまるところ、僕のもう一つの仕事言うのは、暴力に晒されるということである。初老の工場長からの絶え間ない暴言と体罰、僕を含めて三人しかいない中年の従業員からの執拗な金銭的な要求や鉄拳制裁による教育の名の下の暴力、これらの行為に僕は三年半晒され続けた。

 しかし、一体どうしてこのような状況に置かれたのか、僕は半年目にこれを考えたことがある。ただ、それは酷く簡単なことでしかなかった。僕に対して、弱者の労役が課せられた理由は、単に僕が口の利けない人間だからだ。この年になっても、喋ることの出来ない木偶人形の僕は、どのような形態の暴力を振るっても不平を言うことが出来ない。その上、僕は幼少の頃の栄養失調により、体の生育が不完全で、痩せており身長も小さく、例え自分たちが振るっている暴力と同様の力による報復があったとしても、容易に屈服させることが出来た。このため、僕には際限なき暴力が職場より振るわれた。

 時として灰皿の代わりに左腕を使われたり、ペンチで右手人差し指の第二関節を押しつぶされたりした。しかし、口も利けず、小さくて弱い体の僕はこれにすすり泣くほか、反抗するすべはなかった。もちろん、書類に書いて労基に提出したこともあった。しかし、労基の職員は注意勧告を事務的に、職場に言い渡すだけだった。それもそのはずだった。これは書類を出して知ったことだが、従業員が満足する給料を支払うことができないにもかかわらず、我が工場長は労基の職員に対して賄賂を握らせていた。このため、労基より法的機関に行くはずの書類は労基の職員の時点で、握りつぶされており、哀れな一人の労働者の歎願は無残にも消されてしまっていたのだ。

 私はこれを知った時、振るわれる暴力に対する些細な反抗を止めた。その代わり、仕事をただ事務的にこなし、晒される暴力に対して感情を示さず、生きてゆくこととした。

 けれども、僕の理性は獣性に勝てなかった。

 今日、僕はあの父親を殺したように、工場長を刺殺した。

 何が原因で殺したのかは分からない。

 ただ、最後に工場長は「口の利けない馬鹿の癖に!」と言っていたことは覚えている。その前に工場長が発した言葉は、何も覚えていない。

 想像を絶する凄惨たる暴力を振るってきた存在に対し、包丁で対抗し、その命を工場の裏、工場排水に満たされる溝の傍らで刈り取り、忌まわしき存在の死体を汚染された水に浸した時、僕の胸にはある一つの達成感で満たされた。生暖かい血、腐ったような臭いの吐瀉物、僕を睨むようにして白色の雪すらかき消す灰色の水の中で漂う人間の骸、それら全てが僕にとって幸せの象徴となり得た。あのあどけない弟が、僕に向けてくれる楽し気な表情よりも、何よりも美しい達成感となり得た。

 けれども、この達成感は禁忌だ。そして、こういった蛮行でしか達成感を得られない人間は、理性を持たぬ獣と同じだ。獣が人間社会に溶け込むことは出来ない。人間社会に侵入した獣は、往々にして殺される。だからこそ、僕は僕の命を捨てなければならない。

 包丁を溝に捨て、工場に戻って僕は粉石けんで手を洗った。寒い寒い夜の水は、傷まみれの変形した僕の手に沁みる。けれど、手は洗わなければならない。この汚物に塗れた人生を捨てるため、僕は体を清めなければならないのだから。

 もはや取れることのない汚物を表面上洗い落として、僕は機械油に汚れた作業着を着たまま外に飛び出す。


 美しい雪は僕の汚れた体を清浄にしてくれるのだろうか?

 いいや、してくれない。

 僕の汚れた体は、僕自身の贖罪によってのみ清められる。

 本当にそうか?

 ああ、そうに違いない。

 いや、この罪は環境による罪ではないか?

 違う、僕が起こした大罪だ。

 では、今まで僕を無視してきた人間は無罪か?

 当たり前だ。

 それじゃあ、僕の人生は僕自身の手によって狂わされたのか?

 そうだ、僕に罪は帰着する。

 違うだろう?

 違わない。


 押し問答をしながら雪降る道を駆けていると、どうしてか蒲田駅に着いた。

 そして、僕は無意識に乗り込む。

 きっと、最後に綺麗な景色を見たいんだ。

 いや、本当か?

 本当にきれいな景色を……。

 違う。

 これは違う。

 僕は前世で掴んでいた幸せに満ちた生活を欲しているだけだ。そして、僕が東京駅に向かう電車に乗ったのは、今幸せな生活を掴んでいる人間を不幸に至らしめたいためだ。

 なるほど、醜い感情だ。

 けれど、これを履行しなければ僕の人生は負けっぱなしだ。

 それじゃ、僕は僕自身を許せない。

 ぶつくさと物思いに耽っていると、いつの間にか電車は東京駅に着いた。

 東京駅は降雪による遅延によって、人でごった返していた。その中に、僕のような作業着を着た人間はだれ一人おらず、皆が皆、高そうなコートに身を包んで、早く帰れないことに対する苛立ちを募らせていた。

 僕はこの苛立ちに苛立った。

 けれども、今これを発散する術を僕は持っていない。よくよく考えてみれば、僕は自らの命を終わらせる術も持っていない。


「ああ、共倒れすれば……」


 そんな何も持っていない僕は、妙に冴える脳の下、人混みをかき分けて、適当に目についた改札を通った。

 どうやら、もうすぐ、快速の電車が入構するらしい。

 人でごった返すプラットフォームをずうずうしく分け入る。そして、ある若い女性を前に、美しい黒髪とベージュのトレンチコートを身に着け、少し浮かれ気分で、踵で黄色い線の内側ギリギリで、リズムを取っている女性を前に、電車の明かりを僕は見る。

 そして、僕は女性に思いっきり抱き着いて、勢いに任せて、線路に飛び込む。

 黄色い電灯と若い女性の悲鳴が、僕の頭を満たす。


◇◇◇


 私は生まれ変わった。

 前世は誰かに抱き着かれて、電車に飛び込んだ。

 そして、今生は前々世と同じような貧しさと暴力に満ちた家庭に生まれた。


◇◇◇


 僕は生まれ変わった。

 前世は不幸な人生に見切りをつけるため、見ず知らずの女性を巻き添えに電車に飛び込んだ。

 そして、今生は前々世と同じよう裕福で知性に溢れた家庭に生まれた。

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生まれ変わったら真逆の家庭環境だった件 鍋谷葵 @dondon8989

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