最終話 絶対、知ってましたよね!?


 美緒が先陣切ってチューバの席に向かうと、観客の大きなどよめきが聞こえた。一瞬、舞台に上がって観客席の音がはっきり聞こえるせいかな、と思ったけれど、どうもそうじゃない。みんな美緒の姿に反応しているのだ。

「え、嘘!」

「小学生じゃなくて?」

「ただの手伝いでしょ? 吹かないんでしょ?」

「やだあ、百三十あるの、あの子?」

 久々に聞く失礼な言葉の数々に眉をひそめながら、チューバを逆さに床に置いて、席について楽譜を準備する構えを見せると、どよめきはさらに大きくなった。

「本物だ!」

「うわあ、ロリチューバだっ」

「いや、だって、音出るの、アレ?」

「絶対ウケ狙いだろ、あんなパート配置」

 小さめに深呼吸して、手の震えを止める。多少なりとも緊張している中に、異様な注目を浴びると、さすがに体に力が入ってしまう。

「気にすんなよ、加津佐」

 バリサクの法子が、美緒に声をかけた。つまらなそうなものを見てるようで、目元は多分面白がっている。

「みおちゃーん!」

 急に観客からコールが起きて、美緒は思わず顔を上げた。何かの間違いかと思った。つい、舞台の上で手を振っている誰かを探してしまうけれども、そもそもミオという名前など、うちの部には二人もいない。

「み・お・ちゃーん!」

 さっきより大きめのコールが飛んできた。誰っ!? と目で探すと、どうも客席半ばの中央通路寄りにいる高校生たちらしい。私? とジェスチャーで返すと、拍手が来た。少し遅れて、観客席全体が小さくない笑いに包まれる。

 よくよく見ると、あれは熟旦うれたん高校の制服だ。親しく話をした相手もいないはずなのに、いつからこんな馴れ馴れしい態度を取られるようになってしまったのか。理由があるとすると――と考えた、そのまさに最重要容疑者であるコグマさんらしい男性が、高校生たちの端で、よお、と手を挙げている。舌打ちしつつ、無碍にもできないので、いささか苦みばしった顔のまま一応ペコリと頭を下げる。再度さざなみのような笑い声。

 ステージの上に目を走らせると、みんな明らかに喜んでいる。マジで緊張がほぐれる効果をもたらしたようだ。ピエロになった気分ってのは、こういうことなんだろうか。そりゃまたよろしゅうございました、と心中にやさぐれた声で呟いてしまう。

 まだ一音も出してないのに、どっと疲れが出たような気がして、美緒はへたりこむようにイスに腰掛けた。

「おい、加津佐」

 すぐに貴之が注意するような声をかけてくる。今度は何っ!? と顔を向けると、スタンドを指さしている。チューバを吹きやすい高さにするための、美緒専用の楽器スタンドは、まだ調整してない。いつもと違うイスを使っているせいもあり、舞台に上がったらすぐに作業にかかるように言われていたんだった。

 パーカッションの準備は終わりかけている。端嶋先生が、ちょっと気になる様子でチューバの方を見ていた。貴之にも手伝ってもらって、何とか遅延なくスタンドの準備を済ませる。

「少しズレてないか?」

「いえ、大丈夫です、多分」

 他にも何か言いたそうだったけれど、貴之はそれで引っ込んだ。美緒自身は、さっきは失礼しました、ぐらい言ったほうがいいのかも、とも思ったけれど、なんだかそういう一言も言う余裕はないようだった。

 先生が部員たちをざっと見回すと、ほとんど間を入れずに「コンチェルタンテ」が始められた。もうちょっと落ち着かせてよっと言いたかったのは美緒だけのようで、他のみんなはのびのびと演奏していた。少なくとも、いつもの音楽室のレベル程度には、ちゃんとノッてるしポロポロミスしまくる感じでもない。

 美緒も頑張った。今となっては辞めるとか辞めないとか言ってる場合じゃない。客席で新たなざわめきが起きてるのが目の隅に見えたけれど、あえて見えないふりをした。

 あっけないぐらいスパッと「コンチェルタンテ」の最終和音が鳴り止んだ。終わってみると、なんだか結構好演だったように思う。唐津先輩、ソロだけは百パーセントでいけるって言ってたけど、音楽室の時よりもさらに響いて……あれ? なんだか、今。

 マックスがその辺通ってなかった?

 いや、いた。一匹か数匹か。確かに降りてきてたような気がする。なんで? だって「コンチェルタンテ」なんて、感動的なハーモニーがいっぱいって感じの曲でもないのに――。

 ぼんやりしてる場合じゃない。パーカッションの準備が済んだら、もうすぐに二曲目だ。「音プレ」のチューバは、少なくとも今日の演奏会では、美緒一人で前半を担当することになっていた。貴之はすでに楽器を逆さに置き、当面美緒の吹きっぶりを見物する構えになってる。さっきの小競り合いは横に置いても、なんだかプレッシャーを感じる。美緒だって、今日の演奏までいい加減に吹き終えるつもりは、毛頭ない。たとえあと何日もない吹部であっても。

 って待って。そう言えば他になにかやることがあったような……ああ、勇ちゃんに合図出すんだった。


       *     *     *

「音プレ」開始直前、亜実の手は、他人の目にもそれと分かるぐらい震えていた。

(なんで? 「コンチェルタンテ」はうまく吹けたのにっ)

  もう自分にも隠せない。ハイノートが怖いのだ。そして、その怖さを打ち消せる何かは、自分の中にはない。

 パーカッションの配置移動と楽器準備の僅かな間、その静寂が、亜実の心を追い詰めていた。この沈黙が終わる時は、再び音楽が始まる時。それも、いきなり金管のファンファーレから。どうしよう、最初から失敗しそうな……もうクレシェンドをきれいにとかそういう話じゃ……。

 コン、と音がして、足元に置いてあったストレートミュートが転がった。隣の浩太が、スライドをついぶつけてしまいました、みたいな顔で、腰を浮かせてミュートを立て直す。詫びの言葉を入れようとしてか、そのまま亜実に身を寄せてきた。

 思いがけないふわっとした感触が手元に来る。亜実の握りこぶしが、浩太の大きな手で包まれていた。

「あみーならできるから」

 ささやくような小声だった。

「アミーのハイCは、僕が支えるから。みんなが支えるから」

 時間にしてほんの数秒。浩太の大柄な体と譜面台に隠れて、その行為は観客たちには見えなかっただろう。でも、ぎゅっと上から重ねられたたなごころの温かさを感じ取った瞬間、亜実は急に気がついた。

(え……ちょっと待って)

 もう何回その言葉を聞いただろう。年上の友達からの、技術的な励ましだと思ってきた。そう信じて疑わなかった。でも……。

 これは……もしかして……

 いや、もしかしてじゃなくて……間違いなく……!

(って言うか、なんで私、こんなタイミングでこんなことに気づくのっ!?)

 打楽器はすでにスタンバイOKだ。一つ頷いて、端嶋先生が指揮棒を構える。さすがに本番ともなると竹の棒じゃなくて、本物の白くてすらっした指揮棒。ぎこちなく左隣りを見ると、浩太がなおも励ますように頷き返している。

 パニックを振り切るようにして、パートリーダーの顔になる。きりっとペットを構えて、棒に合わせてエアを肺に入れる。最初の音を、迷いなくまっすぐに鳴らすために――。


       *     *     *

トランペット・トロンボーン

  「さあみんな、始めようぜ、吹部ってやつをよ!」


 先生の構えに目をやった、まさにその時になって、美緒は急にいつもと指揮台を見る角度が違うことが気になった。シンバルからこちらが見えてるのかな、という心配まで頭をかすめる。ほんのわずか、視線をステージの前後で往復させたせいで、指揮棒が上がったのにちょっとだけ反応が遅れた。

(ヤバイ!)

 拍をはっきり取らなきゃっと、ややオーバー過ぎる振り方でチューバを前後に揺らす。三、四で前に押しやったはずみに、楽器の横っちょが譜面台に当たる。大きな音はしなかったけれど、譜面台が回転して楽譜が見えなくなってしまった。慌てて片手で元に戻す。ペットのファンファーレを聞きながら、手を伸ばしてズレてた楽譜を整える。すでに二小節目。

 焦ってチューバを構え直したら、楽器スタンドの角度が微妙にいつもと違って、チューバの重みがもろにのしかかってきた。背もたれに背中がべたっとついて、後ろに倒れそうにまでなる。三小節目。


       *     *     *

 冒頭の小節。なんだか吹き始めに亜実の耳には小さなノイズが聞こえたような気がしたけど、客席の咳とかドアの音とか気にしてられない。一度吹き始めたら、音楽に集中するだけだ。

   そーーみーーっ どー↑そーみーどー↑そーみーどー

 三小節目。今度は下手側で何か起きてる感じがする。でも先生は指揮棒止めてないから、大惨事じゃないんだろう。

   れーっ ↑らそーー


       *     *     *

 貴之も慌てて横から手を伸ばして支えてくれた。でも、美緒にはもう姿勢を戻してる暇なんてない。四小節目の二拍目。このままブレスを取って最初の音を吹くしかっ。そっくり返って体の芯から妙に力の抜けたぶざまな格好のまま、美緒は渾身のフォルテッシモを出した!


 ド(B♭)――――――っっ!!


05

残り全楽器

  「何をだってぇ?」


 一瞬、体が爆ぜたのかと思った。その身がまるごと大音響に化けたような錯覚。頭のてっぺんからつま先までが、内側からの響きのエネルギーでビリビリ震える。いや、震えていたのはチューバもだった。全く突然に、美緒はチューバと一体になって、従来比百倍の巨大サウンドを轟かせていたんであるっ。

(な、な、何、これえぇぇぇぇーっ!?)

「そのまま吹けっ」

 耳元で貴之の声が聞こえて、美緒はハッとした。ベルの後ろを支えたまま、半身を乗り出すようにして、貴之は美緒のサポートを続けている。


06

トランペット・トロンボーン・ホルン

  「吹部だよっ。楽器で歌を歌うんだっ。かっこよくて、ハッピーな歌をな!」


 続く七小節目、チューバは八拍超のロングトーン。今までは長く延ばすだけでいっぱいいっぱいで、フォルテにもならなかったけれど。

「今の感じで……そう、響かせろ。息を吹き入れようと思うなっ。響きだけでフォルテに。……よし、吸って! 腹だっスフォルツァンド。そっからクレシェンドっ」

 ビリビリが終わらない。どうかすると軸を外してしまいそうな不安定感はあるものの、一度鳴り始めた美緒の体と楽器は、長らく放置してたドラム缶から泥と錆がみるみる落ちていくみたいに、あるべき響きを獲得し、さらにガンガン鳴り始めている。

 びっくりしっぱなしの美緒の目は、でも目の前の光景と全く別のものを見ていた。

 マックスだ。あっちもこっちもマックスだらけ。

 ――ああ、なんだか……世界中がマックスでいっぱい……!


       *     *     *

 五小節目。いきなり、爆音のようなバスの響きが聞こえて、亜実は少しだけ眉をひそめた。バランスが悪すぎる。唐津先輩、結局吹くことにしたのか。なら、やり過ぎにならないよう、少しは抑えてほしいのに……。

   そーらーーそふぁそーー そーらーそふぁそーみー

 六小節目。視線だけちょっと動かして、チューバの方を見る。もう少しで音が途切れるところだった。なんだか変なことになってる。チューバが……傾いてて……あれ? 唐津先輩が後ろから支えて……ってことは……

   ふぁーみれどーらー

 ハ小節目。え? 吹いてるのって美緒ちゃん? 美緒ちゃん一人だけ? 一人だけでこんな……

   (くれしぇんど)れーーーーーーーーっ

 えええええええええええええっ?


       *     *     *

 トランペットの会心のクレシェンドに聞きほれているゆとりは、美緒と貴之にはなかった。「音プレ」のチューバに、まとまった休みはほとんどないんである。

「もうちょっとだけ、腹に力入れろ。アタックだけ。……よし、響かせろよ。まだまだ響くぞ。……クレシェンドは上に任せろ。ただ鳴らせっ。……いいぞ、ここは全部腹っ。腹だっ。遅れるなっ。ここっ、響かせてっ。拡げて。拡げて。もっとだ。……大丈夫だ。このまま音量は落とすな。全部フォルテでいい。……楽器大丈夫か? 手、放すぞ。うん、このまま下の音吹いてくれ」

 美緒の音が安定してきたのを見届けて、貴之も自分の楽器を構える。横目でそれを確認した美緒は、思わず目を瞠った。確かに中間部近辺からチューバの音が二声部に分かれてるところがあるから、ここらから二台で吹くのが理想だ。でも、予定よりも早い。打ち合わせでは、終盤のいちばんの盛り上がりでだけ、入ってくるはずだったのに。

 目で尋ねた美緒へ、貴之は初めて見るようなやんちゃな顔を返していた。こんな場面で吹かずにいられるかよ、みたいな表情で。


       *     *     *

A 木管・ユーフォニアム・コルネット

  「歌ってこういうのですか?」

  トランペット・トロンボーン・ホルン・バス

  「そうじゃない」

  木管・ユーフォニアム・コルネット

  「じゃあこういうの?」

  トランペット・トロンボーン・ホルン・バス

  「なんか違うな」

  木管・コルネット

  「だったらこれは? それともこれ?」

  金管

  「それでいくのか? うまく歌えるかぁ?」


 ファンファーレ部分がクレシェンドできれいに決まった直後、ほんの僅かな間が開いた。楽譜にはないそのフェルマータの間、端嶋先生と雪乃とパートリーダーたちとで、一瞬の目と目の会話が行われ、結論が出た。

 直後、楽器を大きくスイングさせて、雪乃はクラリネット全員に方針転換を伝える。弱音モード全面解除! 出せるだけの音を出して! もう最後まで全員フォルテ以上で!

 雪乃の意を汲むまでもなく、レギュラークラスは非常事態を悟っていた。二クラトップの合山あやまが「全部、全員?」と囁き声で雪乃に念押ししてきたのに頷き返すと、念のため後列には片手で地面を掃く真似をして、出して出して、と伝える。

 もうバランスとか言ってる場合じゃない。一パート三人のところを部分部分で二人とか一人に減らす処置さえ取っていたのだけど、そんなものも全部取り消しだ。舞台経験を積むためだけにステージに上げたダミーの一年生も、全員演奏に参加して! もう、ミスってもいいから!

(ほんとに、やってくれるわ、あの子……)


 アドレナリン全開の雪乃の脳裏に、つかの間記憶が展開する。去年の樫高のクリスマスコンサート。吹部の部員たちと聴きに行ったその会場で、終演後にいつまでも泣き続けている女の子を見た。誰が聞き出したわけでもなかったけれど、その子が感動に打ち震えて泣いていることは間違いなかった。

 正直、雪乃は衝撃を受けたのだ。自分だって音楽が好きで、それなりに打ち込んできたつもりだったけれど。プログラムの最後は確かにいい曲だと思ったけれど。

 あれほどまで音楽に対して赤裸々になれる感性を、自分は持っていると言えるんだろうか?

 ふと見ると、一緒に来ていた貴之がその女の子をじっと見つめていた。きっと同じことを感じていたのだと思う。でも、ただ嫉妬めいたことを感じる雪乃に対して、貴之はなんとなくその子の感動を内面的に理解している節があった。

「あの子は、吹奏楽向きだな。……それも、旋律楽器の方じゃなくて」

 だから、美緒が入部してきた時、貴之が真っ先にチューバへ引っ張り入れたのを知っても驚かなかった。意外にも低音楽器に反発していると聞いた時は、むしろホッとした。マックスのエピソードを知った時は、底意地の悪い快楽にほくそ笑んだりまでした。

 どうせ美緒に直接教えてやっても信じないだろう。自分が真に涙した音が何だったのか、せいぜい勘違いを続けてくれればいい。私にも、こういう後輩を教え導けると錯覚できるように。私がこれ以上、自分のみっともない嫉妬心と向き合わなくていいように。

 それでも、音楽に対する感性については、素直に逸材だと思ったから、パートリーダーにも上げて、プレゼンもやらせてみた。そうやって輝けるホープになって、そろそろ時期かな、という頃にでも、納得させてあげようと思ったのだ。

 ――美緒ちゃんが本当に感動していたのは、チューバの音なんだよ。

 目を見開く美緒。微笑む私。その瞬間の記憶は、あの子の中に深い感謝とともに刻まれる。

 ……いや、分かっている。そんな陰謀が思い通りに進むはずはなかった。

 いずれ自力で全てを悟り、私の優越感もせいぜいそれまで、と思ってはいた。

 いたのに。

 この状況は何? なんでよりにもよってこんなタイミングでっ!

(ああああんっ、もうっ、みんな、音が足りないっ、もっと吹いて、吹いてぇー!)

 もはやキャラ作りのボスごっこもしている余裕さえ失って、雪乃は半ば涙目で部員みんなへ懇願するばかりであったのだった。


       *     *     *

B トランペット・コルネット・木管高音

  「じゃあ始めてみようじゃないか。みんなついてこいよっ」

  金管・サックス

  「さあ、歌おう」

  打楽器

  「いや、無理」

  金管・サックス

  「歌おうぜ」

  打楽器

  「無理だね」

C 全楽器

  「だめだ、これはだめだ」

  金管・サックス

  「みんな、吹部やるんじゃなかったのかっ?」

  木管

  「無理です、これじゃ無理なんです」

  トランペット・トロンボーン

  「ちくしょう、仕切り直しじゃねえか」


       *     *     *

 多佳町紫帆は畏怖していた。

 去年のステージは憶えている。舞台袖で、その数日間で急速に様変わりしたサウンドの、その最終完成形を聴いたのだ。自分の部のメンバーが生み出しているリズムに、ハーモニーに、パワーに、全てに心酔した。来年はぜひこの演奏に恥じない音を、と心に誓った。

 紫帆自身は、仲間達が案じているほどバスクラへの移動に抵抗はなかった。去年の「マスク」のバスクラとコンバスクラの重低音はかっこよかった。ああいう存在感が出せるんならこの楽器も悪くない、と思っていたのだ。

 逆に言うと、ハーモニーの基礎を受け持つ低音の魅力、というものには、今ひとつ興味がなかった。

 もちろんバスが鳴っているのとそうでないのとで、全体の響きは全然違う、ということは分かっていたし、それなりに低音部のプライドというものも持ってるつもりだった。

 だから、チューバをトランペットへのつなぎだと公言する美緒には、最初反感しか感じなかった。よくいる勘違い一年生なのだと。

 せいぜい叱り飛ばして、低音の矜恃というものを教え込まねば、と思っていた――のに。

 さっきから背中のゾクゾクが止まらない。

 これは何? ステージのトップライトが、大ホールの天井が、とてつもなく高く感じる。その高みいっぱいに、自分たちのハーモニーがすごい質量感で積み上がってる感じ。

 神様を感じるってこういうこと?

 マックス。そう、マックスって言ってた。これが、そうなの?

 ちらりと横を見ると、真っ赤な顔でコンバスクラに息を吹き入れている一年生の興坂おきさかも、なんだかぼうっとした顔をしている。

 つい十日前に低音楽器を担当するよう雪乃から申し渡されて悔し泣きで一日を潰した、まあ普通の勘違い一年生の一人だ。

 ああ、この子は今、去年の私と同じような気分でいるのだな、と思った。いや、それ以上のものを見てるんだろうか?

 幸せね、あんた。

 さあ、ぼさっとしないで。あんたもこの音、未来の後輩に自慢しなきゃならないんだからね――。


       *     *     *

D 木管・ホルン・ユーフォ・低音

  「じゃあ聴いてください。私たちの歌は、こういう古風なものです」

  「こんな感じの歌にも、君たちは合わせてくれるんですか?」

  トランペット・ユーフォ・チューバ

  「それなら、フリギアンモードのこれはどう?」

  木管・ホルン

  「この歌で合わせようと?」

  全楽器

  「おお、これならこれでもう一度始められるかも」


 塔野晶馬は憤っていた。

 三砂の指示通り、めいっぱいの音量で吹き鳴らしながらも、さっきから愚痴めいた考えしか出てこない。

 ――川棚が珍しくマジな顔で相談だって言うから、乗ってやったらこんなことになりやがった。

 よくわかんねーけど、これってこの十日間ぐらいの苦労が全部パーになってねえか?

 全く、何考えてんだ、加津佐ぁ!

 だいたい俺の提案の何が気に入らなかったんだっ。あんだけ考え込んだことはねえってのに。悪くねーだろーがよ、「吹部始めよーぜ」って。

 でーてーあいつが近くにいるとろくなことがねー。

 寝てるあいつと雛人形みたいにセットにされて写真撮られるし。

 そういや、なぜだかみんな俺とあいつをくっつけたがる。

 なんで俺がこんなちんちくりんと。


 ――こいつはすげーけど残念な奴だからです!


 ああ、でもこいつがすげーってことは、みんな知ってるんだ。

 それに、分かってる。もう、こいつは……残念な奴じゃねー。

 ま、浪瀬さんの対旋律カウンターがこんだけいい感じで鳴ってるのと一緒に吹けるのは、悪くねーよ。

 やっぱ音量にリミッターかけちゃいけねえ。出せるとこまで力いっぱい吹けなきゃな。

 ああしかし。

 なんでもっと早くこうならなかったんだっ、加津佐っ。

 やっぱ腹立つわ。腹立つけど。

 ……なんかさっきから、目ぇキラキラさせて笑ってねえか、俺?


       *     *     *

E 全木管

  「ああ、やっぱり無理です。これは違うんですっ」

  「だって、私たちの歌心は、基本、自然短音階エオリアン・モードなんですから!」


 滝野悠介は勇躍していた。まさかの緊急事態である。チューバのロングトーン一発で、先行きが全く読めなくなってしまったのだ。だが、どうするのがベターなのか、その方向性は読める。

 コルネット&フェイクオーボエ&トランペットサポートというのが、悠介の受け持ち分だった。でも、これだけバスの音が爆増したら、むしろトランペットのサポート中心のほうがいい。

 指揮台に目を走らせる。やる気になってる悠介の目の色まで、端嶋先生が読み取ってくれたかまではわからないが、テンポの指示の合間に、その口元がこちらに向かってちょっとだけニヤッとしたような気がした。

 背を反らせて、イスの後側から亜実にサインを送る。なんだかあちこちに気を取られていて、こっちを見ても戸惑ってるような気はしたけれども、まあいい。ダメだっつっても自分はやる。

 ああ、今気がついた。やっぱり俺、こういうところで、トップで吹きてえ。

 決めた。高校でジャズ研立ち上げて軌道に乗せて、吹部のエキストラも本気でモーションかけていく。それがダメなら市吹もいいな。

 さすらいの助っ人トランペッター、滝野悠介の名を世間に知らしめてやる。

 なら手始めに、この舞台だ。

 深江、ハイC勝負だ。どっちがどんだけでっかく響かせられるか。

 トップはお前だって偉そうに言った手前、少々気が引けるが……非常事態だから仕方ねえよな。

 さあ、そろそろクライマックスだ。立直リーチがかかるぜっ。


       *     *     *

F トランペット・ユーフォニアム

  「なら、ミクソリディアンモードはどうなんよ?」

  クラリネット・サクソフォーン・ホルン

  「ミクソリディアンは歌えますね」

  木管高音

  「え? あれあれあれ?」

  トランペット・他

  「なんだ、だったらどうにでもなるじゃないかっ」

  全楽器

  「ああ、これで歌える! 今度こそ歌えるよ!」


 九里尾勇紀は光を見ていた。

 ずっとずっとスポットライトを浴びるのが苦手だった。ピアノはもう長いし、鼓隊やら何やらで人前で演奏する機会は常にあったにもかかわらず、である。

 鼓隊では、多人数に紛れてドラムを叩くだけだったから安心してたのに、いつの間にかシンバルなんか任されて、やっぱり目立つところに行かされた。

 そんな、引っ込み思案な勇紀に、いつも辛抱強く付き合ってくれたのが、美緒だ。

 ドラム仲間からも離れて一人でシンバルを練習していると、友達を引き連れて一緒に吹いてくれた。ただの腕の運動になってしまってたのが、おかげでちゃんと音楽の稽古になった。

 そして、あの日。あの時、美緒の背中がなかったら、今の勇紀はない。

 伊軒先輩に認めてもらって、ちょっと変な人だけど能田先輩にもよくしてもらって、楽しい部活動を送れるなんて、四月の頃は全然期待してなかった。

 ――芽衣ちゃんから相談を受けた時、私が出来ることは何だろうって考えた。

 多分、私があの子を導くことなんて、できない。

 だったら、いつもどおりぶら下がるしかないって思った。

 しなだれかかって、ここにあなたがいなければダメになる子がいるよって教えるしかないって。

 なんだか願ってた方向のずっと斜め上になっちゃった気がするけど、これでもう大丈夫。

 シンバルも最大音量で叩いていいんだよね? じゃあ、残り半分、私も本気でいくから。

 これで、今度こそ一緒に吹部始められるね、私たち。


       *     *     *

 曽田雪乃は呻吟していた。

 このままじゃ壊れる、と思った。

 金管も木管もリミッター外したら、木管に分が悪いのは当然だ。この先の「行進曲風にアラ・マルツィア」はしばらく木管が主旋律。そこで急にボリュームダウンするような印象になったら、その直後の金管のテーマと差が出すぎてしまう。

 でも、もうクラリネットはいっぱいいっぱいだ。フルートはもともとボリュームを期待する楽器じゃない。残るのはサックス、だけなのにっ。

 慶奈ちゃんっ、なんでサックス、上げてくれないのっ!?


       *     *     *

 砥宮慶奈はどん詰りに頭を打ち付けていた。

 さっきから法子が慶奈のイスの座板をガンガン蹴飛ばし続けている。なんでフォルテのサインを出さないのか、と督促しているのだ。

 状況はよーくわかってる。でも、慶奈は今なおサックスパートの音量を上げるのをためらい続けていた。だって、今ここで上げたら……バンド全体のバランス完璧にしたら……

 

 一応強豪校と呼ばれる吹部にいただけあって、慶奈は他の部員よりも豊富な舞台経験を持っている。スパルタでブラックな吹部であっても、回数が多ければ名演・快演の回数も多くなる。時には、神がそこに降りてきた、としか言いようのないステージを経験することもある。

 だから分かるのだ。今のこの舞台は、降りてくる寸前だ。いや、もう手遅れかも知れない。

 で、もしそんなことになったら、心がそっちへいっちゃったお調子者のこの樫宮中は、そのまんま県で金賞狙うしかない。と言うか、多分獲る。代表金になる。それで支部大会行きが決まったら……

 夏休みが全部潰れるじゃないの〜っ。

 十五の夏休み。部活はほどほど、自分の音楽活動に七割、他は遊ぶ、というのが、樫宮に越してきた時の慶奈の青写真だったんである。コンサートにも行きたい。カレシと出かけたい。両親と旅行にいくのもいいと思う。三百六十五日、ほとんど部活漬けだった慶奈は、要するに逃避したかったのだ。妙にレベルが高くて音楽を内面から楽しんでいて、でもダメ金止まり、という樫宮中吹奏楽部は、遊びと音楽を両立させたい慶奈にとって理想郷に見えた。だから転校してきた。実際、ここまで存分に楽しんだ。

 なのに、なんでこんなことにっ!? あまり後味が悪いままでのコンクールも嫌とは思ったけれど、何もこんなことが起きなくても……降りてこなくても……。

 すとっと何かの紙が後ろから譜面台に投げ置かれる。いったいどうやってそんな作業をやり遂げたのか、法子が演奏の合間にメモを作ったようだ。コピー譜の裏面にでかでかと脅迫文が書かれていた。

 ――ここでffフォルテシモにしないんなら、夏中責めるからねっ

 あれである。樫宮木管パートの栄えある伝統のコミュニケーション術という。

 最近、法子の女体への攻め方は名技の域に達している。夏中と言わず、七月中に慶奈は悶死するだろう。

 そんな死に方はイヤだっ。

(ああああっ、もうっ)


 サックスでブーストかけるんなら、ここでしょっ!


 Gの一小節目で、慶奈は大きく楽器を振った。直後のフレーズ、そこには新たなパートが現れたかのように、完璧なアンサンブルの、強力な中低音グループが出現した。その効果に気づいた聞き手はほんのわずかだったが、ややパワー不足になりそうだった木管総出のメロディーに、穏やかな熱狂とでも呼ぶべきハーモニーの支えが入ったのは確かだった。

 もはやそのステージが名演になることは間違いなかった。後はただ、〝奇跡の〟という枕詞がつくかどうか、それだけだった。


       *     *     *

G 木管・サックス

  「ああ、この歌。私たちはこの歌が歌いたかった!」

  ホルン

  「おお、最高だなっ」

  バス・ティンパニ

  「さあ、このまま最後までっ」

 

 Gの直前、隣の光一がベルアップのサインを出したのを見て、小夜理は、バカじゃないの、と思った。いくら音量制限がなくなって吹きやすくなってるからって、何もそんな冒険しなくても。

 でも、二年生の二人は全然動じる風もなく頷いて、当たり前のように指示に従った。普段右脇につけるようにして吹いているホルンを、高々と持ち上げて、楽器を顔の位置に掲げたまま吹く「ベルアップ」。ホルンの音を大きく響かせたい時に使う、吹く方はちょっと勇気のいる、〝勝負時〟の奏法だ。

 ほんの少し遅れたけど、小夜理もしぶしぶベルを上げる。慣れてないんでそっくり返るような頭の形になってしまって、指揮者のバトンが一瞬視界から消える。

(もう、こんなむちゃやって!)

 だからこいつは弟扱いしか……そう思いながら、難所のソリをやけくそ気味で吹き鳴らす。

 一瞬遅れて、素晴らしくきれいに一本の音となった角笛の対旋律が、大ホールの遠くの壁にこだましてるのが聞こえた――気のせいかも知れないけど、確かにそんな響きがした。

 ああ、これ。アルプスのこだまだね。

「音プレ」を最初に合わせた時、自分でそう言ったのを思い出す。以来、細かい技術問題ばかり気にするようになって、すっかり忘れてたけど。

 気持ち良さそうにホルンを響かせながら、光一が横目で自分を見ているのが分かる。そうか、憶えてたんだよね。だから、ベルアップしたの……?

 唐突に幸せな気分で胸がいっぱいになったような気がして、小夜理は泣きそうになった。なんだろう、なんか、すごく嬉しい。こんな本番の最中なのに。こんな……

 こんなフカフカの響きの中に自分がいるなんて、信じられない。


       *     *     *

G10

トランペット・サックス・ホルン・トロンボーン

「そう、こういう歌が吹きたかった。これで俺たち、吹部ができるよなっ?」



 気がつくと、亜実の手の震えは止まっていた。

 横の浩太は、ほんの六拍ほど空いた休符の合間に、ちょっと神経質そうにスライドを出し入れしている。この後の自分のハイCが不安なんだろう。でも、亜実の視線に気づくと、結構余裕のある顔で頷き返した。なんだかもう、亜実も亜実のパートも他のみんなも、全然ミスをしそうな気がしない。図に乗ったのか、さっきは悠介がなんだかやんちゃなサインを送ってきた。パートリーダーとしてはどうかと思うけど、ここまで来たらそれもいいと思う。

 Gの折り返し地点。トランペットが殴り込みのようにメインメロディーを吹き鳴らす。ここから先はもう最後まで直線道路だ。浩太の一番トロンボーンが、ホルンと一緒になって高らかなマーチの対旋律をきれいに決めた。悠介と二人の1stは、響きこそ違え、息はぴったりだった。十一本の金管でのキレッキレの付点音符をスキップしながら、亜実は不思議でならなかった。どうしてこんなにキラキラした音が出せるんだろう――そうか、チューバだ。海のような深みのあるバスの倍音が、金管の上の方までに響きのかけらを分け与えて、一つの巨大な楽器みたいにまとめ上げているんだ――。


       *     *     *

 美緒は、ようやく答え合わせが済んだ気持ちになっていた。

 本当は、ずっと前から分かってたんだと思う。

 多分、トランペットにマックスがいないって感じた日に。いや、初めて先輩のチューバを間近に聴いて、それと知らずに泣いちゃった日に。――それか、初めて「ディエス・ナタリス」で宇宙空間のような低音の深みと触れた時に。

 でも、それをそうだと言い切るには、あまりにもチューバという楽器は異質で、まるでぜんぜん違う言葉を使う、背が高いだけの大人のような印象があった。

 一回きっかけを逃すと、その後はなぜだか遠回りが遠回りを呼んで、もう少しで手放すところだったのだ。

 もう見失うことはない、と思う。

 マックスはここにいる。

 いつだって美緒の体の中に、そして美緒はマックスの中に。

 手を伸ばせばすぐ届く距離にいる。

 チューバと――音楽とともにいる限り。


       *     *     *

トランペット・トロンボーン・コルネット

「さあ、今度こそ始めよう。吹部ってやつを」


 享士朗は心が震えるのを抑えることができなかった。

 この曲のこの三連符を聞くたびに、ああもう終わりだな、と思う。そして、最後のアコードをきれいに締めくくることに、ただ集中する。

 今日は違った。終わらないでくれ、と思った。この音楽が、いつまでもいつまでも続けばいい。

 この部員たちと、このままずっとこの響きに浸っていたい。

 だが、それは叶わぬ夢だ。

 あと何回、俺はこれほどの演奏を振ることが出来るだろうか?

 この子たちはどうだろう? これからの人生で、どれぐらいこれを超える音楽と出会えるんだろう?


H8

金管

「始めようぜ、俺たちの歌!」

H9

全楽器

「ああ、やろう!」

バス

「(もう一度っ)」


 全く、中学生ってやつは――。

 天を仰ぎ見たくなる思いをこらえ、口の端に苦笑いまで浮かべてしまう。俺史上最悪のステージになるはずじゃなかったのか? ああ、妻は正しかった。こいつら、顧問をほっぽいて、とんでもない音楽作りやがった。


H10

「俺たちの歌、俺たちの吹部が」


 二分の三拍子のイレブンスコードを万感の思いで振りながら、享士朗は心の中で深々と生徒たちに頭を下げた。最後の和音をしくじる可能性など、もはや微塵もない。


H11

トランペット・木管高音

「今、開幕だあーっ」

金管中低音・バス・打楽器

「サイコーだなっ、吹部!」


 二本のトランペットが、揃って鮮烈なハイCを叩き出した。何十本もの高音楽器が完璧にトニックを響かせる下で、中低音が強力なアーメン終止を轟かせてカデンツを閉じる。

 何重にもエコーのかかった最後の和音の名残が、ホールの彼方に消えていく。上げていた手を下ろし、止めていた息を吐いた時、聞き手の一人が最初の声を上げた。

「ぶらぼう……」

 たちまち、怒涛のように重なるブラボーの声と、嵐のような拍手。

 おいおい、中学バンドにブラボーってか? 最初の一人は、ありゃ小隈だな。

 しばらく、享士朗は動かなかった。部員たちはまだ音楽から戻ってきてないのもいる。観客が何の反応をしているのか理解できないでいる者もいる。

 上手のドアが開いて、うるさ型タイプの新参のホールスタッフが、腕時計を指さしている。ふざけるな、と言いたかった。この拍手の記憶が、部員たちのこれからの人生で、どれほど高い価値を持つだろうか。一秒でも長く浴びさせてやりたかった。努めてゆっくり振り返り、右に左におじぎをする。

 もう一分少々粘ったところで、馴染みのスタッフが顔をだし、拝む仕草をした。そろそろ限界か。それしてにも、これから休憩なんだから、もう少し気を利かせてもいいだろうに。

 部員に退場を指示して、ふと、舞台上方に掲げられている横断幕が目に入った。吹奏楽合同演奏会の文字とともに、今日の日付がある。

 七月十七日。

 とたんに、笑いがこみ上げてくる。そうか、まだコンクールも終わってないんだ。何をいったい、なにもかもやり遂げた気持ちになっているのか。

 夏はこれからだ。そう、今年は久々に県の外で暴れ回るのもいいか。

 今朝の妻のはしゃいだ顔が浮かんで、少しだけ申し訳ない気分になる。支部大会のチケットなんかで許してもらえればいいんだが――。


       *     *     *

 舞台裏からリハーサル室へ戻る部員たちは、比較的平静だった。特に騒ぎ立てることもなく、むしろ礼儀正しく列をなして移動していた。

 でも、それはもちろん擬態だった。リハーサル室についた途端、悲鳴のような歓声のような叫び声が、いくつもいくつも噴き上がって慶奈の鼓膜を突いた。

「ああん、もう……よかったよう……無事に終わって」

 桐香とノノに抱きついているのは曽田雪乃だった。よっぽどプレッシャーだったらしい。顔を合わせたらなにか言われずには済まされないと思ったので、背を向けてそそくさと楽器の手入れにかかる。

 きゃあっと黄色い声が弾けたので何かと振り返ると、トランペットの亜実がトロンボーンの浩太に自分からハグしていた。浩太は真っ赤な顔で慌てふためいているけれど、亜実は落ち着いた様子で、優しげに何事かを耳元で語り紡いでいる。何を言ってるのかは聞こえないけど……どうやら新しいカップルの誕生か。ちらりと噂は耳にしたことはあった。にしても、今日になっていったい何が起きたんだろう?

 また一つ冷やかすような野次が聞こえたんで見ると、今度はホルンの小夜理が光一にべったり抱きついている。なんだ、いつものことじゃない、と無視しかけてよく見ると、ちょっと雰囲気が違う。何と言うか……抱きつき方が、それっぽい? 二人とも変に顔を赤らめているのも、なんだか新鮮。

 やたらと吹部全体が色づいているような感じだったので、つい自分のカレシにも声をかけてしまう。

「私らもやる?」

「バカ言ってんじゃねえ」

 悠介はそっちの気分には全然なれないようで、ちょっと甘えた顔を作って見せても、つれない反応。仕事モードの顔でやんわりスルーしてから、手入れもそこそこに、楽器ケースを抱えて出ていってしまった。

 やれやれ、と慶奈はがっくり肩を落とす。今日はステージの上は素晴らしかったけれど、他は全然いいことがないな。あの男、やっぱりしまいにはトランペットが恋人、とか言い出す口だろうか?

「何シケた面してんだよ。もっと清々しい顔、できねーのかよ」

 吹っ切れた表情の法子が、慶奈を認めるや、バンバン背中を叩いて笑いだした。ああこの子、ハイになってる。

「すげー演奏だったじゃねーか。最高だよ、もう。あたしらであんなステージできるなんて」

 改めて見回すと、法子みたいにエキサイトが抜けない部員は結構いた。ちょっとうらやましいと思う。慶奈は一度舞台を降りると、あっという間に素に戻ってしまうタイプだ。だから、仮に大失敗しても割とすぐ立ち直るんだけど。

 パンパンと音がして、また横を振り向くと、桐香が全員の注意を引いている。雪乃がなかなか戻ってこれないんで、桐香が代理で活を入れることにしたらしい。

「おう、浮かれとるんは今日だけじゃ。十日後はほんまもんの本番じゃからのっ。今日、こんだけのことが出来たんじゃ。気合い入れていくでっ。明日から追い込みかけるでっ。てっぺん取るんや、おどれらっ、ええなっ!」

 クラパート以外からも拍手が起きて、一応一日の締めくくりの形にはなったようだ。ふと、肝心な人間がいないことに気づいて、法子に訊く。

「美緒ちゃんは?」

「ああ。男子の一部は荷物の積み込みで早めに片付けてそっち行ってるから」

 あ、それで悠介もさっきはつれなかったのかな、と一旦納得した。……じゃなくて。

「いや、美緒ちゃん。立役者でしょ、今日の」

「うん。でもあの子はあの子で真っ先に話をしたい相手がいるみたいだから、ね」

「……ああ、そういうことね」


       *     *     *

 美緒が運搬トラックの元に駆けつけると、貴之は打楽器を満載した軽トラックの第一便で、今にも出発しようとしているところだった。今日は美緒たちはこのまま現地解散、男子だけで学校で荷物の引き下ろしをすることになっている。今離れたら、明日まで話ができない。

「唐津先輩!」

 美緒の声に振り返った貴之は、戸惑った顔でそこで止まってしまう。その肩をぽんと叩いて、ちょうど駆けつけてきた悠介が、そのままトラックの助手席のドアに手をかける。

「先に俺が行くわ。第二便で頼む」

「……すまん」

 文化ホールの裏手の殺風景な搬入・搬出口で、美緒と貴之は向かい合った。第二便はぼちぼち部員たちが運び込んでくる荷物を載せているところで、まだ直ちに発車する様子はない。そのせいもあって、逆に美緒は何て切り出したらいいのかわからなくなった。

「で、何?」

 貴之がそう促しても美緒は黙ったままだ。ちょっとにまっとしてから、貴之はわざとらしい声で、

「あ。そう言えば今思い出したけど、加津佐、辞めるんだったか?」

「そっ……」

 返事に詰まって顔を赤くしていると、なおも追い打ちをかけるように、

「まあ、明日明後日には俺も復活できるし、みんなのメンタルもすごくよくなったから、コンクールは加津佐抜きでも何とかなるだろ。いい思い出もできたし、今日でちょうど切りがいいって言い方も出来るけど?」

 なんてことを流し目で言う。

 本気じゃないなんて分かりきってるけど、何もこんな意地悪言わなくたってっ。

「わ、私は、この部を辞めたいなんて、一言も――」

「なあ、加津佐」

 急に語調を柔らかくして、貴之が搬出口の隅に腰を下ろし、美緒を見上げた。

「今日のあれだけで、もうお前の音は本物だ。多分、金管のどのパートに行っても、十分使い物になる」

 楽器を持ち込んでくる部員の数が増えてきたようだ。運搬の仕事を引き受けてくれた保護者会の誰かのお父さんが、手際よくトラックの隅から楽器を重ねていっている。

「お前、自分が俺の何なんだって言ってたよな? 正直に言うよ。俺は、お前に教えてもらいたかったんだ」

「な、何を……?」

「音楽を。そんなふうに、全身で感動できるような音楽の付き合い方って、どんなもんなんだろうなって」

 からかってるようには見えなかった。そう、いつでもこの人は、美緒を下っ端扱いせずに、常に対等に向き合って話をしてくれたんだ。

「お前は、楽器の演奏の時だけ妙に硬くなってるところがあったけれど、音の聴き方はほんとに柔軟だったよな。それを、学ぼうと思ったんだが」

 正直に言い過ぎたと思ったのか、ちょっと照れたように口ごもる。

「でも、俺たちも色々不純だった。今日までほんとにつらい思いをさせただろ。けど、お前はチューバってパートを離れても、何なら吹部を離れても、楽しく音楽をやっていけると思う。だから」

「先輩、絶対知ってましたよね!?」

 貴之が小首を傾げて美緒を見る。神妙に見えて、奥の方にイタズラ笑いがほの見えるその目を見て、いよいよ美緒は確信した。

「私がほんとはチューバの音を探してたんだってこと」

「ああ、ま、それはな。でも多分、気づいてなかったのは加津佐だけだと」

「それはいいですっ。そうやって陰で面白がってくれれば本望ですから!」

「……いや、またそういう言い方ってのは」

「正直、私、うんざりしてるんです! みんなそうやって私のことおもちゃにするし、どこまでも笑いものにしたがってるみたいで」

「そ、それは、うちの吹部だとお互い様……いや、まことに申し訳ない」

「いいですよ。何しろよーやく今日になって、分かることができたんですから。チューバの中にはマックスがいるってこと」

「…………」

「ずっとそこにいるって分かってたのに、教えてくれなかった先輩のこと、私、ほんとに怒ってるんです!」

「え、いやその」

 本気でなじられてるようなのに気づいて、貴之が狼狽の色を見せる。立ち上がって釈明としようとするんだけど、言葉が続かない。

「だから私」

「その、確かにその点は悪かったけど、俺は――」

「だから私、当然こう言っていいですよね? 責任取ってください!」

 貴之の動きが止まった。周りでなんとなく様子をうかがっていたギャラリーたちも、急に静まり返って緊張した面持ちを向ける。

 吊り上がり気味だった美緒の目が、前向きな笑顔のそれになった。

「責任取って、卒業までずっと私にチューバ教えてください! チューバの相手してください!」

 おおお、と一斉に拍手が湧き起こった。その音で、今さらながら美緒は、なんだかずいぶんな人数がその場に集まってきていることに気づく。

 ちょっとだけ、ポカンとしていた貴之は、ふっと肩の力を抜くと、やれやれ、と首を振りながら、

「ああ、そんなんで加津佐の気が済んでくれるのなら、そりゃ――」

「ちょっと待ちなさあい!」

 めでたしめでたし、の直前で、思いっきり不機嫌な声が搬出口のコンクリにビンビン響いた。もちろん声の主は、今や嫉妬深い彼女役を臆面もなく演じる決意を固めた、曽田雪乃その人であった。人垣の最後部から駆けつけるようにやってくると、びしっと美緒を指差し、

「よくよく言っておくけどっ。チューバだけよ!? 楽器の相手以外はさせないからねっ!」

 どう返すべきか、美緒と貴之が一瞬迷って沈黙する。その隙に、別の声が上がった。

「いーえ、なりません!」

 いつになく生真面目な顔の三砂が現れた。手元のメモ帳を見ながら、珍しくメガネ姿でどこかの女史風に、

「ここまで来たら美緒ちゃんには王道ヒロインやってもらうしかありません! 曽田先輩は、このまま意地悪妨害キャラになっていただきますっ」

「あんたね……そういうことをわざわざ本人に向かって……ってか、それがミサミサに何の関わりが」

「もちろん私はそれをリアル学園ドキュメンタリーにして……あーっ」

 誰かにひょいと体を持ち上げられて、美緒は小さく悲鳴を上げた。クラリネットの三下……だか幹部だか知らないけど、固有名詞の出てこない何人かがかっさらうようにして美緒をその場からお持ち帰りしようとしていた。

「なんという狼藉! 黒幕は誰っ?」

 いよいよ芝居がかってきた三砂の声に、ぐふぐふと笑いを返したのは、今しも通路の奥から現れた桐香だった。

「加津佐にはリアルハグの相手が必要じゃあ。ものの道理の分からん奴らめ」

「あ、そーゆーことなら」

 桐香の前で降ろされた美緒が、なぜかその場に居合わせていた小夜理に抱きすくめられる。

「私にも当然参加の権利があるよね?」

「え、それじゃボクの立場はどういう……」

 トラックから離れたところで立っていた光一が、情けなさそうな顔で自分を指差す。

「え、いや、だから、それはそれ、これはこれ」

「お前ら、いい加減にしろ」

 さすがに不愉快さを露わにして、貴之が近づいてくる。すると見物にやってきていた法子が、

「いや、それは唐津さんがずっと曖昧な態度だからじゃね? どうしたいわけ?」

「え…………いや、それは別に」

「なんでそこで妙な間が入るの?」

「貴之ぃ、私という相手がいながらっ」

「あの、じゃあもうこの際ですから、週替わりシナリオってのはどうですか?」

「おどれらっ、加津佐の気持ちを少しはのうっ」

「あんたがそういうこと言うわけ?」

 いつの間にかマルチ大岡越前状態になってる樫宮中学吹奏楽部のど真ん中、自分よりずっと背の高い人たちの谷間で、しゃがみこんだ美緒はこの世の不条理に思いを馳せつつ、頬杖をついて呟くのだった。

「……神様のチェンジってできないのかな」




    完




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