第52話 お前に言いてーことがある。
七月十七日・日曜日。端嶋
本番がある日はいつもこうだ。若い頃は単に気持ちが高ぶって目が覚めただけだったが、今では単なる習慣だ。
台所では、もう妻が炊飯器のフタを開けているところだった。
「寝てていいのに」
「私も目が覚めたから」
この会話もすでに決まり文句だ。
息子は二人とももう家を出ている。が、今日の演奏会には来るという。下の息子などは、「そろそろ告別式用の写真も撮っておかなきゃならんだろ」などと憎まれ口を言う。
ほとんどの吹奏楽部顧問がそうであるように、享士朗は家庭を顧みることがろくにできなかった。関係したコンサートで招待券を手配するのが精一杯だった。結果として、母も息子も楽器こそ始めようとはしなかったものの、父親に毎回口さがない批評をよこす程度には、音楽へ親しむようになってくれた。
自分には過ぎた家族だと思う。
「今年の夏はどうなの? 支部大会には届きそう?」
魚の切り身を箸でほぐしながら、妻が訊いた。
「まあ難しいだろうね。……今日聴いたら分かるよ」
「ずいぶん弱気だこと」
「少なくとも、去年を超えることはないさ」
「でも今年の子たちはみんな優秀なんでしょ?」
「指揮者が負け戦を予感しているんだ。まあ、勝ち目はないね」
下を向いた妻の口元が、何かを言いたげにふわりと笑みの形を作る。
「何?」
「指揮官ほったらかして兵隊たちだけで勝ち戦にする例もあるなあって」
「そりゃ、プロの話だろ? 中学生バンドでそれはないよ」
「ふうん」
「何が言いたいの?」
鼻息混じりにやや不機嫌な声で繰り返す。今日の妻はちょっとしつこい。
「ううん。夏休みがちゃんと取れるんなら、今だったら信州か東北の方のいい旅館で、キャンセルが出る頃だなあって」
旅行の話がしたかったのか、と享士朗は眉を開いた。
「ああ、調べてくれていいよ。多分八月はどうとでもなるだろうから」
「そう? じゃあ予約までやっておくよ」
目を輝かせて、妻は食事の跡もそのままに、居間のノートパソコンに駆け寄っていく。さて、と享士朗は自分の食器を洗いながら、今日一日の段取りを頭の中で再チェックした。地区の中学校と高校の吹奏楽部が集まっての合同演奏会。昔は、ちょっと段取りが面倒な練習の延長という程度だったのに、今やコンクール本体と並ぶような重要イベントになってしまってる。
もともとは、吹奏楽コンクールの舞台練習を安上がりでやるために、いくつかの吹部が共同で地域の演奏会場を確保していたのが、全国的に拡がってイベント化したものだと認識している。当然、披露する曲はコンクール曲そのまんま、つまり、課題曲と自由曲だ。余裕のある学校だと他の曲も入れて、一般コンサート並みの内容にしていたりもするが、うちの地域でそんなご立派な部はない。そもそも、一日限りの日程を参加団体で割ると、一校あたりの時間は十五分程度しかないのだ。舞台の出入りにバタつくことも考えると、結局コンクールの音楽をそのまま載せるのみになってしまう。
ま、練習と割り切るなら、それでいいのだが。
「今年は練習にならんかもなあ……」
つい小さい呟きが漏れる。去年もたいがいだったが、今年のギクシャクした雰囲気はまた尋常ではない。今さらコンクール本番まで悪あがきをするつもりはないが、このままでは不完全燃焼も甚だしい。
長い夏休みを取るにしても、あまり後味の悪い形にはしたくない。そのためにも、今日のリハーサルで少しは部員たちの気分を上向きにできたらな、と思う。
コンクール終了後、五、六十人もの集団にいつまでもメソメソされるのは、なんとしても避けたいし、な。
深江亜実は戸惑っていた。クレシェンドをもっと自然に、と言われてるのに、うまくできない。全然広がらない棒のような音か、不自然に広がりすぎた音にしかならない。
合同演奏会当日、その午前中は舞台でのリハーサルだ。演奏会の参加校がそれぞれ四十分の枠で、ステージの音響条件の中でコンクールの予行練習をする。実は今日のメインはこの午前中の練習だ。午後の演奏会は、まあおまけのようなもの。だから、今ここで本番並みの仕上がりを目指すつもりじゃないとだめなのだ。
別にだだっ広い空間に恐れをなしたわけではない。大ホールでの本番は、去年も何回かやった。文化祭では、体育館で一番ペットのソロも吹いた。
なのに、なんでだろう、今日になっておなかに力が入らない。「音プレ」の冒頭部分、ファンファーレモチーフの難しくもないクレシェンドが、何か決まらない。技術に不安があるから? 舞台でアガる、という経験はこれまでなかったのだけれど、これがそういうことなんだろうか? だったら、私はどうしたらいいんだろう?
「落ち着いて、あみー」
不意に、左隣りから声がかかった。トロンボーン1stの白木部浩太が、こちらを振り返りながら、後輩に指導してる時みたいな声で亜実を励ましていた。
「ちょっと上がってるね?」
「……うん」
「そういうこともある。でも大丈夫だ。あみーならできる」
ステージ上は、音楽室よりだいぶんお互いの距離が大きい。これももう経験済みで気にならないはずだったのに、今日は妙に心細い。
「あみーの音は、僕らが支えるからねっ」
いつも言ってくれるフレーズを、今日も繰り返してる。いつになく嬉しい気がして、でもいつになく後輩扱いされてるような気がしたんで、つい言い返す。
「コータン、さっきもトチってたじゃん」
「え、そういうこと言うの?」
口ではそう情けなさそうに、でも少し安心した顔で柔らかく微笑んでくれる。
バシバシ、と竹の棒の音がして、端嶋先生がDの一拍前から、と言った。亜実もお喋りを止めて、合奏に集中した。
亜実一人のために何回もファンファーレを繰り返す余裕なんてない(そんなことをしたら、他のパートからも山ほどボロが出てきてしまうだろう)。だから、さっきの注意は午後の本番まで何とか消化しないと。
大丈夫、と自分に言い聞かせながら、亜実は膝の上の拳をぎゅっと握りしめた。……途端に、その顔が再度戸惑いで曇ってしまう。
あれ? なんでだろう、震えが止まらない――。
加津佐美緒は奇妙に平板な気分の中にいた。
泣きながら小学校でトランペットを吹いた日から、異様に早回しで日時が経っていったような気がする。
理由は二つある、と思う。一つはあの日の後に期末考査が続いて、それが終わったと思ったら球技大会なんかがあって(つまりみんなへろへろになっちゃって、その日は練習どころじゃなくなって)、でようやくまともに練習が再開されたと思ったら、もう目の前が合同演奏会で、慌てて焦って目先の練習をこなしているうち、あっという間にこの日になってしまった、という事情。
三年生はその点よく分かっていて、だから六月末までにめいめいその心づもりで練習していたらしいのだけど、二年生の、特に今年レギュラーに上がった人たちなんか、完全にテンパっちゃってるし、一年生に至っては言うまでもない。そんな精神状態だと、なおさら時間経過が早回しのように感じてしまうようだ。
そして、もう一つの理由は、美緒自身の事情だった。
悩むところまで悩んだら、開き直ってしまったのだ。と言っても、前向きな意味ではない。
他の部員に話したら、なじられることは必至なのだけど、この境地に達したおかげで、なんだかずいぶん平穏な日々になったような気がする。だったら、それでいい。荒みきった毒沼の中でも、居心地が良ければ、その日が来るまでそこにとどまるに限る。
「美緒ちゃん、お願いがあるんだけど」
午後四時。学校の音楽室のようなリハーサル室で、美緒たちは最後の舞台前練習にかかっていた。中学生の部は三時からのステージだから、もう半分以上終わっている。樫宮中学はここでチューニング+アルファみたいな練習を済ませ、コンディションを整えてから、そのまま舞台上手に移動、それから本番。
そんな、緊張も高まってきた濃い空気の中で、小動物のようなびくついた女の子が、美緒の席までトコトコやってきた。パーカッションの九里尾勇紀だ。木管の席決めが終わったらすぐにでも練習に入りそうなタイミングなのに、一体何事かと美緒は眉を上げた。
「シンバルなんだけど。『音プレ』の最初、どうしてもズレるの。いつもじゃないけど、すごく不安なの。タイミング取るの、手伝ってくれる?」
もう少しでずっこけそうになる。それはつまり、背後霊のように勇紀の背中にくっついて、カウントを取れと? ステージの上で?
「あ、手伝ってっていうのはだから、チューバで拍子を取ってくれたらなって」
「チューバで?」
「うん。先生の前振りに合わせて、三、四って、小さくでいいから振ってほしいの。私、あの先生の動きが時々よく分からなくて」
少しだけ頭の中でイメージしてから、「こんな感じ?」と美緒は実際に楽器を揺らしてみた。チューバは最初の四小節が休みだから、まあやってやれないことはない。
「うん、そう。多分私からもよく見えると思うから」
指揮台で先生がバシバシと竹の棒を叩く。振り返った勇紀は、
「じゃ、それでお願い。頼んだね!」
そう爽やかな笑顔を見せてパーカスの定位置に走っていく。
隣の貴之は、やり取りを聞いていたはずだけれど、何も言わない。暗黙のうちに承認したということだろう。
最後の練習では、舞台に乗せる二曲、「コンチェルタンテ」と「音プレ」の要所々々をつまみ食いみたいな感じで合奏し、仕上げらしい雰囲気を作っていた。
実際は惨憺たるものだった。ペットもボーンもホルンもいつになくポロポロ音を外していたし、樫宮中学では割と少ないと言われている、クラリネットのキュイーッというリードの鳴り損ないの音まで、何度も耳にした。
フルートはソロでかすれてしまい、誰も何も言わないのに「だって、弱い音って難しいんですのよっ」とか叫んでいた。低音とのバランスの兼ね合いで、全体的に抑えめの音作りになるから、それが吹きにくくてしょうがない、と言いたいのだ。他の部員から突っ込みが殺到しようとしたところで、今日は即座に先生が手で止めた。
美緒にはよくつかめなかったけれど、サックスも空気が悪そうだった。芽衣がいつか伝えていたように、法子と慶奈が、四月頃ほどでないにしてもギクシャクしてる。サックスパートのアンサンブル自体はしっかりしてたけど、なんだか元気がない。
最後は先生もちょっと呆れていたようで、でも別に活を入れることはせず、ええ話をするわけでもなく、
「うん。ま、どんだけひどくても死ぬわけじゃないから。肩の力を抜いてね」
それだけ言うと、手まねで移動の指示を出した。
なんとなくピリッとしない雰囲気のまま、移動が始まる。いよいよ本番だっ、みたいな引き締まった空気はない。でも明らかに上がってる部員は何人もいて、そこから悪い形の硬さがどんどん伝染してるような、どうにも嫌な感じが優勢になってきてる印象だ。
「家の人、今日は来るって?」
貴之が珍しく美緒に話しかけてきた。言葉少なになっている後輩の気分をほぐしてやろうと思ったのか、それとも自身の緊張を緩めるためか。
「はい、おじいちゃんおばあちゃんも来てるって」
「それはいいな。生で聴いてもらうのがいちばんだからな」
「ええ。もう機会もないでしょうしね」
言ってから、ぎこちない間が入ってしまう。しまった、という顔を見せたのもまずかった。
一瞬訝しげな顔をした貴之は、すぐにはっとした表情になった。
「ちょっと待て、加津佐!」
美緒の肩をつかんで、強引に振り向かせる。周りの部員たちが、びっくりした顔をいくつも振り向けてきた。
「どういう意味だ、それ」
「……別に、深い意味は」
「辞めるのか? 辞める気か、お前?」
「まだ何も言ってませんよっ」
「ふざけるなっ。俺はもう何人もお前みたいなのを見てきたんだ。妙に静かで、物分りだけ良さそうな振りしてっ」
貴之がここまで感情をむき出しにしたのは初めて見た。でも、こうなったらもうおあいこだ。
「それである日、急にお別れだ、なんて言い出すんだよっ。そうなのか、加津佐!?」
「だったらどうしたんですかっ。私は先輩の何なんです!?」
「こっちを見ろよ! 俺の目を見て、もう一度言ってみろっ!」
修羅場だ、修羅場ってる、という声がいくつも飛んだ。大事な本番前なのに、なんとなくみんな喜んでるような響きである。ふと見ると、目を大きく見開いた三砂が、こんな時まで手放さないメモ用紙に、クラリネットの三十二分音符よりも速い動きで思いつく限りの日本語を書き綴っている。
イラッときた美緒が、貴之を真正面から睨みつけて、決定的な一言を叫ぼうとしたその時、横合いから曽田雪乃が飛び出してきた。
「ああもうっ、こんな時に何!? 何でケンカしてんのよっ。せめて演奏会終わるまで待てな……」
向かい合っている貴之と美緒を見比べて、いっぺんに顔色を変える雪乃。
「ちょっと待って、これってもしかして……」
「ああ」
暗い顔で貴之が頷く。不意にがばっと雪乃が貴之の腕に取り付いた。
「あんたっ、私という相手がいながらっ。一年生にまで手を出してっ! 何考えてんのっ」
「どこをどう見たらそういう解釈になるんだ!」
「美緒ちゃんっ、こういうの、泥棒ネコって言うんだよっ。まだ若いうちから、間違ったことしちゃいけないと思うっ」
もはや何も言う気が失せて、美緒は黙ってその場を離れた。って言うか、本番十五分前なんでしょ。
「あ、ちょっと! こんな気持ちのままでステージに立たせるつもり!?」
なおも、修羅場だ、とささやき声が飛び交う周囲に、貴之がキレて何か喚いているのが聞こえる。もうどうでもいい。
ちょっと愛想が尽きた気分で舞台裏に急ぐと、勇紀が目の前にいた。
「さっきの、あれでよかったの?」
チューバを振るタイミングが少しズレてたような気がして、美緒は気になっていた。
「え? あ、うん、ありがとう。このあともお願い。……今日だけだから」
心持ち、勇紀が上の空っぽかったので、美緒は少し首を傾げたけど、うるっとした目で見つめられて、ただ頷いた。保護者っぽい役回りを頼まれれば、悪い気はしない。
三福小夜理はくすぶっていた。舞台袖にまで来て、二年生の二人が緊張感マックスになっちゃったようで、ホルンパートがちょっとしたパニックに陥ってるのだ。
手塩にかけて育ててきたつもりの後輩が、情けない。でももっと情けないのは光一で、二人を慰めているのはいいけど、ボクたちはハーレムなんだから、とか訳のわからないことばかり言って、全然効果が出てない。パートリーダーでしょ。男でしょ。ここは大きく胸を張って、背景に日本海の大波でも背負いながら、「お前たちのビビリは、俺がぜーんぶ追い払ってやるっ」とか言えないの!?
なんて高望みは、そもそも無理であること自体、小夜理もよく分かってる。
「ああもう、仕方ないなあ」
後頭部をボリボリ掻きながら、三人の中に分け入って言った。
「ほら。みんな手ぇ出して。気合い入れるよっ。ホルン、ファイトぉーっでいこう」
「あの。ハーレム、ファイトぉーの方がよくない?」
光一の間の抜けた反応に、二年生二人が吹き出した。いくらか神経質っぽい笑い方だけど、少しはほぐれたのかな。
「もう、どうでもいいよっ。じゃあ、それで。ハーレムぅ」
「ちょっとそこ、静かにしてね」
ステージスタッフから指さしで注意されて、黙り込んでしまう。出演中の学校のサポート一年生たちが、小夜理の顔を見てクスクス笑っている。光一まで同じように声を殺して笑っていた。
小夜理は口をとがらせるしかない。なんだか思い切りババを引いた気分――。
前出演校の演奏が終わった。動き出そうとした美緒たちは、けれどもすぐに止められた。一応拍手が続いているし、スタッフの人が舞台を整理するまでは動いてくれるな、とのことだ。コンクール当日はもう少し連続的な舞台転換になるらしいけど、このホールでやる以上は、このホールの安全な流儀に従ってくれ、と、リハーサルの時も聞いていた。
少しだけ手持ち無沙汰な状況になる。美緒の後から舞台袖に来た貴之や雪乃は、その後何も言わない。下手に揉めても演奏の妨げになるだけだと判断したのだろう。
あとは静かな境地で舞台に上がるだけ、と美緒が目を閉じた時、突然乱暴に誰かが肩を叩いた。
「おい、加津佐。お前に言いてーことがある」
塔野晶馬だった。露骨に眉をしかめる美緒に構わず、なんだか顔もアップ気味で、周りもちょっとぎょっとして様子を見守ってる。
「な、何よ、こんな時に」
「大事な話なんだよ。今だから言いてーんだ」
はっきりと野次馬たちがざわついた。美緒は暗がりの中で思わず真っ赤になった。まさか、である。まさかよりにもよってこんなタイミング、こんな相手から――
「お前のプレゼンのアレなんだけど」
やたら細かい文字がびっしり入った紙を出して、晶馬が上の方を指差した。
「ここ、
「は?」
「だからここ」
薄暗い照明の中でよく見ると、それは「音プレ」のプレゼンで美緒が間違って出したシナリオの紙だ。冒頭、トランペットとトロンボーンの行の「みんな、始めようぜ、〇〇〇を!」という文章を、晶馬がパシパシ叩いた。
「『始めようぜ、吹部を』。これですごくいー感じになると思うんだけどよ。どう?」
「…………」
押し殺した笑いが、あちこちで広がっている。誰の顔色も分からない場所だったけれど、美緒はなんだかすごく恥ずかしいところを見られた気がして、振り切るようにして舞台へ向かった。
「あ、加津佐ぁ」
ちょうど、「では出てくださーい」というスタッフの声が聞こえたところだった。
*次回の最終話は、まことにイレギュラーな形で恐縮ながら、一話あたりの文字数が、ここまでの平均的な量の三倍以上の長さがあります。読む側にちょっとした覚悟が必要な量になってしまって申し訳ありませんが、お楽しみいただければ幸いです。
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