第51話 それは泣きながら吹く楽器じゃない。



 美緒が唐津家の門をくぐったのは水曜日、テスト対策に加えて、職員会議とかで授業時間が午前中だけとなった、時間が余りまくった日、その、どんよりと雲が厚い昼下がりのことだった。

 これ以上わがままを言いたくはなかったのだけれど、貴之に極秘で交渉して、唐津母から身体共鳴のレッスンを一対一でしてもらえることになったのだ。しかもタダで。

「レッスン料の値引きの話って、すごくデリケートな問題だから、もうほんとに、絶対バレないようにしてね」

 そう何度も釘を刺されながらである。生徒の内情によってレッスン料というのは多少上下するものらしいけど、確かに誰それにはいくらまで値引きした、なんて話は表にすべきことではないし、ましてや丸々タダなど、本来ならあり得ないのだろう。一戸建ての中の、グランドピアノが鎮座ましましているだだっ広い部屋にビビりながら、唐津母の話にひたすらカクカク頷いていた美緒だった。

 もっとも、一方でこういうことの抜け道はいくらでもあって、今日のこれだって「後輩が先輩の家にたまたま寄ってみたら母親に会ったので遊びでレッスンの真似事をやってもらった」というシナリオでやっている。

 もうそれだけでもヘンな噂になりそうな荒業ではある。万一バレたら即有罪、というほどの話ではないとも言えるんだろうけれど、言い訳を何重にも作る必要があるほどの、グレーな行動ということだ。雪乃に話はしたのかと訊くと、してないと言う。ますますマズイ。

 そういうことで、人目を気にしてわざわざ自動車に迎えに来てもらったりまでして、恐縮しまくりながらようやく唐津母からサシで教わる機会を得たのだけど……結果的には疲れただけでほとんど効果がなかった。

「加津佐さん、だったよね。申し訳ないけど、うちのバカ息子が見立てたまんまのことを言わなきゃならないの。今すぐにあなたに効くエキササイズは、ちょっと思いつかない」

 先日はどんなすごいワークショップが行われたのだろうと思っていたのに、実は唐津母が音楽室でやったことは、今現在吹部で実践していることとそう変わりない内容だったのだそうだ。とにかく発声のやりやすい姿勢で、声帯から発した振動が体のどこでどう響いているか十分に意識しながら、少しずつ少しずつ、喉の奥とか頭蓋とか口腔とか胸の上の方とか下の方とかに広げていくイメージで声を出してご覧なさい、それだけなのだと。

「じゃ、なんでみんなあんなに短時間で楽器が鳴るようになったんですか?」

「なんでだと思う? ほんとは私もわからない。あんなに効果が出るとは思ってなかったから」

「…………」

「だから、一つの仮説なんだけど、あれは単に暗示がかかってるだけだという気はする」

 つまりは催眠術みたいなもんだと。もっと平たく言えば、「気のせい」だ。

「そ、そんな理由で、楽器がほんとにうまくなったりなんか――」

「そういうものよ。だから改めて言わせてもらうと、加津佐さんは体の素直な動きに、なんだかすごく変なブレーキを自分でかけてる感じがする。その妙な抵抗を取り払わないと、声にしろ楽器にしろ、いい響きにすることはできないと思う」

「どうすれば……」

「体の余計なこわばりを解くっていうのは、どうすれば確実に出来るというものじゃないの。力を抜いてと言っただけでできる人もいれば、ものすごい時間と努力が必要な人もいる。……中には一生できなかった人もいる」

 結局、安易な正解はないということだ。まあほとんどの人は少しずつ要領をつかんでいくもんなんだから、腰を据えて努力を続けなさい、と唐津母は激励するように言った。あちらとしても、そう言ってやるより他になかったのだろう。

 一部始終を見ていた貴之は、予想通りだと思ったのか、美緒を玄関から送り出す時にも特に何も言わず、でもさすがにいささか申し訳なさそうな色を浮かべていた。

「唐津先輩はなんで……」

 帰る間際に、ふと、口をついて言葉が出た。なんで私なんかをチューバにスカウトしたんですか? そう訊きたかった。以前の理緒の話では、はっきりと大抜擢みたいな響きまであったようなのに、こういう事態になると、いったいそれは何だったのかと言いたくなる。

 でも、今それを言うと、なんだかいじけて皮肉を言ってるようにしかならない。美緒は顔を背けて、言葉をすり替えた。

「いえ、なんでもないです。今日はありがとうございました。色々無理言ってすみません」

 帰りも唐津母の運転する自動車で送ってもらうことになった。買い物のついでだから、と言ってはくれたけど、タダ働きさせた上に送迎付きなど、ただ恐れ多くて、振ってきてくれる会話にも、美緒はろくに応対できない体たらくだった。

 でも、自宅まで行くよ、と言う声には、小学校の近くで降ろしてください、と返した。寄って行きたいところができた気分だったのだ。

 授業も部活もなく、まだ夕方にまで間がある。そこに行くとしたら、今日ぐらいしか機会がなかった。



 来客用のスリッパに履き替えて、その場所に向かうのは、なんだか変な気分だった。つい四ヶ月前まで、ここはずっと家みたいなもんだったのだ。

 三階の音楽室には野地のじ先生一人だけがいた。割と美人なのに、もう一人の盤台ばんだい先生と違って、陰キャラを絵に描いたような先生で、この人がいるために西小トランペット鼓隊部は入部希望者が何割か少なくなってるんじゃないかともっぱらの話だった。

 でも不思議と野地先生は卒業生には人気があって、美緒も練習中にそんな中高生の姿を何人も見た。数人でわいわい言いながら後輩たちを冷やかしに来るグループもいれば、一人でやってきていつまでも先生と話をしてる人も、あるいは黙ってトランペットを吹きに来る人もいた。

 卒業早々に、私もそんな女の子の仲間入りか、とちょっとニヒルな笑いが漏れる。はたして野地先生は、美緒の姿を一目見るやいなや、ただ楽器棚の方を手で指しただけだった。

「あの……」

「吹きに来たんだろ? 全く今日は、せっかくのオフの日だってのに」

 小学校のトランペットは、個人でいちいち担当楽器を決めていない。みんな同じような安物なんで、早いもの順で適当な番号の楽器を持っていく。美緒もずっとそうしてきたように、真ん中あたりのケースを引き出そうとしたら、一つ空所がある。もともと水曜日は練習日じゃないんで、それもあって今日寄ってみる気になったんだけど……誰か熱心な後輩が、頼み込んで自主特訓してるんだろうか?

 チューバとは比較にならないぐらい軽い得物を片手に、一階へと下りていく。西小の北側は裏山みたいなヤブが広がっていて、敷地のどん詰りにある音楽室の真下の非常口周辺は、トランペット鼓隊御用達の練習スペースだった。

 まだ暗くなる時間じゃないけど、空模様がちょっと気になった。足場が悪くなることを考えたのと、さすがに来客用のスリッパで土足はマズイと思ったので、持ってきておいた靴に一旦履き替える。非常口から出てフェンスギリギリまで進んでから、外に向けて吹いて、極力誰にも聞かれないよう音を出そうと思ったのだ。でも、そこには同じことをすでにやってる先客がいた。

「……なんで」

「私も今日急に吹きたくなった。そんだけ」

 芽衣は私服だった。今日みたいな日は、この時間まで制服姿の美緒の方が何か訊かれて当然だったけれど、芽衣はそれ以上何も言わなかった。

 久しぶりに口を当てたトランペットのマウスピースは、もうびっくりするぐらい窮屈で、来月からこんなのに戻れるんだろうかとちょっと愕然とするぐらい違和感があった。

 生まれて初めて吹いてみた時でもまだましだったろうと思いたくなるほど、スカ、スカ、という空吹かしを何回もやってから、ようやく音が出る。墜落寸前の低空飛行から、ギリギリでまっすぐ飛べてきた感じ。そこから何とかぶれない音でロングトーンが続くように持っていって、音階をいくつか鳴らして、簡単な曲を吹いてみる。

「ヤンキー・ドゥードル」を五回も繰り返す頃には、だいぶん調子が戻ってきた。むしろ、ただ漫然と吹いていた小学校の時よりは、ずっと音楽的な演奏になっているんじゃないかと思う。

 でも、響きは貧弱だ。

 ほんとは確認したかった。と言うか、逆転証明したかった。トランペット時代の自分は、もっともっと豊かな響きで吹いてたんじゃないかって。チューバに移ったせいで、調子が狂っただけなんじゃないかって。

 試してみたら、そんなことじゃ全然なかった。吹けば吹くほど分かってくる。小学校の卒業まで、私はこんな響きだった。今となってはまるでなってない、ぶかぶかプープー鳴らしてるだけの、ままごとみたいな児童の演奏。

 つい三月までは、それでもそんな自分たちがすごく立派でかっこいい存在に思えて、練習が楽しくて仕方なかった。少しずつ高い音が吹けるようになるたび、あるいは速いフレーズがこなせるようになるたび、難しいミッションを次々クリアしていってる気分になっていたけど……それはジャングルジムのてっぺんで世界制覇した気分になってる幼児の姿でしかなかった。

「どこに行ってたの?」

 ヒビの入ったお皿を注意して触る時みたいな慎重な声で、足元から芽衣が訊いた。しばらく美緒につきあうようにして音を鳴らしていた芽衣は、さっきから楽器を吹くのをやめ、今はフェンス手前の土手の縁にただ腰を下ろしている。

「先輩の家で、体の響き方、見てもらってた。……お母さんに」

「そう」

 口止めの必要はないだろうなと思って素直に話した。むしろ、美緒の方が芽衣に聞いてほしい気分でいっぱいだった。

「今すぐ急に響かせるようなことはできないって。地道に努力していきなさいって」

「うん」

 不意に目元から涙が滲み出して、美緒は慌てて楽器を構えた。もっと元気のいい曲を吹かなきゃ。……それか、もっと息をいっぱい吸わなきゃならない曲。目の奥へいっぱい空気を入れられるように。

「インディ・ジョーンズ」は昔よりずっと軽やかでパンチの利いたタンギングができていた。少しだけ嬉しくなって、何度も繰り返す。でも、吹くほどに音のあちこちがゆがんでいく。時々むせ返るように途切れた音が入ってくる――。

 マックスに会いたい。そして、クリスマスコンサートの時みたいに幸せな音に体中包まれたい。

 初めて「音プレ」を合わせた時は感激した。でも、あれほどの体験は、その後起きなかった。

 あの響きには、どうやったらまた会えるんだろう? それとも、もう会うことはないんだろうか? そもそも最初からそんなものは幻だったの? 初めてチョコレートパフェを食べた子供が有頂天になったみたいな、ただのびっくり体験でしかなかったんだろうか? 

 せめて自分が素晴らしい音を出せるようになれば、マックスに近づけるかもって思った。ペットに移った時にふかふかな響きが出せればいいんだ、その時まで技量を上げておけばいいんだって信じて。だからチューバのまま精一杯がんばって、普通以上にたくさんのものも背負しょい込んできたのに――私、全然変わってない。こんなんじゃペットに移っても、マックスが降りてなんか、こない。

 それどころか、今はみんなの迷惑の元みたいになっちゃってる。仮にこの後で唐津先輩が復活して、吹部のサウンドが安定したとしても、私がお荷物なのは相変わらず。多分ペットに移った後でも……。

 もう吹部で音楽やってても、マックスには会えない、よね。だったら――

 左の肩にそっと手が置かれたのを感じた。いつの間にか芽衣が隣りに立って、美緒を抱き寄せるように手を伸ばしていた。何を考えてるのかなんて、とっくにお見通しなんだろう。それでも芽衣は、黙ってただ美緒に寄り添い続けていた。寄り添い続けてくれていた。

 がたっと音がして、非常口から野地先生が現れた気配がした。とぎれとぎれの情けないトランペットを吹き続けている女の子と、その子にただくっついて黙っている女の子を見て、小さくため息をつく。

「加津佐」

「はい」

「トランペットは泣きながら吹く楽器じゃない」

「……はい」

 そう答えて、また吹き続ける。続けても、音は全然きれいにつながらないままだった。でも先生はそれ以上何も言わず、それまで美緒が見てきた何人もの卒業生にそうしてきたように、ただ静かに美緒の演奏を見守るだけ。

 夏が始まりきれない空からは、ぽつん、ぽつんと小粒の雨が降りかけていた。


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