第50話 振り向けばどん底。


 果たして美緒の危惧は全面的中した。

 響きが埋没してしまってる。ただでさえ「足りない」と言われ続けてきたボリュームの貧弱さに加え、周囲がみんなしてレベルアップするという冗談みたいなことが起きたもんだから、バスの弱さは決定的になっていた。

 病み上がりの初日とその次の日ぐらいまではみんなも見て見ぬふりをしてくれたけど、その週末に合奏した時には、もうイラッときた空気がそこかしこに立ち上っているのが分かった。

「ちょっとすみません、バランスがつかめないです。ここのフォルテ、どれだけの大きさで吹いたらいいですか?」

 普段出ないような質問が部員から先生に飛んだのは、土曜日の午前の合奏。一発合わせの練習は例によって最初に済んでいて、その後のコンクール曲以外のレパートリーをさらっている時の出来事だった。曲はクリフトン・ウィリアムズの「献呈序曲」。

 フルートのソロ担当、雑岐さいきせりなの声に、先生はちょっとだけじとっとした視線を返したけれど、口調はごく平静だった。

「普通にフォルテでいいよ。少なくとも遠慮するような吹き方でなくていい」

「でもそれだと高音ばっかり聞こえてしまうような」

 せりながちらりと後ろを振り返るような仕草をした。途端にバリサクの宝寺丸法子が不機嫌丸出しの声で、絡みだす。

「何? あたしがさぼってるとでも言いたいわけ?」

「いいえ、宝寺丸さんの音は聞こえすぎるぐらいでしてよ。でも、私はバスパートとのバランスについて申し上げておりますから」

「つまりさぼってるって言いたいんだろーがよっ。おい、多佳町、お前からも何とか言えっ」

 バスクラも巻き込んで集団闘争にしようとする法子の企みは、でもすぐにくじかれた。先生がパシパシと竹の指揮棒を譜面台に打ち付けて水入りにしたからだ。

「はいはい、君たちもコンクール近いんだから仲良くね」

 それからせりなの方を見てから、ちょっと強い語調で指示を重ねた。

「聞こえ過ぎたら僕から指示を出す。そうでないうちは、これまで通り吹いて」

「分かりました、先生」

 せりなは二年生だ。深江亜実ほどでないにしても、技量の高さを買われてソロ担当に推されたタイプなんだろう。実質パートリーダーみたいな位置である。でも、コミュ力とかトータルの経験値はやっぱり甘々で、美緒から見ると、どうしても思慮が〝浅い〟感じがしてしまう。普段はそこをフォローする意味で、フルートパートはピッコロの菖蒲沢ノノが仕切っているようなのだけど、今日のノノは面白くなさそうに隣で様子見に徹している。どうも、ここに至ってせりなの言い分を抑えきれなくなってるという感じだ。

 もちろん、さっきの質問は要するに、チューバが弱すぎる、と苦情を言いたいのだ。けど、それは口に出しても仕方のないことなんである。だから法子が自分の話に引きつけてチューバパートをかばおうとしてくれたわけだし、ノノも自分からはあえて意見を言わなかった。多分他の、話のよく分かっているパートリーダーたちはみんなそうだろう。

 しかしながら、それほど大局的にものを見られない三年生とか、二年生の多くは、不満は不満としてストレートに出してしまう。美緒だって立場が違っていたら、そう物分りのいい態度でいられたかどうか。

 午前中の練習がはねたところで、何となく金管の主要メンバーが集まる形になった。

「無理はすんなよ、あんなの気にしなくていい」

「金管はみんなチューバに合わせてバランス取るからね」

 そう言ってくれるのはありがたかったけれど、問題なのはみんなが声をかけてる相手は美緒一人でなかったということだ。

「……で、マジな話、貴之のそれ、本番に間に合うのか?」

 悠介がそう本人に訊く。そう、音量が不足気味なのは貴之も、なんであった。もっとも、美緒と違ってこちらは技術的な理由で音が小さくなってるんじゃない。医学上の問題だ。

「実は昨日病院から連絡があった。あともうちょっとだけ療養がんばったら、自由に吹いていいって」

「あともうちょっとって、いつまで?」

「それが……十八日までだって言うんだ」

 低いうめき声がいくつも上がった。合同演奏会の、よりにもよって翌日だ。

「間が悪いな……」

「いつものこの部なら何とかなったんでしょうけどねー」

 肺気胸の治療のために、貴之はこの春まで、極力音を出す機会を減らしてやってきた。吹くのは全体合奏の時だけ、それも半分以下のパワーで音を出す、という、セーブモードオンリーで対処してきたのだ。美緒が参加し始めた頃から徐々にセーブを外してきたわけだけど、今でもブレスの深さは全盛期の半分以下だという。言い換えると、その程度でも、吹部全体を何とか支えられてはいたのだ。つい先日までは。

 結局はワークショップが仇になった形だ。貴之としては、他のみんながばんばん鳴らし出して、チューバパート二人で支えるきれる分を凌ぐほどになるとは、まさか思っていなかったのだろう。

 そんなこんなで、とにかくバスの音響不足は「ちょっと薄いよね」ぐらいが「バス、吹いてないんじゃない?」ぐらいにまで深刻化した。貴之も色々と楽観しすぎた面はある。先生の見込みだって甘かったかも知れない。

 でも、美緒本人からすると、今のこの状態は何もかもが自分の責任に思えて仕方がない。だって、美緒が〝世間並み〟程度に音を出せていれば、全部解決する問題なんだから――。


 何となくギクシャクした雰囲気が尾を引いたのか、翌日曜日の合奏は更に荒れた。「コンチェルタンテ」の〝黒と白のダンスバトル〟には、木管中声部とチューバの掛け合いなんて箇所があるのだけど、そこの練習で物言いがついたのだ。

「ちょっといいですか。バスのリズムがはっきり聞こえてこないんで、なんか吹きにくいんですけど」

 そこは確かに裏でパーカッションが色々複雑なリズムを叩いてたりしてて、元々聞き取りにくい難所ではあった。三番クラリネットからの意見も、別にチューバの音量不足だけを言い立てている感じではなかったのかも知れない。

 けど、過去の地雷が山ほど埋まったままになっているうちの吹部で、その発言はいささか不用意だった。

「指揮棒だけ見てればリズムは合うんじゃなかったの?」

 三福小夜理が独り言のように、でもはっきりと小さくない声で言ったもんだから、ちっちゃな火花がいっぺんにガスタンク火災へと発展した。

「あ? 何よその言い方。あたしらが全部悪いって?」

「自分のリズム音痴を人のせいにすんなっつってんのよっ」

「聞こえてねえのを聞こえねえってのが何がワルいんだ、テメっ」

「お前らクロス練習ん時に何ほざいてたよ。文句言いてえ時だけ他人の音に合わせる振りする、その根性が気に入らねえ」

「あんだとこらっ、何様のつもりだぁ!?」

「うっせー! てめーらの意識高い系ごっこにはうんざりなんだよっ!!」

 木管vs金管再び、である。ただ、時期的なものもあって今日のこれはみんな目がマジだ。本気で相手が悪いと思ってる議論なんで、なんだか一方的に怒号が拡大していってるようだった。

 先生は先生で、完全に火消しのタイミングを失していた。両手を掲げて抑え込むジェスチャーをした時には、もう誰も指揮台の方を見てなかった。かと言って、古典的な雷の落とし方をするのも今日びは何かと厄介だ……という事情を熟慮したのか言い訳にしたのか、先生は早々に「参ったなあ」のポーズで見物モードになってしまった。

 罵り合いに参加してない何人かは、当然ながら宝寺丸法子の姿を探した。そして、たちまち失望した。のっけから口げんかの陣頭に立ってしまっていたからである。のみならず、多佳町紫帆を無理に引き込んで古巣の先輩たちを野次るようけしかけてさえいる。昨日のフルートとの小競り合いが、どうも腹に据えかねていたようだ。

 じゃあパーカスは、と反対側を見ると、今日のところは秘密指令を入れる者が誰もいなかったようで、独断で強権発動していいものかどうか迷っている感じだ。

 美緒としても、実質的に自分の至らなさが戦争を引き起こしてるようなもんなので、見てると胃が悪くなりそうだ。でも私が今ここで何か言っても……。

 と、突然、貴之がゆらりと立ち上がって美緒の目の前を横切った。チューバを抱えたままで、教室の真ん中あたりに立ち止まる。そして、やおら楽器を構え――


 ぶるるぉぉぉーっという雄叫びのような音を、フォルテ六つぐらいの大音量でぶちかました!


 一瞬で教室は静寂に包まれた。去年の唐津貴之を知る者は敬意を込めた沈黙で応じ、知らない者は、単純にそんな大音響が楽器一つから発せられたという事実に言葉を失っていた。

「迷惑をかけて申し訳ない」

 主に木管のメンバーに向かって、貴之は語りかけた。

「今ぐらいの音を、俺は出そうと思えば出せる。だが、病院の先生との約束で、今は肺いっぱいに空気を吸うような吹き方はできないんだ」

 一応その事実は人づてに部全体へ伝わっているはずのことだった。でも、こういう騒ぎになってしまったら、自分の口からその話を説明し、頭を下げるのが筋だと、貴之は考えたのかも知れない。

「このまま痛みも違和感もなければ、また以前のように演奏できる。コンクールには間に合わせる。ただ……合同演奏会は難しい。チューバのソロだけは百パーで吹いていいって許可をもらってある。でも他のとこでは抑えなくちゃならない。こればっかりは無理はできない」

 チューバを床につけ、深々と頭を下げて、貴之は言った。

「バスの音が圧倒的に足りてないのはよく分かってるが、現状、チューバの音はこれでいっぱいいっぱいだ。どうかこのままで、演奏会まで付き合ってほしい。よろしく頼む」

 思わず、美緒は立ち上がっていた。

「そんなことっ――」

 とても黙っていられなかった。見ていられなかった。

 あるべき音量がないという問題は、誰よりも美緒の責任であるはずなのに。なんで先輩一人が頭を下げなきゃならないの?

 私がいちばん悪いんです、文句でもイヤミでも存分にぶつけてください――美緒はそう叫びたかった。

 けど、即座にバストロの僧藤そうどう真純ますみが美緒の肩を抑えて、首を振った。三砂もすみやかに身を寄せて美緒の半身を抱き留める。余計な飛び出し方はするな、と先輩たちに暗に叱られて、美緒はただ貴之の後ろ姿を見ていることしかできなかった。

「よっしゃ唐津、よう言うた!」

 真っ先に口を開いたのは、やはりエスクラの桐香だった。

「頭上げろやっ。眼の前で男が筋を通しよるのを足蹴にするほど、わしらは落ちぶれとらんっ。そやろ、雪乃?」

「え? あ、う、うん」

「ノノ?」

「ふふん、まあ、フルートピッコロの音なんて、どうせたかが知れてますから、チューバが気に病むほどのことじゃありませんことよ。こちらはこちらでやらせてもらいますわ。そうよね、せりな?」

「は? はい、ええ、も、もちろんですわ」

「あー、君たちは」

 すっかり蚊帳の外状態だった先生が、その時になってようやく会話に復帰した。

「そういうキャラごっこを、卒業後も続けるつもり?」

「えっ!? いやっ、そういうつもりじゃないんですけどっ」

 桐香が素の声で慌てて答えた。ようやく笑いが起きて、なんとか話のできる状態に戻ったところで、先生が真面目な声で部員全体に提案する。

「唐津クンに切々と訴えてもらうまでもなく、今のこの状態はどうしようないことだ。だから、ここから始めるつもりでやってもらうしかない。僕も打てる手は打つつもりだけど、僕が部員一人ひとりにボリュームを細かく指示するのにも無理がある。そこで一案なんだが、音量バランスのコントロールはパート単位でやるってのはどうだろう?」

 例えばサックスならサックスの中の声部バランスは、弱音ピアノの時であれ、強音フォルテの時であれ、一定の割合を保っているのが常だ。曲想が変わったからと言って、テナーだけ極端にでしゃばったり、バリトンがアルトの半分になったり二倍になったり、なんてことにはならない。どこのパートでもそう。

 つまり、楽団全体の音量を上げ下げするにしても、その調整はパート単位であるべきで、その判断はパートリーダーがやるべきだ。指揮者はめいめいのリーダーとだけ、必要ならコンタクトを取り、その指示に応じてパートリーダーがパートメンバーにボリュームのアップダウンのサインを出せばいい、という考え方。

「うまくいくかどうかわからないけど、これでしばらく試してみようと思う。みんなもバランス練習のいい機会だと前向きに捉えてほしい。」

 この言い方で、一応その件は収まった。これはレベルアッブのためのミッションである、みたいな言い方は、意識高い系の人たちの上達欲をそれなりに刺激したし、少なくとも目先の不満をそらす効果はあった。

 でも、美緒は不安だった。いずれ行き場のない不満はさらに大きな形で吹き出す、という気がする。ならば――どうする?



 その日、午後の練習が終わって川棚芽衣と帰り道を歩いている時も、美緒の心は晴れなかった。そんな美緒の気を紛らわせようとしてか、芽衣はサックスの内輪ネタばかり振ってくる。

「なんかさあ、この頃法子先輩と慶奈先輩がまたうまく行ってないのね。愛弓先輩はほっとけって言うんだけど」

「うん……」

「まあ本気でドツき合ってるわけじゃなくて、くすぐり合ってるだけなんだけどさあ。例のいちばん平和的な不満のぶつけ方っていう」

「うん」

「でも連日そういうこと目の前でやられると……美緒、聞いてないよね?」

「うん」

 ため息をついて芽衣が立ち止まった。気づいた美緒が戸惑った顔で振り返り、それでも何も言えないで視線を泳がせる。

「あのさあ、責任感じて思い悩むのは分かるけど、できないものはできないって認めることも大事だよっ」

「それは……まだわかんないよ」

「ねえ、そうやって意地張ってたら、落ち着く話がいつまで経っても――」

 一瞬、じっと芽衣を睨みつけた美緒は、でもすぐにうつむいて、急にポケットからチロルを取り出すと、無理やり芽衣の手に握らせ、黙ってその場を走り去った。一度も振り向かずに。

「その話題は、もう言わないで」を意味する、二人の間でずっと繰り返してきたサイン。それを、こんな乱暴な形で送りつけるのは友情の根幹に関わる。分かっているけど。

 三個のチロルを目にした芽衣は、どんな顔でこちらを見送っているだろうか。少なくともしばらくは距離を置かれるだろう。

 テスト対策、今回は一人でやんなきゃだめかな……。


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