第49話 後から出てきたものは…。


 それから美緒は、半年ぶりに母親とたくさんの話をした。自分でもちょっと幼児返りを起こしてるんじゃないかと思ったほど、甘えた声で、いっぱい、いっぱい語り合った。

 夕食の準備を手伝おうとしたら、少しまた熱が出てきた感じだったので、軽いものを食べて薬を飲んでまた横になった。

 次に目が覚めたのは、十時近くだった。母親は夜のパートも休みにしたらしく、そのせいかいつになく賑やかだ。父と母と理緒が三人揃って語り合っているのを聞くのは、久しぶりのような気がする。

 夕方のことは父親も理緒も母親から聞いているだろうし、なんだか面映い気がして部屋から出たところでじっとしていると、急に理緒の笑い声が聞こえてきた。

「そうそう! 芽衣ちゃんなんかチロル二十個持ってきてさ、すごく真剣な顔で、『これお供えにしてください』って。まだ死んでないよって怒ったら、『これだけ枕元に置いといたら、きっと目ぇ覚まします』なんて言うの。あの子もヘンな子だよね〜。いい子なんだけど」

 どんだけ美しい家族愛を賛美しあっているのかと思ったら、美緒の親友をネタに盛り上がっていたらしい。元々理緒と芽衣は仲がいい。加津佐家の姉妹の間に隙間風が吹いた感じになった後も、うちに来ると美緒そっちのけで楽しくお喋りしている。まあ今頃は自分の部屋でくしゃみしてるだろうけど。

 とりあえず話の中身はスルーすることにして、理緒ちゃんともきちんと話をしておかないと、と思う。

 ずっと小さい時は、仲のいい姉妹だったのだ。多分喘息が出るようになって、理緒はマックスを手放し、美緒とも遊んでくれないようになって距離ができた。両親も理緒にかかりっきりになって寂しくなった美緒はマックスべったりになり、でもそんなことしたらマックスの毛が服に付いたりもするから、ママは時々ヒスを起こし、道理が分からない美緒は泣いて、ますます理緒とは離れるように言われた。――なんだか、そんな悪循環になってたような気がする。

 別に、最近ケンカをしたとか取り返しのつかないことを言ったとか、そういう事情でもないのだ。幼い頃のように、とは言わないにしても、これでもう二人とも普通ぐらいには姉妹らしく――と美緒がリビングに足を進めかけた時、ふっと声のトーンを落として、理緒が言った。

「で、ゴキブリの件はいつになったら美緒に言うの? それとも言わないの?」

 棒立ちになった美緒が耳を澄ませていると、父と母が「止めといた方がいい」とか「そういうのは墓まで持っていかないと」とか言ってる。な、何の話をしてるんだろう?

「肺によくないし、不衛生だから捨てさせるっていうのは決めてたの。美緒には三月までって話をするつもりだったけど……それが予定より早くなった、それだけよ」

 言い訳をゴリ押ししてるような口ぶりで母親が言った。

「でもさ、美緒の部屋にマックス置いてた分には、私の喘息には関係なかったはずなんでしょ? あの子ヘンなところ鋭いから、いつかは、何かおかしいって気づくよ? それでまた変に距離ができたりしないかな?」

「そん時はそん時だ」

 父親がはっきり言い切った。声にちょっと苦味が混じってる。

「自分がずっと抱いてたクマの中身が、実はゴキブリの巣でした、なんてこと知ってみろ。ひっくり返って、今度こそ一年ぐらい眠り続けるぞ」

「いや巣って……二匹か三匹だったんでしょ?」

「でも卵まであったからねえ。見つけた時も、二匹連れがなんかまったりしてて、たまたまいたって感じじゃなかったから。下の方とか、はっきり食われててあちこち穴になってたし」

 母親の述懐は描写性があって、説得力を感じさせた。

「あの子が遊びに出てるうちに、たまにはお布団干さなきゃって思ってぬいぐるみ動かしただけだったのに……まさかあんなことになってたなんて」

「速攻で処分場に持ってって証拠隠滅したから、結果的には現場を見ずに済んで、あいつにとってはよかったんだろうが」

「そりゃ目の前であんなの見たら、トラウマになってたよねー」

 ――美緒は気を失ったりはしなかった。少なくともその時、自分がどれぐらいの時間、そこに立ったままでいたのかは憶えている。

 ただ、そこから回れ右して自分の部屋に戻るのには大変な努力が必要だった。ほんの二、三歩の距離だったけれど、震えが止まらない手でそっとドアを閉めて、かじかんだように硬直した足をベッドまで動かすのは至難の業だった。マットレスの上に身を横たえた後の記憶はもうおぼろげだ。

 確かにあの日、美緒の部屋には、大掃除にしてもやり過ぎなぐらいの消毒臭が立ち込めていた。取り乱した美緒は深く勘ぐることもなく、そこまできれいさっぱりマックスを処分したって言いたいの、なんて受け止めて、そのまま家を飛び出したんだけど……まさかその真相が、ゴ――

 ああ、神様。

 私、この家に生まれてきてよかったって、心の底から思ってます。パパとママの子でよかった、理緒ちゃんの妹でよかったって。

 でも、なんででしょう。私の人生って、絶対脚本書いてるの、コメディ作家ですよね? キャラが全員感動でえぐえぐ泣いてるところに、なぜだか青空のてっぺんから金ダライ落ちてきて主人公の頭の上にぶち当たるようなシーン作るタイプの?

 替えてください。チェンジです。もっとストレートに泣けて笑える人生にして。お願いだから。でないと、私……私……。


 その夜からしばらく、美緒は高熱にうなされた。話を聞いたおばあちゃんは、まあ大丈夫よ、私もすぐに元気になったんだから、と心持ち嬉しそうに語ったもんだけど、受話器を持った母親も、横で聞いていた父親も、たまたま居合わせていた美緒の目の前で気まずそうに黙り込むばかりだった。

 どうも、状況証拠から事態を悟ったようだ。なんだか、雲の上で誰かさんが悪趣味にニヤリとしているのが見えた気さえする。脚本の担当は替わらないんだな、と美緒はそっとため息をついた。



 美緒の体調が平常に戻った時には、もう木曜日になっていた。

 すでに七月である。でも天候は梅雨真っ盛りで、鬱陶しいことこの上ない。

 それでも、とやかく言ってる場合ではないのだ。じきに期末テストがやってくるし、それが済んだらいくらもしないうちに合同演奏会だ。その十日後にはコンクール。

 遅れた授業分を取り戻すのももちろん苦労だけど、吹部がその後どうなったのかもすごく気になった。日曜日のワークショップの効果はあったんだろうか? みんながあれだけ心待ちにしていたイベントが不発だったりすると、今頃再起不能なほどに荒れているという可能性も――

 なんて想像しながら音楽室に向かった美緒は、でも聞こえてきた練習の音を聞いて仰天した。なんだか音が太くなってる。それにデカい。一人二人じゃない。クラリネット、ホルン、トロンボーン、サックスにペット、フルートまで。聞いただけで誰と分かる先輩の音に交じって、どうも一年二年のモブ扱いだった人たちの音が、はっきりと目に見えて質感のあるサウンドに化けてしまってるようだ。

「な、何があったの?」

「あ、美緒ちゃん、久しぶりー。もういいのー?」

 楽器庫に至る廊下をきょろきょろしながら歩いていると、ちょうどユーフォを出していた浪瀬三砂が手を振って美緒に寄ってきた。軽く頭を下げて二言三言話をしていると、他の先輩たちが次々に美緒のもとに来ては「おお、生きて戻ってきたか」とか「心配したよ〜」とか声をかけていく。そのたびに恐縮してぺこぺこしていると、なんだかくちばしを水に突っ込み続ける鳥のおもちゃになった気分。

 やっと表敬訪問の列が途絶えて、美緒が自分のチューバを出して中庭に行こうとすると、三砂が「そっちじゃないの」と手招きする。見ると、一旦音出しで散っていた部員たちが、続々と音楽室に戻ってきてる。

 よくわからないままに三砂についていくと、妙な光景が広がっていた。いつもの合奏の配置……ではあるのだけど、みんな楽器はケースのままか、横に置いた格好で、でも立ち上がって何を待ってる様子。

 首を傾げている美緒に、三砂は「とりあえず今日は見学のつもりでね」と言って、隣に立っているように言う。チューバの席から二歩ほど前に動いた位置で様子を見ていると、曽田部長が入ってきた。

「じゃ、始めようか」

 そう言って、真ん中のソ、Fの音をクラリネットで出す。と、それと同じ高さで何人かが「アー」と歌いだし、少し置いてその上下のCとB♭の音で何人かが声を出し、さらにE♭、Gと広がっていく。

 五度累積のハーモニー。それをただ延ばす。一人ひとり音は別なんだけど、とにかく一つの音を長く長く歌い続ける、そういう練習らしい。

 いったいここから何の曲を歌うんだろうと観察していても、それ以上新しいことは始まらない。各人でこれという音こそ決めてあるものの、中身はただの発声練習だ。

(っていうか、これが身体共鳴の訓練ってやつ?)

 どうもそのようだった。というのも、部員たちは音程にはあんまり頓着してなくて、周りに合わせた音作りを意識してる感じもない。それよりも声を出しながら体をひねったり曲げたりして、構えと響き方の具合を自身で好きなように試してるように見える。そのうちに部員同士でフォームについて色々意見を出し合ったり、楽器を鳴らして声と同じように響くか試したり、ということを始める動きも出てきた。ただ、パートリーダーや部長たちが下々を指導して回るようなことは起きなかった。とにかく自主的に、思い思いに、他人を頼りたい人は頼って、自分だけで模索したい人は模索する、そういう練習時間らしい。

「はあい、時間いっぱいです。じゃあパート練習に移ってください」

 雪乃の合図で、みんなは楽器と楽譜を持って移動を始める。不思議な音響の中でちょっとぼうっとしていた美緒は、メンバーがあらかたいなくなってもまだ突っ立ったままだった。

「美緒ちゃん、大丈夫? まだ具合悪いの?」

 三砂が心配そうに声をかけてきて、美緒はようやく我に返った。

「あっいえ、そういうわけじゃないんですけど……なんだか、すごいなって。三日ほど来なかっただけで、全然別の練習が始まったっていうか」

「うん、まだ色々試しながらなんだけどね」

「ああいうのやっただけで、あんなにみんな音が変わっちゃうもんなんでしょうか?」

「あ、そう思う? それ、私もみんなもあんまり自覚ないんだけど。先生なんかにはそう聞こえるみたいね」

 ということは、ほんの少しずつずっと変化し続けているということか。一日一日、あるいは一時間一時間。

「でもなんか手応えみたいなのはみんな感じてるみたい。ワークショップ、やって大正解だったみたいね。みんな美緒ちゃんのおかげ」

「え、なんで私が」

「私はパートリーダー会議の時からずっと思ってたけど。今のこの流れって、美緒ちゃんがいなかったら起きてなかったことだもの。もっと胸張っていいよ」

 なんだか似たようなことを誰かにも言われた気がする。というか、さっきの練習のシーン、みんなして歌い合ってお互いを真似っこし合ってって……確かに美緒がいつかどこかでイメージした「理想のレベルアップ」の風景だったような。どこでそんなもの思い浮かべたのか、ちょっと思い出せないんだけど。

(そっか。さっきのあの音って、私が言い出しっぺだったんだ)

 と、改めて現実の因果関係に思い至ったものの、肝心の美緒はそのワークショップを受けそこねた身なんである。のみならず、半人前以下の音しか出せない、周回遅れの状態なのだ。焦りしかない。

 不意に、音楽室の入り口からどやどやと男子部員たちが現れた。

「お、来たのか加津佐。もう具合は大丈夫か?」

 何をやっていたのか、ひと仕事終えたような貴之が美緒に声をかけてきた。悠介や晶馬も一緒だ。聞けば、メンテナンスに出していたティンパニを音楽室まで運び上げるのに駆り出されていたとか。

「あの、唐津先輩、土曜日は、その……」

 ちょっと赤くなって美緒が言うと、貴之も「ああ」と言ったっきりになる。三砂はその横で、「まあっ」という顔で素敵な展開が始まるのを心待ちにしている様子。始めてたまるものか。とにかく、言うべきことを言ってしまおう。

「あ、ありがとうございました! ご迷惑かけましたっ」

「い、いや、お構いなく――」

 なんだか間の抜けた締めくくり方。でもそのまま二人とも動けないでいる。三砂はなおも目をキラキラさせたまま。困った。

「あ、声出し終わっちまったのか。ちょっとやっていこう」

 こちらの場面に全然注意を払ってなかった晶馬が、唐突に言った。ナイス、とこの時ばかりは心の中で親指を立ててやる。

 晶馬が部屋の片隅に立つと、さっきみんながやっていたようなエキササイズを一人でやり始めた。じゃあ俺も、と悠介が横に立つ。特に恥ずかしがることもせず、楽器の練習と同じようなスタンスで、じっくりと自分の体の響き方と向き合ってるような態度だ。

 何も考えてないと思った晶馬と、さして能力向上に貪欲とも見えなかった悠介が、当たり前のように新しい日課に取り組んでるのを見て、美緒は軽いショックを受けた。何なんだろう、この感じ。なんだか、すごくはっきりした差をつけられてるような気がする――。

「あの、私も教えてください」

「おう」

 ワークショップの様子はおいおい聞かせてもらうつもりだったけれど、どうも記録を見たり読んだりするだけじゃ済まない状態になってる気がした。大きなイベントを通過して、部の中はどこかしらしっかりした足がかりを得たような空気がある。よかったと思う。でも、それはまた美緒が一方的に〝お荷物化〟していく事態でもあるのだ。

 もう先週末の大きなドタバタとか小さな胸キュンシーンのことなんかどうでもいい。今は迫りくる舞台に向けて、遅れを少しでも取り戻さないと――。

 部に復帰して一時間も経たないうちに、美緒の胸はじりじりした焦燥感でいっぱいいっぱいになっていた。


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