第48話 加津佐家の事情。
目が覚めると、真っ暗だった。
リビングの方で誰かがいる気配がするから、まだ真夜中じゃない……のかな?
なんだかすごく切実な願いのような、素晴らしい目標のような、とにかくみんなの前で発表したら拍手喝采を浴びそうなすごいことを、夢の中で綴っていたような気がするんだけど、何だったんだろう? 吹部に関する話だったのは間違いないのだけど。
ひどい空腹を感じて、美緒はそれ以上思い出すのをあっさり諦めた。
部屋を出てリビングに入ると、父親と母親が二人で洗い物とか洗濯とかその他の家事をしていた。時計を見ると十時過ぎだ。
共働きで、バタバタした朝を少しでもマシなものにするため、平日はよくこの時間に二人で家事をやる。でも日曜日はいつもならそんなことしないのに……ああ、私のせい、か。
「食べるの?」
美緒を見て母が短く訊いた。返事も聞かずに、用意してあった雑炊を平べったいお椀によそう。卵と薄いニンジンとネギがほどよく散った美緒の好物が、ふわりとおいしそうな湯気を上げた。
いただきますもそこそこに飛びついた。二人が微笑ましいものでも見るように美緒を観察してるのが分かる。何となく残り物を与えてもらった野良犬の気分。でも野良犬のために温かいお鍋をずっと用意して待ってる人たちって、お話の中じゃ文句なしの善人キャラだろう。
顔を上げて、ふと気がついた。
「理緒ちゃんは?」
「もう寝てるよ。昨日はあまり寝てないから」
返事した父親に、どういうこと、と視線で問いかける。
「お前を看てたんだ。いつ目を覚まして、どんなふうになるとも分からなかったから」
「まあ交代で看てたから、徹夜したわけじゃないけど」
大したことじゃなかったのよ、と言うように、母親が付け足す。それはもう
「美緒も聞いたことあるでしょ? ママのママはね、ビートルズの日本コンサートで、始まった途端に興奮し過ぎで失神した、お騒がせな女の子たちの一人だったって。あんたのそれ、血筋なのよ」
「だから、まあ美緒のこれも、すぐに目が覚めるよって笑いながら言ってくれたんだけどな」
多分、電話か何かで、おばあちゃんとそういう会話をしたのは本当なんだろう。でも、そう冗談を言いつつ、普通以上に〝最悪〟のことを考えて、黙々とそれに備える、そういう両親だ。
そもそも、ロックスターにのぼせ上がってひっくり返った話と一緒にしないでほしい。ってその前に、ママとのケンカ、終わらせたつもりはないんだけど……こんなふうになっちゃったら、ちょっともう強がるのは難しい、のかな。
「熱は?」
言われて計ってみたら、七度六分あった。そう言えば少し熱っぽい。
「明日は無理しないで寝てなさい」
「……このぐらい、大丈――」
急に咳が出た。そう言えば少しのどがいがらっぽい。ショック状態だったところに、風邪のウイルスがつけこんできやがったんだろうか?
いっぺんに怖い顔になって、明日一日寝てなさい、と命令する両親に、起きてみないと分からないじゃない、と言い張って、風邪薬を飲んでその場は引っ込んだ。なんでも、おばあちゃんも武道館から帰った後は何日間か熱を出して寝込んだとのことだ。それだけ心の負担って体に来るもんなのよ、と言い張る母親の声は、でもただうるさいとしか思えない。くさくさした気分でベッドに戻った美緒は、やっぱり仲直りなんかできないっと、反抗の気持ちを新たにしたんであった。
翌朝。風邪は見事に悪化していた。もう情動性何とかの方は心配なさそうだけど、はっきりと体調不良が別のステージに移ってしまっていた。
「とにかく寝てなさい。夕方まで大人しくしてるんだぞ」
母より少し出勤が遅い父が、学校に連絡を入れながら言った。何度も咳き込みながら、美緒はただ頷いた。こんなふうになったら、白旗しかない。
誰もいなくなったんで、ベッドに横になってテッさんからもらったテープを聴いていた。これだけで一日過ごすのもいいな、と最初は思ったものの、横になったらやっぱりウトウトとしてしまって、テープは一本分も聞けなかった。しばらくは何度も咳で目が覚めたけれど、そのうち風邪薬が効いてきたらしく、昼過ぎまでぐっすり眠った。
ふと、電話の音を聞いたような気がして、美緒は目を覚ました。時計を見ると三時半。まだみんなが帰ってくる時刻じゃない。
何か食べておこうかとキッチンに出ると、テーブルの真ん中に家族共用のノートパソコンが使いかけのような状態で置いてある。タッチパッドに触れるとすぐにスリープから復帰して、ブラウザが立ち上がった画面が現れる。朝、誰かが使ったままほったらかしていったのかな?
その時になって美緒はようやく気づいた。
(考えてみたら、今ってこのパソコンで音楽聴き放題じゃんっ)
嬉々として腰かけて、ブラウザのブックマークメニューをクリックする。動画サイトへのリンクぐらいあるだろうと期待して。
見ると、ブックマークの一覧の下に「MIO」という名前のグループがあった。もちろん美緒が作ったものじゃない。中学校関係のリンクでも母親がまとめたのかな、と深く考えずに開いてみる。
現れたものを見て、絶句した。
「ぬいぐるみのお風呂屋さん」「大きなぬいぐるみをまるごと洗濯!」「ぬいぐるみ 修理と洗濯」「クマのぬいぐるみ なんでも相談室」。
これは……マックスだ。全部マックスのための……マックスをきれいにして〝粗大ゴミ〟じゃなくするための情報。
去年のクリマスマ直前に、突然ママがクリーンセンター送りにした、美緒の大親友だった等身大のぬいぐるみ、マックス。そのマックスを不意打ちのように奪われて、以来ずっと美緒はママを許せないままでいる。のに、こんなサイトのリンクがあるって、いったい……?
サイト名の一つをクリックしてみる。大きなぬいぐるみをいかに丁寧に洗ってキラキラにしてみせるか、その業者の仕事ぶりが写真入りで事細かに書かれている。でも、ずっと下のわかりにくいところにある料金一覧を見て、美緒はため息をついた。送料も合わせたら、気楽に手が出せる金額じゃない。はたと気がついた。ママもこうやって、ここのページを見ながらため息をついてたんだろうか?
少なくともママは最初からマックスを捨てるつもりじゃなかった。何とか美緒を悲しませないで済むように、多分ギリギリまで色々調べてたに違いない。それでも、結局捨てるしかないって決心した。どうして? あの十二月のタイミングでそうしなきゃならなくなった理由って何だったの?
不意に電話が鳴った。携帯番号からの発信であるのを確認して、美緒は受話器を取った。
「もしもし、加津佐です」
『恐れ入ります、昨日お邪魔した藤房と申しますが』
「あ、昨日はありがとうございました」
キーボードの女医さんである。しばらく先方は美緒本人が電話に出ていることに気づかず、気づいてからは例によって「その落ち着いた応対ぶり、中学生とは思えない」ネタでしばらく話が伸び、ようやく本題に入った。
『いやあ、あたしもちょっとテンパってたんで押しかけ往診なんかやっちゃったけどさ、調べてみたらそちらの理緒ちゃん、市民病院の磯崎先生がかかりつけになってるんだって?』
「はい? 姉が?」
『あ、美緒ちゃんは詳しく聞いてないのかな? お姉さん、小学校の中頃にしばらく喘息だったでしょ?』
いきなり正面からの突風にさらされたような衝撃。その瞬間、これまでずっとつながりそうでつながらなかったいくつもの記憶が、次々に音を立てて一直線に並んでいくような気がした。
『その時から先生がずっと担当になってるって。今も時々通ってるって聞いたよ。去年の冬とか』
「それって、十二月頃――」
『ああ、そうかな? あたしはそのへん、お母さんから聞いただけなんだけどね。まあ何が言いたいかって、もし美緒ちゃんのその咳、気になるようだったら、姉妹で体質なんかも似てるだろうから、磯崎先生んとこに行ったらいいよって話。私に義理立てして無理にこっちの病院に来なくてもいいから。なんか、お母さん、そういうとこに気を遣いそうだったんで。うん、美緒ちゃん本人に話せたのならよかったわ。じゃあそういうことですんで。お大事に』
しばらく美緒はぼんやり突っ立ったままだった。二十分ぐらい経った頃だろうか、玄関が開いて母親の帰ってきた音がした。せかせかとリビングに入ってきて、美緒の姿を認めるとぎょっと足を止めた。
「何してんの、寝てなさい! まだ悪いんでしょ?」
「ママ……なんで? 仕事は?」
「……今日は早引け。あんたも休んでるし……咳なんかしてるから」
「私のこれは喘息じゃないよ」
つまらなそうに言う美緒の言葉に、母親が息を呑んだ。美緒は落ち着いた動作でテーブルの前に座り、パソコンの画面をいじりながら、
「そう言えばさ、マックスって、あれ、もともと理緒ちゃんのものだったんだよね?」
「……あんた、憶えてたの、そんなこと?」
「少しね。そう言えばそんな時もあったなって。私と理緒ちゃんが一緒にマックスと遊んでるって場面」
適当に聞き流す振りで、母親は一旦洗面所に行って、それからキッチンで夕食の段取りを始める。ちょっとだけ言い淀んだ美緒は、それでもその質問を母親に投げかけた。
「去年の十二月、理緒ちゃんの帰りが何回か遅かったことがあったのって、市民病院に行ってたんだよね?」
母親が動きを止めて、そのままじっと立ち尽くした。
「あの時期にぬいぐるみを捨てたのって、理緒ちゃんの喘息が再発してたから?」
少しの間、二人は瞬きもせずに見つめ合った。
「……そう。それがいちばん大きな理由」
美緒は一つ頷いただけだった。黙ったままの娘に、母親はなおも突っぱねるように、
「決めたのはママだから。理緒は何も言ってない」
「…………」
「それに、前から言ってたでしょ? ああいうのと遊ぶのは小学生まで。元々ママは春までに処分するつもりで――」
「嘘つき」
「何が?」
「マックスを捨てるつもりだったんなら――」
くるっとノートを反対向けて、母親にブックマークだらけの画面を見せつける。
「こんなサイト、いくつもいくつも調べるはずないじゃないっ!」
急に緊張を解いたように、母親がすとっとテーブルの反対側に腰を下ろした。頬をなで、口の端を指で掻いて、ぼそっと言う。
「バレたか」
「バレたか、じゃないよっ。なんでっ? なんでもっとちゃんと話をしてくれなかったのっ? ママ一人悪者の振りして、私を駄々っ子扱いして」
「駄々っ子だったじゃん、美緒は」
「でも私はっ!」
全部分かってる。ママは美緒を本気で怒らせないといけなかった。ママを憎ませないといけなかった。そうしないと、美緒は、マックスを悪者だと思わなきゃならなくなってしまうから。でも、多分そんなことはできない。美緒は何も悪くないマックスの処分を認めざるを得なくなって、ママのせいにもできなくて、混乱して、最悪、心を閉ざしてしまったかも知れない。
もちろん、今の美緒はそんなことない。でも、理緒が喘息であることすら、無意識に気づかないふりをしていた半年前の美緒は、子供の逆恨みでいちばんの悪者が理緒だと思ってしまったかも知れない。実は今でも、心のどこかにそういう意識はある。けれど、今はそういう自分を、さらにもう一歩横から見ることができる。
仕方なかったことなんだ。ママの行動も。理緒が、マックスを守ってくれなかったことも。パパが、この件に徹底して無関心に見えたことも。
突然マックスとお別れすることになって、それでもポジティブな思い出だけが美緒の胸に残るようにしてやるためには。
全部仕方がなかった。みんな正しい。でも。
「私は……ママと、こんなに長く……ケンカなんか」
ちょっと油断したら泣き出してしまいそうだ。これもわかっている。加津佐家は号泣系のホームドラマなんてやらない。お芝居みたいなセリフもご法度だ。今のこの状況はレッドカードすれすれだ。なのに。
一度リビングから出た母親が、何かを持って美緒の手に握らせた。ひと目見て、美緒の体は激しくわなないた。
「あんたが、もういいよって言ってくれるか、マックスから卒業できたら渡そうと思ってたんだけど。二つともクリアしたから、いいよね。大事に持っときなさい」
黒いつやつやした二つの大きなボタン。マックスの目。マックスの形見。
これは反則だと思った。
だから、もう我慢しなかった。
形見のボタンを固く握りしめたまま、美緒は母親に抱きついて、大声で泣いた。もうずっと前にそうしたように、母親はただ美緒の背中をこんこんと叩くばかりだった。歌うような含み笑いで、母親が小さく呟いているのが聞こえる。
――こういうところはまだまだ美緒は子供だねー。
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