第47話 その曲の名は。
どこかから楽しそうな音楽が聞こえてくる。
虹のかかった山向こうで、あるいは星々の輝く銀河の真ん中で、たくさんの楽器を持ったたくさんのマックスが、たっぷりしたハーモニーのハッピーな響きを、宇宙いっぱいに吹き鳴らしている。
ああ、もちろん曲は知ってる。「音楽祭のプレリュード」。私はこの曲のトランペットを担当して……ほら、指だって憶えてる。ここの音は……あれ? なんだかメロディーじゃない音になってるような……だってここって長い全音符で……とっても深くて暖かい音を出す……ところ……
「お、目が覚めたね」
声が聞こえて、美緒は枕の上の頭を振り向けた。端嶋先生が口元を優しくほころばせて、でも目元はとても心配そうに美緒を見つめていた。
「嘘、ほんとに目ぇ覚ましたよ」
「ううむ、また一つ伝説が増えた……」
先生の背後から野次馬のような声が聞こえる。姉の理緒と芽衣ちゃんだ。あれ、いつの間に芽衣ちゃんが遊びに来てたんだろう?
「じゃあ、これは止めるよ」
美緒の机の上のラジカセに手を伸ばし、丁寧につまみを回してフェイドアウトしてから、パチンと停止ボタンを押す。「音プレ」はDの途中で演奏中止になった。
「……なんで先生が私の部屋で暮らしてるんですか?」
何となく口をついて出た言葉に、カセットテープを取り出していた先生が、困った顔で美緒を見る。でもすぐに後ろの二人がフォローの声を上げた。
「あ、それいつものことですから」
「美緒は年中寝ぼけてるんで」
部屋に入りきれないんで、二人は廊下から様子を覗き込んでる形だ。
「何よぉ、寝ぼけてなんか……」
そう言って何となく枕元の時計を取り、目の前に持ってくる。夕方っぽい窓からの光の中、表示の日付と時刻をしばらく眺めていた美緒は、突然がばっと跳ね起きて大声を上げた。
「今日の練習! わ、ワークショップは!?」
いきなり眼鏡の若い女の人が現れ、「ちょっと失礼」と言って先生と入れ替わるようにベッドの美緒の前にしゃがみこんだ。聴診器を取り出して、美緒の喉元の心音を聞いたり目に光を当てたりしてから、いくつか美緒に尋ねかける。
「名前は言える?」
「加津佐美緒」
「年齢は?」
「十二歳。あのっ」
「誕生日は分かる?」
「一月二十一日です。すみません、もう私正常です! 全部思い出しましたから!」
「手続きってものがあるの。通っている中学校の名前は?」
「樫宮市立樫宮中学校ですっ。ってゆーか、これって往診ですか? うち、そんなお金ないんです! どうぞお引取りをっ。ここまでの分は分割で払いますのでっ!」
「ちょっと美緒っ、あんた、なんて失礼なことを」
戸口から理緒が母親みたいなことを言う。お医者さんらしい女の人は、ふふっと笑い声を漏らして、眼鏡を外しながら言った。
「じゃあもう一つだけ。私とどんな話をしたか、憶えている限りのことを言いなさい」
素顔がキツめのその女の人は、よく見ると市吹のキーボードのお姉さんだった。美緒はちょっと唖然としてから、金曜日と土曜日の出来事を記憶にあるだけ語った。
「大変結構。見当識障害もなし。まあ、睡眠不足と一時的な情動性ショックでしょう。数日間は要経過観察。何もなければ普通に過ごしてていいです。でも、これからしばらくは発熱とかがあるかも知れないって話だから、体調には気をつけてね。以上」
そう言ってさっさと帰り支度を始める。
「え? え? あの、代金は」
「私は通りすがりの内科医なんで、たまたま倒れてた子供の応急処置を善意でしただけ。ファンになってくれるんなら、賛助金はこちらまで」
そう言って病院の名前が入った名刺を美緒に差し出した。「内科医
「じゃね。また中学校で会いましょう」
フリギアンモードのフラメンコギターがBGMに聞こえてきそうな颯爽した立ち去り方に、芽衣がうっとりして、
「かっこいいなー。キーボード弾けて、流しのお医者さんやってるなんて」
「ちゃんと病院務めだよ。まあ、あの子も一応責任感じてたみたいだから」
端嶋先生が補足した。どうも先生の教え子だったらしい。
「であの、ワークショップは――」
「無事終わったよ。おかげさまで大盛況で」
何がおかげさまなのか分からないけれど、美緒としては丸々欠席する形になって断腸の思いである。ほとんど二十四時間眠り込んでいたなんて!
「で、あの……私はどうなってたんですか?」
「曲を聞いて放心状態になったあたりは憶えてる?」
「はい」
「音楽の中身は?」
「憶えてます。……全部」
「じゃあその後に唐津クンが君を抱っこしたことは?」
「……嘘ですよね、それ」
「ああ、じゃあそのへんから話そうか」
「えええっ、マジ!?」
端嶋先生と芽衣の説明によると。
三年生の教室で誰かが音楽を鳴らしていることは、何人もの部員が気づいていた。意識して耳を傾けていた者も多かったようだ。
その中で貴之だけが、何か虫の知らせと言うか、直感的にマズイ事態を感じ取ったのだという。
美緒がその場にいることまでは貴之は知らされていなかったのだけど、なぜだかもろに悪い巡り合わせになっている気がしたそうだ。
駆けつけると、果たして美緒がいた。曲はもう終わり近くで、今さら聴くなとも言えないので、仕方なく音源が終わるのを待った。見たところ、号泣してるようでもないし、体を震わせているようにも見えない。その録音はこの後輩には刺激が強すぎるのでは、と危惧したのだけど、思い過ごしだったかな、と少しホッとしたりもした。
けれども、全然そういうことではなかったんである。それどころか、予想のはるか彼方の事態になった。
音楽が終わっても、美緒は目を開けたまま、ほとんど動かなかった。しばらくは一応返事もしたし、手を引けば歩きもした。それが、何分かしたらまるで無反応になって、階段も下りられなくなり、しようがないから貴之は美緒をお姫様だっこして一階まで降りたんだそうだ。
事情を聞いた市吹の人たちも、それはマズイ、ということになって、自宅まで自動車で送り届けてくれた。キーボードの女医さんは人一倍責任を感じたようで、端嶋先生と美緒の両親にも会って、回復するまで私がお世話します、とまで言ってくれたんだそうだ。
「そのまんま加津佐さんが何年も眠り姫やってたら、どうするつもりだったんだろうねえ」
そう冷やかすように言う端嶋先生の顔は、でも教え子の自慢話をしてるようにしか見えなかった。
「あたしは、美緒のことだから口の中にチロル入れたら目を覚ますって言ったんだけどね」
お気楽な口ぶりの芽衣に、端嶋先生もすっかりいつもの調子で、
「これがだめだったらそれを試そうと思っていたよ」
カセットテープを手にしてやり返す。
他愛のないジョークを言い合っているようで、でもそれが大きな安堵の裏返しであることぐらい、美緒にもよく分かった。
とにかく、冗談ごとでなくお騒がせしてしまった。これはもう、菓子折り三つ四つ配るぐらいじゃ済まないような……私、これからどうしたらいいんだろう。
「気にしなくても、君はゆっくり休んで、また元気に顔を出してくれたらそれでいい」
美緒の心の裡を読んだように、先生が語りかけた。
「でも、先生もわざわざ……あれ、ワークショップ、いつ終わったんですか? なんだか長い間……」
「気にしないでいい。音楽で眠りについた女の子を、音楽で目覚めさせたなんていう、世にも不思議な現場を目の当たりにできたからね。それで満足さ」
「…………」
「あの藤房君も、いい論文のネタができたって喜んでたし」
「はあ」
案外そういうもんなのかも知れない。
「そう言えば、小隈先生がよろしくって言ってたよ。『ディエス』の仇を『音プレ』で返したな、だってさ」
「……ああ」
議論でやり込められたのを多少はお返しした形になったらしい。芽衣も、仇と言えば、と前置きして、
「能田先輩が美緒のこと誉めてた。でかした、だってさ」
「何の話だい、それは?」
「いえ、その」
中学生同士のバカ話ネタに口ごもっていると、キッチンで水仕事をしていたらしい理緒が顔を出した。
「あ、先生、何か召し上がりますか? 紅茶でよかったら」
先生はいやいや、と片手を挙げて、
「お構いなく。本人も目を覚ましたし、そろそろお暇します」
「あたしもそろそろ帰ります。じゃあね、美緒ちゃん。ラインには眠り姫が復活したって書き込んでおくから」
またどんな書き方をするつもりなのか。ジト目で芽衣を睨んでいると、不意に玄関の開く音がして、理緒がそちらへ駆けつける足音がする。
「おかえり。美緒、目ぇ覚ましたよ」
パパとママだ。買い物袋の音。なんでこんなタイミングで……ああそうか。いつもなら日曜の午前中に買い出しに出るのに、私がこんなことになったから、行けなかったんだ。それで夕方になって先生とお医者さんが来て、ならこの間に……てことかな? 多分。
理緒ちゃんもたしか日曜いっぱいまで友達の家にお泊りしてる予定だったと思うんだけど……。いつ戻ったの? やっぱり昨日の夜?
(みんな、心配させたよね、やっぱり――)
帰るところだった先生は、一旦リビングに引き戻されて、芽衣はそのまま帰ったようだ。父親と母親が一度ベッド脇までやってくる。短いやり取りを少ししただけで、急にまた眠気がやってきた。あれだけ寝たのに、まだ体は休み足りないようだ。
大人たちの会話を遠くに聞きながら、美緒は再び横になった。ちょっと体が火照り気味だ。寝入りばなに、ふと、さっきの会話の中身に思いを馳せる。
(先生も芽衣ちゃんも、あの曲のことは最後まで何も言わなかったな)
少しでも刺激しない方がいいと気を遣ってくれたのかな? そう、実は今でも思い出すと少し震えが来る。
その音楽に身を晒しただけで意識ごと取り込まれそうな、恐ろしい曲。でも――もし今年の自由曲があの曲だったら、私はどうなっていただろう? それこそ肺気胸になりそうなほど、毎日懸命に音を出していただろう。「音プレ」なんかとは全く異質な響きの作り方に四苦八苦して。
でも、きっと夢中になって。
あの曲――「マスク」に。
フランシス・マクベス作曲、「マスク Masque」。
仮面劇だか仮面舞踏会だかのイメージで書いた曲ということだけど、そのコメントから連想されるような、上流階級の妖しげで華やかなイベント、なんて感じの曲では、全然ない。
急・緩・急の三部形式で、その急の部分では一小節きりの十六分音符の同一リズムパターンがずっと、ずっと、ずーっと続く。パーカッションを総動員するだけで足りず、しまいには木管にも金管にもリズムを割り当てて。
まあそれだけなら「そういう曲はよくある」で済むのだけど。
この曲が独特なのは、そのメロディー。旋律と言うよりはモチーフと呼ぶべき短いパッセージの連続で、しかもその大半がユニゾンなのだ。おまけにマイナー調。
何が言いたいんだか分からない音型が、ほとんどトゥッティのようなフォルテシモの単音旋律で続くのを聞いてると、なんだか恫喝されてるような気分にまでなる。
でもそういう、「叫び」だか「訴え」だかよくわからないけど、そんな不器用な表現そのものがこの音楽なんだと分かってくると、いっぺんに心を鷲掴みにされるほどの、すごい吸引力がある。
――と、「マスク」のことをそんなふうに美緒が言葉で表現できるようになるのは、もちろんずっと先のことだ。
その時の美緒は、脳裏に焼き付けられたその音楽の、漠然とした特徴こそイメージできるものの、まだ自分が聞いたものが何なのか、何に打ちのめされているのかさえ、ろくに把握していなかった。
ただ一つ、美緒が強く感じたこと、それは。
あの曲はずっと走り続けている音楽なんだな、ということ。
走り続ける、というのは少し違うかも知れない。ずっと終わらない。ずっと閉じない。
あるいはずっと完成することのない。
スコアの端から端まで、ひたすら、もっと、もっとと言い続けている、そんな音楽なような気がする。もっと力強く、もっと速く、もっと壮大に、もっと完璧に。それは多分、曲が終わってもいつまでも。
だから、一回のステージにありったけの思いを込める中学生バンドなんかじゃ、演奏してる部員みんなが魂ごと魅入られてしまって――その底なしの感覚が、あのステージに立っていた者をいつまでも侵食し続けているんだと。
それともしかして、と美緒はこんなことも考える。樫宮の場合、去年の夏前に貴之を中心に広がった「響きのレベル上げ」騒ぎが、よくも悪くも事態を極端なものにしたのかも知れない、と。演奏改革に批判的な三年生が何人も抜けて、コンクール当日は想定外なほど著しく大化けしたサウンドになっていたはずなのだ。そして、そのことを部員たち自身で体感したのは、本番の舞台の上だったのかも。
そんな事情や、一発勝負の緊張感も相俟って、情念の塊のような「マスク」の音楽は、演奏者達の魂をとんでもないところまで連れて行ってしまったんじゃないだろうか。今なおその記憶を振り返り続けずにはいられないような、凄まじい印象を部員一人一人に刻印したほどの。
(終わらせなきゃ)
それは桐香のぼやきだったか、悠介の述懐だったか、貴之の呟きだったか。
でも、今はもう、美緒の言葉だ。
火事場の馬鹿力だかなんだか知らないけど、ほとんどはずみで足を踏み入れてしまった偶然のような名演、その強烈な演奏体験。
それがいつまでも先輩たちを負の方向に引っ張り続けるのなら、終わらせなければならない。
「音プレ」ならできる。あれは始まりの音楽だから。
新しい始まりを高らかに祝福する曲なんだから。
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