第46話 そして彼方へ。

 あたふたと原稿をかき集めて急いで広げたら、一枚目じゃない。あれ? あれ? とみっともなく紙をめくっていると、多分錯覚なんだろうけど、目の前の人たちからとてつもない圧迫光線を浴びせかけられてるような気がする。

 やっとのことで一枚目を発見。食らいつくように読み始めた。

「え、ええと、その……この曲は三部形式で」

 たったそれだけで音楽室中にがっかり感が立ち込めたような気がした。苦し紛れに超初歩的な解説文を棒読みしてると思われたのか。一応これ、原稿通りなんだけどな。

「AからCが前段、DからFが中間、Gから終わりまでが後段に分けられます。なんでそうなるかと言うと、複縦線で区切りが入って、前段と後段は変ロ長調、中間がヘ長調に表記が変わっているからです――」

 原稿を手に持って読み上げてるのがダメなんだろうか? どうもみんな、はっきりと美緒に入れ替わってから注意がそれてる感じがする。ちょっと癪な気がしたんで、話を端折ることにした。

「それで、ですね。……みなさん、それぞれの楽譜のCを見てもらえますか? 一小節目と三小節目です」

 ん? とみんなそこは素直に顔を上げて、自分の譜面立てに視線を移す。

「自分の音がどんな音かは、みんなよく分かってると思いますけど……そこの部分、実はほぼ全員が全く同じリズムを吹くところです。パーカッション以外、ピッコロからチューバまで、十六分音符のところまでピッタリおんなじリズムなんです」

 思ったよりも反応が鈍い。だからそれが? というように首を傾げる輩がほとんどだ。美緒はちょっと自信がなくなってきた。

「あの、スコアを見たことがある人は気づいてるはずです。この曲、全員がリズムを合わせるなんてこと、ほとんどないんです! でもここは違います。それも、ただの偶然にしては妙に細かいリズムで、しかもアクセントなんかが一つ一つについてるし、これはきっと、リードさんが何かを主張したいんだろうなって私は思いました!」

 あ、リード「さん」なんて言っちゃった。それも、小学校の班発表みたいな言葉遣いにっ。

 案の定、くすくす笑う声がする。もうこうなったら、さっさと終わらせよう。

「んんと、同じようなことがFの後半にもあって、Fの七小節目と九小節目、Gからだと七小節前と五小節前、この部分も、ほぼ全員が全く同じリズムです。あの、チューバ吹いてる立場から言いますけど、これってちょっと不自然……というか、変わってることなんです。こういう音の時って、バスだけは四分音符の拍打ちになるとかが普通だと思うんですけど」

 不自然かどうかが断言できるほど、美緒は長い期間チューバを吹いたわけでもない。よけいなツッコミを喰らう前に、急いで続きを口にする。

「それで、今言った二箇所は、三部構成の変わり目の少し前に出てきてます。こういう、みんなで同じリズムを吹くようなことをしてあと何小節かあってから、音楽が大きく切り替わる、ということが起きてます。これはつまり……」

 あれ、なんか抜かしたっけ? これだと、もう話が終わりそうな気がするんだけど。

「ええと、私の感じだと、みんなが一斉に何か同じセリフを叫んでいるような気がするんです。多分、Cのところは『これはダメだっ』で、Fのところは『これで行こうっ』みたいな……。ですんで、ええと」

 あ、やっぱり真ん中に何かが入るんだった。原稿どこだ?

「なるほど。で、そういうセリフを全体に渡って考えたのが、このシナリオってこと?」

 急に宝寺丸法子が発言したんで、美緒は思わず動きを止めた。二、三枚のA4の紙を重ね合わせて片手に掲げた法子が、美緒の返事を待っている。

 何のことを言っているのか分からなかったので、バリサクの席まで行って現物を見せてもらった。不思議な気分でそれを手に取った美緒は、しかし。

 一行見て石化してしまったんである。

「あ、ほんとだ、シナリオになってる」

「かわいいねー、こういうの。幼稚園の時にやらなかった?」

「児童劇ってやつか……」

「いや、これは、しかし」

 にわかにざわついた教室の中で、美緒は倒れそうになるのを必死で我慢した。疑う余地はない。それはまさしく、美緒が昨晩夜なべして書いたシナリオの試作版。なんでこれが。確か机の上に……いや、いつの間にか他の資料原稿に紛れ込んで?

 つい悲愴な表情で端嶋先生の方を振り返る。え、何か? みたいな顔で返された。ああ。

 今さら何を考えても仕方ない。すでに人数分コピーされて、バラまかれた後である。ざっと教室を見回すと、クラパートの面々はやたらと複雑そうな表情だし、ペットとかホルンあたりもなんだか難しい顔をしている。分かっちゃいたけど、ここしばらくの部内じゃ、「シナリオ式の解釈」は禁句扱いみたいになってたのだ。よし、だったら、間違いでしたっつってさっさと引っ込めても――

「あの、すみません、このコピーですけど、私ちょっと原稿を」

「この最初のトランペット、」

 クラリネットの二年生がつっかかるように声を上げたんで、美緒はぎくっと振り返った。この人は、確か美緒を面と向かって生意気とか罵ってた人だったような。

「セリフが書いてあるんだけど、『みんな、始めようぜ、〇〇〇を!』って。ここ空欄になってるのは、なんで?」

「あ、それは、思いつかなかったんですっ」

 胡乱な目で二年生が美緒を見つめる。よしよし、このままキレてもらおうと、美緒は正直に裏事情を話した。

「『音楽祭』とかにしてもよかったんですけど、違うような気もして。結局、演奏する人が思い思いに考えればいいよね、とか思っちゃって。それに、ここは言葉決めなくても関係ないし」

「関係ない? なんで?」

「だって、最後まで始まらないから。最後の最後に何かが始まる、そういう曲だと……あ、すみません、それもこのシナリオでは、ですけど」

「…………」

「ほんと、テキトーに書きまくって、つじつま合わせただけなんで、あの、なんでしたら」

「それは、いいな」

「はい?」

 二年生が顔を上げて、クリッとした目でまともに美緒を見た。あれ、こんなにさっぱりした顔の人だったっけ、と美緒はわずかな刹那、戸惑った。

「あっしは気に入ったっス。このシナリオは使える。あっしは支持します」

 クロレラ(純生)を飲んだような顔で、美緒はその場で硬直した。何を聞いた? 今このネーちゃん、何を私に言いやがった?

「Eの後半、これはなんじゃい?」

 すぐ前から桐香がねめつけるような目で美緒を見上げていた。おお、今度こそダメ出ししてもらおう、と美緒は期待した。ちょっと怖いけど。

「これも空欄ばかりやが。『だって〇〇〇なんだから』って、ここは何が言いたいんじゃ?」

「これは、その……Eの最初の四小節って、この曲のメインテーマですよね?」

「そうじゃな」

「で、その主題はDにも出てきてて、Bの後半にも、Aにも……あと、これ私の意見なんですけど、よく見ると最初のファンファーレから提示されているのがわかる……と思うんです」

「ほう?」

「でも、そんなふうにしつこく何回も出てくるその主題って、その続きがないか、あってもちゃんと終わってないんです。短い一言を、ぽそっと口にしたような感じで。けど、ここのEは……ええと、パ、パワーコードって言うんですか? 何かを言い切った形になってて。つまりここは、中身はなんでもいいんですけど、多分今まで言わなかったことがやっと言えたんだなと」

「ふん……」

「だからFから先、やたらとトランペットが明るく切り替えてるんじゃないかな、とも思ったり……あの、変な解釈、ですよね?」

「いや……」

 そのまま黙り込んでしまった。しばらく美緒は待っていたけど、桐香はもうそれっきりだった。少し間が空いて、今度は全然聞いたことのない声が美緒を呼んだ。

「Gのティンパニとバスパートって」

 誰が喋っているのかを確認した美緒は、唖然とした。周りの部員も驚嘆の目を向けている。

 パーカッションパートリーダー、伊軒睦海が声を出してる! 初めて聞いた! だって、声を知ってる部員って、確か数人しかいないって――

「ひとまとめの扱いで、『さあ、このまま最後までっ』ってセリフが入ってるのは、どういう意味? 最後までって?」

「そ、そこはっ」

 フルスコアを引っ張り出して開いた。そこは丸々慶奈に教わったところだ。本人の前で、間抜けな返し方はできない。

「ティンパニもバスパートも、GってずーっとFの音ばかりなんです。変ロ長調のソの音です」

「うん」

「和音っていうのは」

 そこで美緒はピアノの前に行って、フタを開けてほとんど唯一演奏できる音楽を弾いた。ターン、ターン、ターン。おじぎの音楽。「起立、礼、着席」である。さらにもう一度、「礼、着席」の部分だけ強めに弾いた。

「こんなふうに、バスがソだと、次はドの音が来ないと話にならないんです。仮にどんだけソの音を引き伸ばしても」

「礼」の部分だけをながーく延ばしてみる。それから「着席」。

「やっぱりドで終わらないと。で、Gの部分いっぱいにソの音が続いているのは、そういうことです。ここは徹底的に、最後に来るドを引っ張りまくってるところなんです。逆に言うと、ここにソが入ったって言うことは、もうドに行き着くことは分かりきってるんです。えっと、私よく意味分かんないんですけど、つまり『リーチのかかってる状態』ってことらしくて」

「うん」

「Gって後段に入ったばかりのところです。でも、もうすでにゴールを見てるんです。Gのバスの音は、ハッピーエンドを予言しているようなもんで」

 あ、またなんか変なこと口走っちゃった。なのに、睦海は小さな目ではっしと美緒を捉えながら、

「じゃあこのGのところって、オルガンの音みたいに超長い音をイメージした方がいいのかな? あんまりリズムは出さないで?」

 とうとう演奏の中身にまで踏み込んだ質問が飛んできた。なぜだか部員たちが微妙に身構えたような気配が部屋に満ちる。でも、美緒は迷わず答えた。

「いいえ、GからはAlla Marciaアラ・マルツィア、行進曲風に、です。ここははっきりとマーチになってないとダメだと思います。ここからHの頭まで、本当の主役はパーカッションですっ」

 言ってからハッとする。こういうのって、指揮者が決めることだよね? そっと端嶋先生を見ると、なんだか苦笑いしてるようなヌルく見逃してるような、なんとも言えない顔。でも、睦海は満足したように大きく頷いて、微笑んだ。

 後ろに控えている慶奈はさっきから何も言わない。何か色々ボロが出てるんじゃ? って言うか、私、このシナリオさっさと回収したいんだけど。

「ごめん、こちらからもいいかな?」

 しまいに、市吹のスケさんまで手を挙げて参加してきた。半ば引きつった笑みで、「どうぞ」と片手を差し出す。

「今の話だと、Hに入ったところで曲が終わってしまうんだけど、そこはどう解釈してるの?」

 ほんとに質問してるだろうか? それとも分かってて美緒を試してるんだろうか?

 たまりかねて慶奈を振り返る。こういう話はこの人の方が絶対うまい。そもそもこの辺の筋道を理論だてて美緒に説明してくれたのは、慶奈自身だ。

 なのに本人は、自分の役割はそっちじゃないと思ったらしく、

「あ、じゃあ私が弾くから、説明してやって」

 そう言い置いて、Gの後半からをピアノで鳴らし始めた。金管のハーモニーを主体に、バスの音を強調気味にし、Hに入った途端、主和音を長々と鳴らして、無理やり終わった形を実演してみせる。ほら、と慶奈が美緒に顎をしゃくった。美緒はふうっと息を吐いて、

「……ええと、聞いたらいやでも分かると思いますけれど、これじゃ終われません。Gの部分いっぱいいっぱい、十七小節、ずっとソの音を続けてきたんです。それだけ引っ張ったのを、ドミソの和音一つで終わるわけがないんです。だからこの後に何回も何回も終わりのやり直しをしてます。Hの部分全体で、そういうことをやってるんです」

「やり直し、と言うと?」

「ファンファーレがまた来ます。最初、トランペットとトロンボーンが失敗した、その呼びかけをもう一度。つまり」

 美緒が振り返るより早く、慶奈がHの続きをピアノで鳴らす。花火がポンポン上がるような、三連符が積み重なっていくフレーズの五小節目で一旦止めた。

「こういうふうに。でも、これでもまだ終われません。バスはソの音で止まってます」

 もう二小節弾き進める。やはり行き着いたのは同じ形の和音。

「まだ終われません。で、いっぱいいっぱいになってどうするのかって言うと、メインテーマが出てくるんです。これこそがファイナルアンサー、みたいな感じで」

 さらに二小節。金管のコラールを、慶奈は両手いっぱいの和音でたっぷりと鳴らしてみせた。

「ここでやっとバスがドの音に落ちます。でもまだ足りません。こんな中途半端な形だけの提示じゃ終われないんです。だから」

 続きの二小節、コラールの最高音が上のドに届いて、ようやくクライマックスを形作る。

「木管とペットがやっと最後の音に行き着きます。けど、なんかまだもうひと押し足りない。それでどうするのかと言うと」

 慶奈が右手で高音の主和音をペダルで延ばしたままで、中音域とバスでIVの和音をダーンと鳴らし、それから最終のトニックをがつんと叩いた。

「IV、Iのコード進行、これ、賛美歌ですね。賛美歌の最後に『アーメン』って歌うところの、お約束になってる和音進行があるんですけど、こういうのをアーメン終止って言います。これでようやく、やっと終わりです。最後の終わりのHの部分は、こんなふうに二重に終止形を鳴らしたりして、いくつもいくつも終わりのパターンを重ねているんです」

「でもなんでそこまでバタバタした終わり方にしてるのかな?」

「それは」

 締めの一言ぐらい、慶奈に譲りたい気がした。と言うか、代わりに言ってほしいと思った。今やってるこれは、二人で資料と音源を前にしながらやり取りした時の会話をそのまんま喋っているだけだ。けど慶奈は、そういう気恥ずかしい言葉は美緒ちゃんが言って、というように、手で繰り返し促すばかりだ。

「……みんな揃ってちゃんと納得して、みんなで最後の音を鳴らすために、だと思います。最後のその……最高のドミソの和音を」

「なるほど」

 そう言って頷いたのは、悠介だった。

「この、シナリオの最後で『まだまだっ』とか『もう一度!』とかあるのは、つまりそういう意味か?」

「え、なんですか、それ?」

「いや、そう書いてあるんだけど」

 首の後ろに寒気が走った。作業の終わり近くになって、ちょっと悪ノリしてしまったのか。もう記憶にもない。なんでこういうセリフって、他人の口から言われたらめちゃくちゃ恥ずかしい気分になるんだろう?

「ええまあ……多分それはそういうこと……ですけど、あの、変だと思うんでしたら、そのシナリオは――」

「いや、問題ない。まさかこれで劇まで実演してみろとか言う話じゃねーよな? なら、イメージ作りの参考と思って、脳内変換すれば」

「賛成」

「異議なし」

 金管だけじゃない、他のところからも声がかかって、期せずして拍手まで湧き起こった。それはつまり、今さら美緒のシナリオを引っ込めるのは許さん、という意味に他ならなかった。

 ああ、なんということだろう。

 これが生き恥をさらす、ということなんだろうか? 全く唐突に、以前ちょっとだけ読んだ小説の一部分を思い出す。


 ――恥の多い生涯を送って来ました。


 誰の何だっけ? なんだか胸にしみる文章だ。今度全文読んでみよう。この作家さんとは、仲良くなれそうな気がするよ、うん。



 美緒は全く納得できなかったものの、プレゼンはどうやら好評で終えることができたようだった。この際、評価はどうでもいいと思った。と言うより、自分の席に戻った瞬間、抗いがたい眠気が押し寄せてきて、続くミーティングはほとんど聞いていなかった。夢うつつに、すぐ近くで何人かの女生徒の声が何かを争ってるような気がしたものの、よく憶えていない。主に三砂と小夜理が、膝枕がどうしたとか権利がどうとか。

 気がつくと、美緒は誰かの肩に頭をもたせかけていた。大した時間は経っていないようだったけど、人様の肩甲骨を枕に寝入っていたらしい。「あ、ごめんなさい……」と目をこすっていると、でも相手は美緒の声にも何も言わず、彫像のようにただずっと遠くを見つめたままのポーズでいる。

 目の焦点が合った瞬間、美緒はうわっと声を上げた。なんで私の隣に塔野がいるのっ!?

「な、な、何してんだ、オマエっ!?」

「おお、俺は嫌だって言ったんだけど、先輩たちが強制参加だって、アミダで」

「何言ってんのか分かんないよっ!」

「俺も分からんっ。とにかくお前が起きたんならこれで終わりだ! 戸締まりの確認行くぞっ」

「え? う、うん」

 ざっと周りを見ると、美緒たちをことさらに注視している部員はいない。先輩たちが今のシーンを見逃すはずはない。……ということは、さんざん見物して写真なんかも撮って満足したから、晶馬ごと放置してみんな解散した後、ということか……。

 うかつに居眠りもできやしない、などと口の中でぶつぶつ言いながら、校舎の中を点検に回る。吹部はパート練習なんかで他の教室をふんだんに使わせてもらうから、帰る間際に部員が手分けして窓の締め忘れなどを確認して回るというルーティーンがある。

 三年生の教室の一角に差し掛かると、結構な音量で吹奏楽の何かの音源が鳴っている。小さく開いた扉から様子をうかがうと、数人の市吹の人たちがタブレットとアンプを持ち込んで、音楽鑑賞会の真っ最中だった。どうも、教室のスピーカー端子を勝手に引き抜いて、自前の装備との接続を試しているようだ。

「あ、もう練習終わりですか? 早いね」

 おっさんの一人が気づいて、別の男性がちらっと腕時計を見た。

「五時までいいって言われたんだけど。もう少し聴いててもいいよね?」

「あ、そういうことなら、いいと思います」

 まあどうせダメだとは強く言えない。明日のワークショップに備えて早めに終わったというだけのことらしいし、急いで部外者を叩き出す必要もあるまい。

「じゃあ、もう少しバスの効いた曲、やらない? あと一曲だけ」

  ちょっとキツめのお姉さんがタブレットの画面を漁る。よく見ると、昨日「ディオス・ナタリス」を弾いてくれたお姉さんだ。あちらも美緒に気づいて、

「ああ、なんかすごい研究発表やったんだって? スケさんたちが感心してたよ」

「え、いや……それは何かの間違いかと」

 下手な謙遜はもちろんスルーされた。

「今年のコンクールは楽しみだねー。みんな期待してるから」

「はい、ありがとうございます。……がんばります」

 他の人たちも、にこにこした顔で美緒を見てる。やっぱりみんなOBOGだからか、単純に身近な中学生のがんばりが微笑ましいからか。

「お、んじゃ後輩たちの激励を兼ねて、こいつはどうだ?」

「ああ、いいな。では、樫宮中学の代表金を祈念して」

 リストの中に格好のナンバーがあったようだ。知らんふりもできないようだったんで、一応尋ねてみる。

「何の曲ですか?」

 秘密の合言葉みたいに、お姉さんが短い曲名を口にしてニヤッと笑った。それで全部わかるでしょ、みたいに。

 聞き損ねた気がして、美緒が二、三歩踏み出す。タブレットのリストを目で確認しようと思ったのだ。直後、脳内の非常アラームがけたたましく最大音量でわめきたてた。いけない。それは。その曲は。

 突如、スピーカーから巨龍の咆哮のようなトゥッティが轟いた。猛烈なパーカッションの連打と大波のようなユニゾンが重々しく響き渡る。何度も何度も。

 とんでもない緊張感、気が変になりそうな激情だった。四十何人かの、祈りのような、苦悶のような、怒りのような、そして歓喜の絶頂のような叫びが、暴風と化して全身に吹きつけてくるような音楽だ。

 もう美緒は一歩も動けない。何の脈絡もなく確信する。これは間違いない。去年の樫宮の自由曲。でも……何という熱量。何て恐ろしい気迫。聴くだけで魂がまるごと持っていかれそうな――

 ――もうね、とんっでもない演奏だった。

 ――とにかく聴くな。少なくともコンクールが終わるまで。

 ――色々積もるものがあったんじゃないかなあ。

 ――去年の件では私にも大きな責任が

 ――あれは……言葉じゃ言えない。

 ――去年の敵を討つってなんですか?

 ――あいつは知ってるんだよ。去年の、あのステージを。

 これまで色んな場面で聞いてきた色んな人たちの言葉が、耳の中でリフレーンして、一つに混じり合う。どうしても腑に落ちなかったあれやこれやが、完成されたパズルのようにきれいな一つの球体になる。全て解った。全部納得した。これはまさに……これこそ本当に……


 美緒の正気がどこで吹っ飛んだのかは、その場にいる誰も証言できなかった。曲が終わった時、そこには抜け殻のようになった女の子がただただ立ち尽くしていた。人形のような状態で自宅まで運ばれた美緒は、間もなく眠りに落ち、次の朝が来ても、昼になっても、呼びかけても揺さぶっても目を覚ますことはなかった。


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