第45話 大渦巻の予感が。
翌土曜日は、案じた通り、美緒は猛烈な睡眠不足に悩まされることになった。
最近の土曜日は午後だけの練習になっていたのだけど、今日から午前中も出ることになってる。最初しばらく個人でウォームアップをして、いきなり合奏に入る、というスケジュールだ。どうもコンクール当日が午前中の出番らしく、実際にリハーサル時間もほとんどないそうだから、短い立ち上げで即一発勝負、という流れの訓練を、今からしておかなければならないのだとか。
登校は九時だったんで、多少寝坊ができたとは言え、睡眠時間七時間切りはキツイ。もう夜ふかしなんてやめよう、と思うものの、これから嫌でも睡眠時間って減っていくもんなんだろうなと思う。眠い目をこすりつつ、それでも学校とか会社とかに足早に向かう、そんな生活が当たり前になるんだろう。
(そうか、これが大人になるってことなのかな?)
その通りかもしれない。でも、睡眠不足が大人の条件なら、いつまでも子供のままがいい、と半閉じの目で何度も頷いてしまう。
音楽室入りすると、真っ先にプレゼンの資料原稿を先生に渡す。午後までに人数分コピーしてもらわないといけない。本当は昨日のうちに渡すはずだったけれど、もう一日粘りたいからと延ばしてもらった。結局提出の中身は変わってない。
一発勝負のコンクール曲の出来は、美緒から見ても全然なってなかった。やり直し一切なし、ダメ出しとか会話も一切なしで、課題曲と自由曲をただ淡々と二つ続けて演奏するのは、平素の練習と甚だしくギャップがある。まずはそのギャップにも慣れないといけない。その上で、最高の演奏ができるように気持ちを作る要領を学ばなければならない。あと一ヶ月で。
でもこういう、当日の演奏時刻を意識した訓練は土日の練習でしかできないし、公開演奏会もあるから、実質あと五、六回しかないのだ。……というお説教を、二曲通した後に先生から聞かされると、一、二年生はにわかにテンパった表情を浮かべ始めた。美緒もなんだかしっぽに火がついた気分で、残りの午前中は合奏練習の続きをやった。
十一時半で一旦終わって、一時から再開。美緒は一度家に帰り、誰もいないキッチンで冷凍の材料と炊飯器の冷や飯とレンチン用のおかずとで手早く昼食を作ってかきこみ、休憩もほどほどに急いで取って返した。簡単なお弁当ぐらいなら自分で作れるけれど、今日は寝過ごして手が回らなかったのだ。
午後いちばんでいよいよプレゼンが始まる……のかと思ったら、なぜか先にパート練習、クロスパート練習が入った。もう今日は合奏はやらないから、ミーティングとくっつけてプレゼンも後半に回すほうがいい、ということになったようだ。
最後のクロスパート練習、相手はトロンボーン。
「ま、明日には何とかなってるかも知んないし」
小休憩に入って、白木部先輩が抜けたタイミングで、妙に楽観的に知夏が言った。
「明日って?」
「何言ってんの、明日はほら、アレじゃない。あの、ワーカホリック?」
「ワークショップだ、バカ野郎」
「日曜日に過労死してどうすんだ、低知能ダジャレ女が」
「はあ? 何言ってんの、あんた」
二人の
「明日のワークショップで何とかなるってどういう意味ですか?」
「え? そりゃ、何かが何とかなるんじゃない? よくわかんないけどさ」
「白木部先輩が急にうまくなるんじゃないかっていう?」
「うーん、今でも下手にはなってないと思うんだけど、なんていうの、明日でスタンプがぽろっと取れるんじゃないかなって」
「スランプだ、バカ野郎」
「そううまくいきますかね?」
美緒は懐疑的だったけれど、似たような言葉は折りに触れて他の先輩たちからも聞いていた。日曜日の訓練を終えたら、吹部全体が見違えるようなピカピカのスーパー楽団に変身する、みたいなイメージの言葉を。
多分そういうイベントじゃないと思うんだけど。というか、全然そうならなかった時の反動が怖い。
三時過ぎ、美緒は音楽室の黒板の前に立った。
いざ時間になってしまったら、意外と緊張感はない。準備はできるだけのことをやったし、実質的に後は原稿を読むだけだ。より完成度の高い実演が求められる音楽の演奏と比べれば、気楽なもの――と思っていたら、なんだかギャラリーが多い。市吹やOBOGが冷やかしに見に来るのは、まあ予想の範囲だったけれど。
「……なんでコグマさんがいるんですか?」
熟旦高校の小隈先生が、生徒らしい高校生を何人か引き連れて、パーカスの裏に陣取っていた。美緒が近寄って尋ねると、おう、と眉を上げて、
「この前ここにコンバスクラ持ってきてやったのは知ってるだろ? 今日はその対価をいただきに来た」
親指でパーカッションの一角に置いてあるチューブラーベルを指差す。少し離れたその先では、なにか言いたそうなパーカスの面々がじとっとした目つきで美緒とコグマさんを見つめていた。
チューブラーベル、要するにのど自慢なんかで悪目立ちしている、あの楽器。コンサートチャイム、単にチャイムとも言う。
樫宮中のチャイムは、完全手製である。なんでもOBの一人で、市内の小さな工務店務めの人が、鉄パイプを使って色々と試行錯誤して作り上げたんだとか。さすがにタダで納めたわけじゃないけれど、市販のチャイムは六、七十万ぐらいするから、まともに買うならうちの部にはまず手が出ず、格安で手に入れた形になっているそうだ。
「時々、のど自慢ごっこするのが我々のささやかな楽しみだったのだ」
能田文子が手招きするから何ごとかと顔を寄せたら、沈痛な面持ちで恨み言を聞かされた。我々ってのは、パーカスのメンバーだろう。
「え、歌なんか歌い合ってたんですか?」
「いや。スネアのロールの良し悪しとかをな。合格、とか、不合格、とか、すばらしい、とかを鐘で」
「遊びじゃないですか」
「それでも、なけなしの娯楽だったのだっ」
涙を振り切るようなオーバーアクションで――これはつまり、今は水凰寺麗華モードってことなんだろう――深い遺憾の意を表明する文子。その後ろでは九里尾勇紀や、伊軒睦海たちまで、うんうんというように同意している。何なんだ、このパート。
「聞けばこの鐘は、貴様の音が薄いからという理由でクラリネットのバケモノが必要になって、そのトレードの結果として差し出したと言うではないか」
「はあ、まあ、そのようですけど……すみません」
「いや、謝罪を求めているわけではない。だが、せめて仇を取ってくれ」
「仇ってなんですか!?」
「あの高校生どもをギャフンと言わせてやれ。先輩づらでプレゼンを見物に来た奴らが、真っ青で逃げ出すような演説をかましてやれっ」
「はあ……」
ただの貸し出しなんだから、どうせコンクールが終わったら楽器は戻ってくるのだ。その間に鐘で遊べないのがそんなに悔しいんだろうか。ってか、高校生が真っ青になる演説って何?
「美緒ちゃん、始めるよ〜」
慶奈が前で手を振っている。端嶋先生はコグマ先生の横で見物する構えになっている。ギャラリーはあらかた着席したようだ。
美緒が隣に立つと、慶奈がなめらかな口調で話し始めた。
「では、『音楽祭のプレリュード』の音楽構成について、私たちが研究したことをお話したいと思います」
「音プレ」はオクラホマ州の三州合同音楽祭二十五周年を記念して作曲された音楽だ。
……という情報は、この曲のたいていの解説に載ってる。
でも、じゃあオクラホマ州ってどこ? という点をわざわざ調べる人は十人に一人もいない。
いったいどんなイメージの州なのかを突っ込んで調査する者は、さらにまれ。
もちろん美緒は調べた。というか、そういうところからでも掘り起こさないことには、何も喋ることが出てこない気がしたから。
その結果として、美緒が箇条書きにまとめたのは、ほんとに小学校の教科書レベルの内容だったけれど、そこから引っかかったことを慶奈に話した途端、話がいっぺんに研究論文レベルへ昇華した。慶奈さまさまだ。
ただ、それだけだとちょっとしたトリビアで終わってしまいそうな分量だったので、それは小ネタとして前半に持ってきて、後半は楽譜を睨んでいて美緒が(無理やり)発見したことを、ハッタリ半分で慶奈が肉付けした話を持ってくる、ということにしてある。
まずは前半。慶奈はいきなり、ネタを全部並べて幻惑する策に出た。
「っというわけでっ。オクラホマと言えばもとはスペイン領! そしてネイティブアメリカン、いわゆるインディアンと呼ばれた人たちですが、その強制移住先の土地! そして大平原の国、つまりはカウボーイの天国です! 要するに、キーワードはスペイン、インディアン、大自然!」
多分ツッコミどころはいくらでもあったと思うんだけど、立て板に水のごとく喋り続ける慶奈にあえて横槍を入れる聞き手はいなかった。
「そういうとこから音楽のイメージを捉え直してください。例えばDの三小節前、トランペット・トロンボーンで『タカタタンタンターン!』ってリズムが出てきます。あまり意識してないかも知れませんが、これはスペインの闘牛のファンファーレのイメージです」
えっという声が熟旦高校の生徒から上がったもんだから、半知半解の中学生たちは、それで却って慶奈の話の説得力を実感した。ちょっと苦い顔で、コグマさんが自分の部員を見やる。
「大げさなぐらい劇的に、前半を締めくくってくれということです。それとDの後半、ここはイ短調のようなニ短調のような、ヘンな調性に見えるんですけど、正しくはフラット一つのフリギア調、主音はラです。フリギアン・モードについては資料を読んでください。で、こういうフリギアン・モードっていうのは、フラメンコのイメージ、つまりはスペインなんです。同じことはHの木管にも言えて――」
調子に乗り出したら、慶奈の弁舌は手がつけられなかった。間違っても美緒はこんな斬新なネタを提供したつもりはないのだけど、でもそう言えばDの三小節前の音なんかは「このわざとらしいリズムって何なんですかね」みたいなことを言った気はするし、Dの後半が意味不明なコード進行に見えたんで、どう説明したらいいんですかっと泣きついた記憶はある。
そういう小さなネタから、要領よくレクチャーを組み立てる人は組み立てる、ということなんだろう。
「――というのが、私が今回新しく見つけた演奏のヒントです。では、それらもまとめた上で全体をどう構成するべきか。それは加津佐さんに語ってもらいましょう」
テレビアナウンサーみたいに滑らかなつながり方だったんで、美緒はしばらく自分の出番が来ていることを理解できなかった。
「美緒ちゃん」
言われて慌てて前に出る。さっそくセリフが出てこなくなったもんだから、教壇に置いてあった原稿をひっつかもうとして、すっ転んだあげくに全部床にバラ撒いてしまう。おお、エンターテイナーだね、と高校生がささやき交わしたほど、見事な失態を衆目に晒す羽目になった。
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