第43話 凪の日々 (前)


 月曜日。クロスパート練習の相手はホルン。

 合奏でもごく近所のパートで、やはり気心の知れている人たちなんで、曲の合わせどころの確認はすいすい進んだ。

 今は小休憩で、貴之と光一が楽譜を手に何やら話し込んでいる。

 今日の貴之はいつも通り。美緒も主導権を渡しきっている状態だ。ただ、積極的に話題を振ってこないのは相変わらず。昨日や一昨日のことを美緒と話し合おうという素振りも見られない。

 もっとも、急いで話すべき何かがあるわけでもない。桐香先輩が口を利いてくれたおかげかどうか、クラリネットからヘンな圧力がかかってくる感じもなかった。

 今週の土曜日はいよいよプレゼンの発表だ。その翌日日曜日は声のワークショップ。「歌の講習」という言い方だったのが、ここにきてワークショップなどという、英語の先生に聞いてもよく分からない言葉のイベントになっている。どうも、「講習」より訓練とか練習のイメージが濃いお稽古会のことをそういうらしいのだけど。

 とにかく、一週間後に大きな行事が控えている、という感覚はみんな共通のようで、練習してる部員たちを見回しても、それとなく緊張と不安と期待を一緒くたにして、それでも週末を心待ちにしてる、という印象だ。

 ゆえもなく、ほうっとため息をつく。と、不意に。

 ぽわーっとホルンのソロが鳴り渡った。少し離れたところで小夜理が立奏で、なんだかいつになく見せびらかしてるような感じで朗々と音を出している。耳元にイヤホンが見えた。何かの曲を再生しながらそれに合わせているのか。

 三つ目ぐらいの音で、ああ、あの曲か、と周りのみんなが顔を見合わせた。多分、商店街の真ん中で吹いても「あの曲」だとわかってくれそうなほどの、往年の有名曲だ。放映してもう五十年ぐらいになるんだろうか、アルプスの村で野生児の女の子が、車イスの女の子のリハビリを手伝ってあげるというストーリーのアニメの、テーマソングの冒頭部分。

 何の前触れもなく始まった小夜理の独演会を見ながら、美緒は昨日の帰り道での会話を思い出していた。


「え? 付き合ってなんかいないよ、私たち」

 いくらか赤みがかってきた陽の光を片頬に受けながら、小夜理が言った。美緒が〝ぬいぐるみ〟の感触を堪能し終えて、三年生達のおしゃべりが一段落すると、かねてからの話通り、小夜理は一足先に帰ることになり、美緒も一緒に出た。桐香はまだもう少しにわかDTMを見物するとのことだった。

 道すがらの雑談で、何の気なしに美緒は、鳴野先輩とはいつから付き合ってるんですか、と尋ねた。適当にはぐらかされるのかと思ったら、小夜理は大真面目に二人の関係を否定したではないか。

「いや、そんなはず……いつも一緒じゃないですか。パートリーダー会議の時とか。今日だって二人一緒に」

「それは当たり前だよ。私たち、幼なじみなんだから」

 美緒の足が止まった。気づいた小夜理が、ん? と不思議そうに振り返る。それはあまりにも自然な素振りで、それゆえに美緒はちょっとした混乱に陥った。

 え、私、何かおかしな質問の仕方……してないよね? 幼なじみって……ただの知り合いか、友達の同義語だよね? なのに〝だから一緒で当たり前〟? 四六時中ペアで、何かあったらすぐ泣いてしがみつくような距離の近さが? この人、なんかおかしいと思ってたけど……。

「あの、先輩、私もテナーサックスの芽衣ちゃんとは幼なじみなんですけど、先輩たちほどいつも一緒ってわけでは」

「そりゃ別パートだからじゃない?」

「……ええと私、野球部に森山君ってのがいて、一応幼なじみなんですけど、中学上がってからはほとんど話もしなくて」

「それはもう〝一応〟の幼なじみに格落ちしてるんだよ」

 なるほど。

 つまりは、小夜理先輩の頭の中では、「幼なじみ」という言葉は、私たちとは異なる意味合いを持っている、と。でもそれって、彼氏彼女といったいどこが――

「なんだかよく勘違いされるんだけどぉ。あいつはまあ、同い年の弟みたいなもんだから。私がずっと面倒見てきてんの」

「でも、今は鳴野先輩がパートリーダーですよね?」

「だから、私がやらせてんの。見てたら分かるでしょ? 私たちが裏で支えてるから成り立ってるんだよ、ホルンは」

 そうなんだろうか。美緒の目からだと光一はそれなりにイニシアティブを取れているし、むしろ横から小夜理がぎゃあぎゃあムダに突っ込んでいるという感じがするんだけど。

「あいつに任せてたら、音が汚くなってしょうがないの。ホルンってさあ、やっぱり大自然の中の角笛って感じじゃん? でも鳴野はなんだか難しいことばっかり言って、そのへんが分かってないんだよねー」

「はあ」

「もう何十回言ったか分からないぐらいだけどね。あいつは素朴な音楽の良さってのが、いつまで経っても――」

 それからは、音楽の趣味のぶつかり合いなんだか、ズレた女の子のノロケ話なんだかよく分からない話になって、美緒はあまり真面目に聞いてなかった。要するに、この二人も亜実先輩と同じく、普通のコイバナよりも音楽バカとしての行動が先に来ちゃって、ちょっとイカレて見えるだけなのか。

 それとも。


「おい、それもういいかげんにやめろっ」

 珍しく貴之が怒鳴っていた。三福小夜理のホルンソロは、アニソンのイントロ部分「だけ」を披露しているんで、すぐに終わってしまう。で、物足りないもんだから、もう同じフレーズを十回ぐらい繰り返してる。コンクール曲の本番直前の突貫練習というのならまだしも、遊び吹きでこれは、そりゃ聴いてる方もイラつくってもんだ。

「もう、何聞きながら吹いてんだよ」

 そう口々にボヤきながら、なぜかその辺にいた三砂とか悠介とか、野次馬も合わせてみんなが小夜理の元に集まると、微妙にわざとらしい表情で、

「ええ、何、聞きたいの? 仕方ないなあ」

 とか何とかいいながら、胸ポケットに入れていたスマホのイヤフォンジャックを外した。途端にスピーカーからBGMとして使っていたらしい音源が流れ出す。もちろんその音楽はあの曲……なんだけど。

「あれ、これ何? ホルンの音だけ抜けてんの?」

「って言うか、マジ、イントロだけじゃん。ホルン専用のショートカラオケってことか」

「どこで手に入れたんだ、こんな音源?」

「ああ、それはボクが」

 みんなが一斉に声の主を振り返った。ホルン王子は別に自慢する様子もなく、求められた情報だから教えます、という態度で、

「昨日作ったんだよね。ストリングスとフルートとハープならまともな音源あったんで」

「何だお前、しばらく一人でなんかやってると思ったら」

 悠介が呆れ半分で言った。昨日の事情を知らない人たちも、それで何となくいきさつは読めたようだ。

「え、でもこれ楽譜なんかどうしたんですか?」

「耳コピーでいけるよ。まあ、動画なんか漁ったら、半分楽譜公開してるようなのもあるから、それでだいたいの確認は出来るけど」

「へえー、すごいですね、鳴野先輩」

 ハーレムの女の子たちも野次馬たちも率直に驚きの声を上げる。自分から光一に注目が移って小夜理がどんな顔をしてるのかなと美緒が振り返ると、なんだか今まで以上に嬉しそうだ。音源製作者を讃える声を我が身の称賛として受け止めているような。

 ……あ、つまりこれが狙いだったわけね。

 なんだかいつものメンヘラっぽい自己中なふるまいと全然違う。でも……昨日のあの〝幼なじみ〟発言の後だと、これはこれでしっくりくるような。

「まあ立派な出来なのはいいんだけど、なんでこの後作らねえんだ?」

「いや、ホルンが出てくるの、ここだけだし」

「ホルンさえ鳴らせりゃいいのかよっ」

「当たり前じゃないか!」「当たり前でしょ!」

 光一と小夜理が息もピッタリに言い返した。

「だいたいこういうさあ、ホルンが大活躍する曲って、吹部じゃほとんどやれないじゃん」

 ここぞとばかりに小夜理が演説をぶつ。黙って聞いていた美緒の口から、ぽろりと言葉がこぼれた。

「じゃあ『大江戸捜査網』とかやったらどうですか?」

 一瞬置いて、主にホルンパートから、おおーっという声がいくつも湧き起こる。

「さすがは美緒ちゃん、目が高い! あれはいいよね。よし、後で先生に交渉しに行こう」

「ってゆーか、それどんな曲?」

「えっと、こんな曲」

 光一が自分のスマホを取り出して、動画サイトからデータを引っ張り出した。小夜理がちょっと嫌そうな顔をする。

「なんだかランボーな曲だよね」

「そこがいいんじゃないか」

「もっと美しい曲はないの? やっぱアルプスっぽい感じのさあ」

「この曲はね」

 光一が噛んで含めるように、「大江戸捜査網のテーマ」の魅力を語りだす。いつになく目がマジだ。

「最初から終わりまでホルンが主役なんだよ。AメロもBメロも。こんな曲、滅多にないよ! それを、四人全員でユニゾン出来るんだ。いいでしょ? 最高じゃないか?」

「え、四番もこんな高い音吹くんですか?」

 二年生の四番ちゃんが恐ろしいもの見るような目で言った。

「当然」

「ちょ、ちょっと考えさせて――」

「ダメだ! 四人で息もピッタリっていうのに意義があるんだっ!」

 あるいは昨日のクラリネットの話を聞いて対抗心が出たのか、光一は熱心に後輩たちをかき口説き始めた。ホルンの内輪の話になったんで、やれやれ、と他のみんなは三々五々散っていく。

 美緒がちらりと小夜理の方を見ると、一度だけ「ユニゾン、ねえ」と呟いてから、一人でふにゃーと笑っていた。「光一と一緒に吹く」っていうあたりが琴線に触れたんだろうか。

 ああもう、どうぞご勝手に、と美緒も一人、黙って首を振りながら、そのまま練習に戻った。



 火曜日。今日のクロスパート練習は、音楽室でパーカッションと。

 サシで合わせることなんて滅多にないパートだけど、バスラインとティンパニ、バスドラムは結構重なることも多いので、改めて一緒にアンサンブルすると色々発見も多い。

 九里尾くりお勇紀ゆうきの演奏ぶりを間近で見るのも新鮮だった。部全員が見守る中での鮮烈なシンバルデビューを果たして以来、ずっとレギュラーでならしている勇紀は、「コンチェルタンテ」では木琴シロフォン他を、「音プレ」ではシンバルを担当している。シロフォンの叩きっぷりは一年生とは思えない堂に入ったものだけれど、意外にも「音プレ」のシンバルは苦戦気味だ。音の響きは申し分ないのに、タイミングが時々ズレる。一瞬迷いが出るらしい。

「最初のシンバル、もう緊張しちゃって。音が出ない時もあるの」

 小休憩で話をしに行ったら、うつむいたままで勇紀が言った。ノミの心臓は相変わらずらしい。こういう悩みに、美緒はどう答えていいのか分からない。ただ黙って頷きながら聞いてやることしか。

「誰かが背中から、三、四って拍子取ってくれたら、鳴らせると思う」

 そう言いながら、美緒の方をじっと見る。いやそんな、物欲しそうに言われても。「音プレ」の最初の時だけ、私にチューバを置いてパーカスの背後までカウントを取りに行けとおっしゃる?

 なにか適当にジョークでごまかそうとしたら、不意に横から能田文子が話しかけてきた。

「加津佐。ちょっと、よろしいか? 話があるのだが」

 この人とはあまり楽しい会話の記憶がないんで、思わず身構えてしまった美緒だったけれど、文子はただ平静な顔で、

「ええと。実は伊軒先輩からのお言葉……というか伝言なんだけど」

「はあ」

 ちなみに伊軒睦海本人は、文子のすぐ隣りにいて、じっとこちらを見ている最中。なんでまたこんな伝言ゲームを、と思った美緒は、でもすぐに思い直す羽目になった。

「日曜日の午後、先輩が砥宮さんからメールをもらったそうで」

「は、はあ」

「内容は分かってるよね? で、伊軒先輩はちょっと手が放せなかったから、断りの連絡をいれたんだけど、別にイヤなわけじゃなかったからって」

「そ、そうなん……ですか」

「先輩の家、小さい妹さんもいらっしゃるから、抱っこには慣れてるって。なんなら今からでもハグしてあげるけど、どう? ……とのことだそうだ」

 そう言って、美緒の目をのぞきこんだ。セリフはソフトだけど、文子の視線は明らかに、キサマよもや伊軒先輩のご厚意を無碍になどするつもりはあるまいな? と言っている。そう言いつつも、なんだか文子自身の複雑な思いも混じってるようで、これまたややこしい。

 勇紀を振り返る。さっきまで陰りのあった顔が、なんだか面白そうなものを見るように生き生きとしている。

 貴之を見た。視線に気づくと、こちらは言葉ではっきり言った。

「ああ、まあ。いいんじゃないか? 好きにしたらいいよ」

 そこでおずおずと、美緒は――いや、どう取り繕っても体は正直だ。なんにもない道の真ん中ですんごい豪華なパフェかケーキをゲットした子供みたいに、目をキラキラさせてほっぺを落としそうになりながら、睦海の膝の上に乗っかったんである。

 ああ。マックスがいなくても、この部にいたら大丈夫――そう幸せな気分に満たされつつ、ふと、こんなところを三砂に見つかったら、とヒヤリとする。

 今日のユーフォニアムは中庭でトロンボーンと合わせているようだ。ちゃんと三砂の音も聞こえてくる。よしよし、と思った、まさにその時。

 一体どういう流れでそんなことが起きるのか、音楽室に淵野桐香がふらりと入ってきたのだ。睦海にコアラ抱っこされている美緒を見て、入り口で息を呑み、硬直する。

「あ……え、その」

 何秒間か美緒と睦海を見つめていた桐香は、能面のような顔のまま、するすると後退すると、扉を閉めてそのまま足早に去っていった。

「いや、あの、違うんです、桐香先輩っ?」

 何でこんな浮気の言い訳みたいなことを私が、と思うんだけど、他に何て言えばいいのか。そのまま走って追いかけることもできかねて、美緒は睦海の膝から下りたところで、しばらく立ち尽くしているしかなかった。はっと気がついて振り返ると、とっても愉快な場面を目撃した表情のパーカス御一同と貴之がいた。咳払いして、文子が言った。

「ええと、加津佐。……あとはそっちで話つけてね、だそうだ」

「何を!?」

「いやまあ、そちらの好きにしていいよ、だって」

 その時になって美緒は気づいたんだけど、笑みを浮かべて美緒を見つめている睦海の顔は、そこはかとなく小悪魔っぽかった。



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