第42話 それぞれの過去。
結論。雪乃本人は正面から金管とぶつかる意志はないけれど、配下のクラリネットパートを説得する気もない。
この吹部、束ねられるもんならてめえらが束ねてみやがれ、というところだろう。全く、部長といい顧問といい。
「雪乃の言ってたこと、あんまり気にすんなよ」
「はい……」
「でもしばらくクラの動きには気をつけとけ。コンバスクラの件で嫌がらせの一つ二つぐらい、充分やりかねん」
苦味混じりの悠介のそんなセリフを耳にして、不意に美緒はある衝動に囚われ、慶奈の部屋の中を見回した。机の上にあるロフトベッド。その脇にある衣装ケースとロッカー。簡素なソファ。総じて機能的で、あんまり女の子っぽい雰囲気がなくて、美緒が求めるものはどこにも――
「何探してるの、美緒ちゃん」
「……ぬいぐるみはないんですかっ? 今すぐほしいんですけどっ」
「え、そんなもの何に」
「もちろんハグするためにです! 魂の充電に必要なんですっ!」
「い、いや、そういうのはちょっと」
「ああっ、もう、私、考えたら半年もマックスをハグしてないっ。信じられない! ぬいぐるみっ。今すぐぬいぐるみがないと――」
ノイローゼになった檻の中のクマのように、その場でぐるぐる回りだした美緒に、不自然なほど明るい声が投げかけられた。
「美緒ちゃん、おいで!」
小夜理が両手を広げて期待に満ちた笑みを浮かべている。ちょっとだけじっと、そのほどよくスリムな中肉中背の胴体を見ていた美緒は、けれどすぐにぺこりと頭を下げた。
「ごめんなさい」
「あーん、美緒ちゃんにまたフラれたぁ〜っ」
ずごっと鈍い音がして、小夜理が光一の胸元へ頭突きをするようにしがみついた。咳こみながらも、殊勝なハーレム王子はよしよし、と頭をぽんぽんやっている。
「あーもうっ、騒ぐな、こんなところでっ。しゃあねえ、ちょっとまたスマホ貸してくれる?」
「何するつもり?」
悠介と慶奈がスマホを挟んで何か話しこみ始めた。自分のわがままで三年生がバタバタしているのを見るのは、なんだかいい気分――とささやかな満足を覚えた美緒は、でも急に不安になった。
「えっとあの、ぬいぐるみ、特急便で注文とかされても、私、お金ないんですけど」
「そういうのじゃねえ。いーからちょっと待ってろ。……あ、鳴野、インストール、終わったみてーだけど?」
「お、了解。さて、んじゃここからだな」
微妙にお遊びタイムは終わり、という空気の中で、四人がデスクトップの周りに集まる。どうも、でぃーてぃーえむってやつを始めるつもりのようだ。
一人ほったらかされた美緒が口をとがらせながら様子を見ていると、いきなりパイプオルガンみたいな音がどーんと鳴り響いて、おおっと思ったんだけど、四人は逆にがっかりした表情で、
「全然ダメじゃん」
「えー、こんな音にしかなんないの?」
「デフォルトはこんなもん。だから、色々音源入れないと」
「いいから一応私のファイル、鳴らしてみてくれる?」
「……まあそう言うんなら」
光一がメニュー操作を一つ二つやると、曲が始まった。これは美緒も知っている。「エルザの大聖堂への行列」。コラール風の美しい音楽で、静かな木管だけの和音がどんどん豊かになっていって、最後はフォルテッシモで堂々と曲を閉じる、すごく人気のある曲……らしい。
それがどうもデータになってるらしく、そのファイルをパソコンが読みこんで音にしてるってことのようだ。なるほど、とようやく納得する。こういう自動演奏みたいなことをコンピューターでやるのがDTMってことなんだろう。それはいいんだけど……問題は音の中身か。確かにこれ、吹奏楽の音にしてはショボすぎる。
「うーん、こんなんじゃシミュレーションにならない」
「だろ?」
「どうしたらいいかな?」
「少しずつ試していくしかないけど。とにかく時間と手間だけはかかるよ」
「何日ぐらい?」
「何ヶ月ぐらいって言ってくれよ」
「えええええ〜〜〜?」
「もういいから、今日はセッションだけ試そうぜ」
「そうだねー」
悠介がトランペットをケースから出して、さらにマイクコードのついたミュートみたいなのをベルにセットして、ぱらぱらと音出しを始めた。ずいぶん弱音効果が高いようで、隣近所に聞こえる心配はなさそうだ。慶奈の方はと言うと、こっちもデジタルピアノで音出ししてる。小夜理が一人離れて美緒のところにやってきた。
「どうする、美緒ちゃん? この人たち、これからパソコンで本格的に遊ぶみたいだから、私はここで帰るつもりなんだけど。何なら一緒に帰る?」
「え? あの、プレゼンの打ち合わせとかは」
慶奈が余裕の表情で答えた。
「原稿なら私が書いとく。一通りの構成は話し終わったよね?」
「え、でも、それだけでいいんですか? 音鳴らしたりとかの準備なんか」
「もうみんなよく分かってる曲のプレゼンなんだし、原稿読むだけでいいんじゃない? 実際、それ以上のハイレベルなことは、先生も期待してないと思うし」
「はあ。でも、解説の、ええと、図……とかは」
「資料は、さっき書いてた説明図みたいなの、あれ清書すればいいでしょ? やっとくよ、そっちも」
「いや、でもそこまでお任せするのって」
「美緒ちゃん、パソコンはまだ初心者なんでしょ? そこは甘えていいよ。まあ、次はがんばんなさいね」
そこまで言われると、確かにもう美緒がやることはほとんどないようだ。一瞬、開放感で舞い上がりそうになったけれど、何かが引っかかった。あれでよかった? まだ何か言葉にしてないものがあるような気がする。
「ん、もう少し詰める?」
慶奈が席を立ちかけたんで、慌てて美緒は止めた。
「いえ、その……今すぐ何とは言えないんですけど、ちょっとまだ足りない気がして……」
「それ、あと一週間で形になるの?」
んんん、と美緒が視線を斜め上にやった。苦笑しながら、慶奈がぱたぱたと手を振る。
「ああ分かった。間に合ったらその時にね。一応、原稿は今日の話の分までってことで」
「すみません。助かります。……あれ、そう言えばさっきぬいぐるみって」
美緒が問いかけると、悠介はああ、という顔をして、
「待ってりゃもうすぐ駆け込んでくるみたいだが、どうする?」
「は? ぬいぐるみが駆け込んで?」
言った途端に呼び鈴が鳴ったのが聞こえた。どうやらまた玄関から誰かやってくるようだ。というか、なんだかひどく慌ててるようで、足音がうるさい。
「加津佐はおるんかぁ!」
「おお、来た来た」
「うわ、ほんとに来たんだ」
「えええええーっ!?」
美緒がのけぞったのも無理はない。現れたのはもちろんふわふわのぬいぐるみじゃなくて、以前美緒がぬいぐるみと間違えて抱きついた、淵野桐香先輩、その人間本体だったんである。桐香は両手を広げて上気した顔で言った。
「さあ、加津佐! 存分にわしをハグするがええ!」
慶奈の部屋にぬいぐるみはなかったけれど、人造ファーの清潔な敷物はあったので、それを「皮」代わりにするってことで妥協した。
「なんだかんだ言ってほんとに抱きついてる」
「よっぽどぬいぐるみが恋しかったんだねえ」
「あーん美緒ちゃん〜、なんで私じゃダメなの?」
「おどれはもう帰るところやなかったんか」
「こんなの見ないで帰れるもんですか」
「ひどい話やないか。加津佐が入れ違いに帰ってもうたらどうしてくれたんじゃ」
「ちゃんとコーヒーぐらい出したって。間に合ったんだから文句言うなよ」
「そのコーヒー出すのって私の仕事よね? まあいいけど」
三年生がまたわいわい言い合ってる中で、美緒は少しだけ
でも、抱きついたらそんなこともどうでもよくなった。
「にしても淵野さん、こんな集まりによく飛び込んできたよね。そんなに美緒ちゃんのこと気に入ってたんだ?」
「な、何を言う。副部長から緊急の案件や言うてメール受け取った以上、ライブラリアンとしては出向かんわけにいかんじゃろが」
「はいはい。でも他のクラパートの人たちとかに知られてもいいの?」
「ふふん、脅すつもりか? この程度のお遊びでわしらの結束は揺らいだりはせん」
桐香がいつかのパートリーダー会議で美緒に抱きつかれていた時の写真を、自身のスマホの隠し待受に設定していることは、クラパート全員で、当時すでに暗黙の秘密だったんである。ただし、そのことを美緒自身が知るのは、かなり先のことになる。
話の流れで、三年生達の会話は現在問題になっているあれやこれやの話になった。学校という場所を離れているせいだろうか、コンバスクラのことも、クラパートの「指揮者絶対主義」についても、桐香はことさら感情的になることなく、聞かれるままに話した。
「わしかて極論すぎるのはどうかと思っとるがのう、クラパートはある程度仕方ないんじゃ。十人ぐらいであんな細かい音をぴったし合わせろ、なんて毎日言われとるんじゃから。完璧に合って当たり前、ミスってもズレても迷惑かけるんじゃ。『歯車』って気分にもなるわい」
しみじみした声でそう説明されると、金管の先輩たちもすぐには言葉がなかった。
「まあしかし……Cの5、6っちゅうたか? わしもちょっと気にはなっとった。多分、一方的にどっちがズレとるっちゅう話やないとは思うけど」
「さすがに御大はお話が分かる方でいらっしゃいます」
「まあボクらとしても、話し合いでケリがつくんなら、それに越したことはないと思ってるけど」
「けど雪乃のあの言い方ってさあ、なんか去年の再来をどこかでたくらんでるって感じもするのよねえ」
「再来って言うと、つまり?」
「何ていうか、いい意味でごちゃごちゃになってミラクルが起こる、みたいな?」
「ああ。去年は今ひとつ後味悪かったからなあ」
「何があったんですか?」
半分寝ていると思った美緒が声を上げたんで、みんなしてちょっとびくっと体を震わせた。美緒の方は美緒の方で、寝ぼけなまこでただ遠慮なんかが抜け落ちていただけだったのだけど。
「なんかそのへんのこと、三砂先輩の小説が、いちばん分かりやすい解説になってるって――」
「あー、それ。唐津でしょ?」
「はっ、うまいこと言うのう。そらそん通りかもな」
「え、それ何の話ぃ?」
慶奈が珍しく突っ込んできた。日頃あまり詮索するタイプではないし、去年のことはあまり詳しく聞かされていないのだろう。
「あ、なんなら見てみるか? 久しぶりに浪瀬の小説、ネタにしようぜ」
悠介がテーブルの上のノートでブラウザを立ち上げて、三砂の投稿小説が載っているというページを開いた。なんていうサイトのどこにあるのか、ちゃんと知っているようだ。この人もか、と美緒は愕然たる思いだった。
六人も画面を覗き込むとさすがに窮屈なので、小夜理と光一と悠介はデスクトップに移って同じページを開いたようだ。へえ、こんなことしてるんだ、と慶奈が興味津々の声を上げた。
美緒としては、この機会に悠介たちの口から去年の経緯を聞けたらなと思っていたのに、なし崩し的にネット読書大会になってしまった。こうなっては仕方ない。三砂の小説というものにどうも抵抗があって、ついつい読みそびれていたのだけれど、ここは目を通すしかない、と覚悟を決める。
……十数分後、室内にはそこはかとなく脱力した空気が漂っていた。
「おお……何ヶ月ぶりかのう。この、なんとも言えん気怠い感覚は」
「これ……本当に実話なんですか?」
「ちょっとかっこいいところは実話じゃない。情けなくてバカバカしいところは全部実話」
これまでさんざん思わせぶりに語られて、肝心なところは全然教えてもらえなかった、昨年のコンクール直前に吹部で起きた出来事、とは。
「人はいいけど伝統とかしきたりにこだわる去年の三年生たちと、二年生急進派との男と男のぶつかり合い――って、ほんとのほんとーに、こういうこと、起きたんですか!?」
小説の中身は、例によって剣と魔法の学園ファンタジーだったけれど、どのキャラが誰で、吹部の何の話をしてるのかは明々白々だった。
「まあそうだねえ」
「ケガするじゃないですか!」
「うん、だから危険な競技はしなかった……んだよね?」
「いや、ってゆーか最初は楽器の早吹き競争とかだったんだけど、それは互角だったんでサッカーでシュート勝負になって、それからバッティングセンター行って、最後は長距離走だったっけ?」
「いや、その前にいっぺんゲーセンでレーシングとか一通り対戦したような」
「ただの遊びじゃないですか!」
「ボクはVRゲームでシューティングサバイバルしようって提案したんだけど」
「遊んでますよね!?」
「でも最後のかけっこは結局ハーフマラソンぐらい走ったよな。で、完走したのは?」
「二年生が悠介と貴之で、三年生が遠野先輩一人だけだった。それで勝負がついた」
「あん時の夕陽の色は、マジ忘れらんねえ」
「
「それが本番四日前っ!? あげく、筋肉痛と疲労からきた風邪で三年生が何人も欠席して!? 絶体絶命になって、でも火事場のバカ力で乗り切ったって、これも事実なんですね!?」
「いやまあ、でなきゃダメ金なんて獲れないよね」
「いいとこ銀の真ん中ぐらいって下馬評だったのに」
「うちが金賞獲ったのって、八年ぶり? 十年ぶり?」
「ダメ金でこんなに大喜びしてるところは他にはないって言われてたけどなあ」
聞かなきゃよかった。真剣に美緒は思った。
そりゃ唐津母が呆れて息子を退部させようとするはずだ。
「あの、じゃあ唐津先輩が肺気胸になったっていうのは、まさか?」
「いや、こんなスポーツ大会でそんなことにはならないよ。あいつのあれは、結局三年が抜けて直前にチューバ一人になっちまってさあ」
「一人で四十何人かを支えなきゃって思ったんだろな」
「むちゃしまくったのは数日間だけだけど、むちゃが激しすぎたのよね。あいつらしいと言えばらしいんだけど」
「まあ、そこは後味悪かったのう。……雪乃も。あん子は去年、三年生側についとったから」
ああ、なんか重たい話。
そうか、こういう気持ち引きずって、先輩たちはこれまで吹いてきたんだなあ――。
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