第40話 …の裏側から吹部を見ると。
「そいつは災難だったねー」
鳴野光一が真顔で美緒に頷きかけた。隣で三福小夜理も顔を曇らせている。美緒自身はことさらに同情を買うような話し方はしなかったつもりだけれども、そこはやはり金管同士、ホルンの二人は美緒の見解に一も二もなく賛同して、クラリネットの主張を非難し出した……って、これじゃあただの愚痴の言い合いにしかならないんだけど。
翌日曜日、練習は休みだった。
実を言えば、当初は例の唐津母の歌の講習が行われるはずだった。それが、先週の段階で急に延期になったのだ。なら普通に日曜練習を入れ直してもよかったのだけれど、そろそろコンクールも見えてきたし、追い込み前に一度しっかり休養を取るのもいいだろうと、まるまるオフの一日になったというわけ。
で、休みになった美緒が何をしているかと言うと、午前中は久々に部屋の掃除などして、午後からは砥宮慶奈のお宅にお邪魔している。もちろんプレゼン対策である。
パートリーダーの仕事であるプレゼンは、貴之と三砂が二人でやっていたように、相方を呼ぶこともできる(前回は三砂が貴之に協力を頼んだようだ)。さんざん迷った挙げ句、遅まきながら美緒もヘルプを頼むことにし、頼むのならこの人だろうと慶奈に話を持っていくと、快諾してくれた。そればかりか、
「だったら、日曜日にうちに来ない?」
なんてことまで提案してくれた。
断る理由もなかったんで、指示された通り一時過ぎにとあるマンションの一室を訪れると……なぜかホルンの二人がいた。慶奈の部屋のソファで二人でくつろいでいる姿を見て、美緒は一瞬目を疑ったものだ。
「なんでお二人がいるんですか?」
対面のソファに腰を下ろしてそう尋ねると、光一は慶奈のパソコンにDTM環境を作るために来たのだという。小夜理はただの付き添いだそうだ。
「でぃーてぃーえむって何ですか?」
当然のごとく二つ目の質問をしたのだけれど、続く説明を十秒ほど聞いて美緒は諦めた。光一は軽く笑って、まあ聞くよりも見た方が早いよ、と付け加えた。
「そんなことよりも、ラインで見たんだけど」
「はあ」
そのまま話は、昨日のチューバとクラリネットがひと悶着あった話に移り、かくて冒頭の一行に至る。さらに小夜理が、自分の経験でクラパートがいかにいけ好かない相手だったかを延々と語り、美緒も知らない過去の先輩との確執にまで話が及んでいく。ちょっと困ったなあと思い始めた頃に、折りよく慶奈がティーカップのセットをワゴンに乗せて現れた。
家の中で車輪付きの運搬具を使ってお茶を運んでいる、なんて、実物を見るのは初めてだ。とてもわかりやすく目を丸くしている美緒を見て、一緒にやってきた中年の女性がにこやかに笑った。
「娘がいつもお世話になっています」
「あ、こちらこそお邪魔しています」
光一と小夜理と一緒に立ち上がってお辞儀をする。利発そうな人で、話しかけたらいくらでも喋ってくれそうな感じだったけれども、紅茶とお菓子を運び終えると、本人はさっさとリビングの方へ引き上げた。
「お母さん……だよね?」
光一が気持ち声を低めて言う。リビングにはもう一人男性がいて、やってきた時に美緒も父親だと紹介された。確か砥宮先輩の家は夫婦が別れかけているようなことを聞いていたけど――。
「うん、そう。今日は母親が来てて」
「ってことは、よりを戻したってこと?」
あけすけな言い方で小夜理が尋ねる。慶奈は、いやいや、と笑って、
「だから、うちの別居って、そのまんまの意味だから。特にケンカしてとかじゃないの。お互い忙しいし、しばらく別世帯で暮らそうかって」
「え……なにそれ」
「私もよくわかんないんだけど。本人たちがそれでいいんなら、ね」
「『ね』って。娘としてイヤじゃないわけ?」
「まあ、おかげで私もこんな広い部屋使えるんだし」
言われて、みんなつい慶奈の部屋を見回す。確かに広い。八畳……いや、十二畳ぐらいありそうだ。明らかに子供部屋ではなく、夫婦向けの寝室か、自宅勤務用の執務室といったところ。本人用の机とは別に、小振りながらソファセットとテーブルがあって、結構な量の本棚があって、デジタルピアノがあってパソコン一式があって、もちろんエアコン付き。加津佐家の感覚なら、これだけの部屋、いっそ家族みんなで食べて寝て暮らしちゃえって感じ。
(でもこの部屋だけ借りれたとしても、うちの公団の家賃より高いんだろうなー)
情けないことを考えながらティーカッブを並べる手伝いをしていると、数が合わないのに気づいた。
「あれ、これって一人分多くないですか?」
「ううん、これでいいの。もうすぐ来るから」
ん? と慶奈を振り返ると、ちょっどそのタイミングで呼び鈴が鳴る。慶奈は動かない。玄関の方からなんだかまた聞き覚えのある声がするなと思ったら、じきに五人目が現れた。滝野悠介である。学校のものを借りてきたのか、トランペットのケースを手にしている。
驚く風もなく、光一と小夜理が挨拶代わりにぶーたれた。
「遅いよ」
「そっちから声かけといて、なんで遅れんのよ」
「ああ、いやまあ。色々ちょっと、な」
そう返す悠介の格好は、たまに家の近くで見かける時よりも、心持ち身なりを整えてきているような感じ。貧乏暮らしなりのよそ行きの服、と言うか。
(あー、そーゆーことね……)
全部読めたような気がした。最初はどっちから声をかけたのか知らないけど、とにかく慶奈と悠介が日曜日に合う約束して。で、さすがに悠介が自分から押しかけようとしたとは考えにくいんて、慶奈が悠介を家に誘ったってことか。でもさすがに男子一人で女子の自宅へ行っちゃうのは、遠慮と言うか、今後の噂とかも気になって。かと言って男友達や女友達をもう一人誘うのは面倒な構成になりそうで。なら最初からカップルになってる二人の友達ならちょうどいいよね、ということで、光一と小夜理に声をかけた、と。
思えば、先週のブルースでひと騒ぎした時なんかに、ある程度フラグが立っていたってことなのかな。確かにこの二人なら、いい腕のサックスとトランペットで、スタイルも似てるし、お似合いかも知んないけど。ホルンの二人と一緒に、実質ダブルデートってことだし――。
待って。じゃあ私は一体何なんだろう?
「なんで加津佐がいるんだ?」
案の定、悠介が首を傾げた。
「プレゼン対策でうちに来てもらったんだけど」
「え、今日ってそういう予定なわけ?」
「どうせソフトのインストールって時間かかるんでしょ? その間を有効利用しようと思って」
なんだか微妙に自分がデートのお邪魔虫になってるような気が。ちょっと美緒が恐縮してると、でも悠介はあっさりと納得して、慶奈のデスクトップパソコンにかかりっきりになった光一の作業を見物し始めた。鳴野先輩たちと何をするつもりなんだろ?
「んじゃ、こっちも始めようか」
そう慶奈が言って、美緒もこれまでに集めた資料一式をテーブルの上に広げる。いよいよプレゼンの原稿づくりにかかるのだ。
一時間ぐらい、美緒と慶奈は資料を読み合い、個々の材料を検討し、時々慶奈がネットを調べたりしながら(なんと、パソコンがデスクトップとノートと二台ある!)、原稿の筋書きを考えた。
「一つ一つのアイデアは面白いんだけど、これをバラバラで発表するだけじゃ、物足りないし、もったいない」
そう言いながら慶奈がノートに向かうと、何やら本格的な発表原稿みたいなのがどんどん形になっていく。小学校で、社会の「学習発表会」ってのに取り組んだ経験はあるものの、実のところ、今回のプレゼンなんて形にならないだろうと思っていた美緒は、神の奇跡を目のあたりにしている思いである。
「な、なんだかすごいですね」
「いや、美緒ちゃんの持ってきた材料が思ったよりずっといいから。中一でこんなの拾ってくるなんて、それの方がすごいと思う」
「私は愛弓師匠の教えを守ってるだけです」
割と本気で美緒はそう思っていた。中間テスト直前に鹿目愛弓から授かった思考法――「何が解らないのかを言葉にしたら、それはもう解ったことと同じ」――は、まあチューバを吹くことにはあんまり役に立っていないけれど、その後学校の勉強なんかにはてきめんに効果があって、パートリーダー代理として色んな知識を詰め込んだり理解したりするのにもだいぶん助けになった。当然今回のプレゼン対策にだって、大いに活用してる。
吹奏楽関連のネット情報は、もとより子供向けのなんてほぼない。中には専門家向けみたいな小難しいことばかりのページもあったりする。それでも独力で記事を一通り集めて原稿作りの手前まで持っていけたのは、「自分に理解できていないことは何か」ということを常に意識して動いてきたからこそだろうと思う。
「でも、それだけじゃだめなのかなって感じも、この頃はしてるんですけど」
「と言うと?」
「だって、こういう難しいこととか、色々私たちが考えて演奏に盛り込んでも、聞いてる方はまずわかんないですよね?」
「分かる人には分かるんじゃない? 審査員とか」
美緒が黙り込んだのを横目で見た慶奈が、微笑ましいものにでも出くわしたように、口元を緩めた。
「うん、言ってることはすごくよく分かる。……そうね、私から一つ言えるとしたら、色々工夫した音楽が全部理解されることはまずないけれど、全然何も考えてない演奏は思いっきりバレるってこと」
「……はあ」
「何だってそうだよ。だから、ちょっと手を抜こうかな、なんて思ったらダメなの。中学校バンドのレベルなんかじゃ、特にね」
「そのへんは、まあ分かるんですけど……」
「何か他に悩みごと?」
「悩みっていうか……どう考えたらいいのかなって問題を、ちょっと最近聞いてしまって……」
なおも考え深そうにしている美緒を見て、慶奈が手を止め、向かい合った。真面目な顔で、促すように顎を上げて、
「言ってごらん」
そこで美緒は話し始めた。昨日の、コグマさんと端嶋先生との会話の中身と、それを聞いた美緒の気持ちを。ストーリー仕立てで事細かに解釈を作ろうとしてる高校生たちの話と、それに対する考えを。
「……物語に当てはめて演奏を考えるって、私はまあ反対じゃないんです。でも、たとえば、ここに森があってウサギさんが泣いてますよ、なんて設定しても、そんなの絶対音にならないですよね? ましてや、人類の未来とか、仲間たちの絆とか、曲で説明できないでしょう?」
「そりゃそーだ」
「まあでも、『それは無理』って言い切ったら、怒り出す人もいるんじゃないかな」
「音楽だけに収まる話じゃないよ、いずれにしても」
いつの間にか光一や小夜理や悠介も話に入って、部屋中でわいわい議論する形になっていた。
「しかし、〝意識高い系の人たち〟ね。うまいこと言うねぇ」
「うちの木管の連中は、確かにそのケが濃厚だし」
「でも、昨日の練習では、結局そんなストーリーっぽい話なんか出ませんでした」
美緒がそう報告すると、光一は意地悪そうに唇を歪めて、
「それね。あいつら、今はもうその路線から離れてんの。少なくとも、事細かにシナリオ作ろうってやり方とは縁を切ったみたいでね」
「えっ、そうなんですか? でもどうして?」
「三年の
「なに、それだけで自分たちも方針変えたってこと?」
「そりゃ、しょせんなんも考えてないただのフォロワーだから」
「でも一年ぐらい続いてたんだろ? それだけが理由かな?」
「うーん、まあ他に理由があるとしたら、この前の、浪瀬のあのぐたぐだなファンタジーに
小夜理が吹き出して言った。
「ちょっと、その言い方可哀想よ」
「どっちが? クラの奴らが? 浪瀬が?」
みんなひとしきり笑ってから、悠介がやや真面目な顔で、
「シナリオづくりに飽きたんならそれもいいけどよ。それにしても、今のクラとかフルートとか、相変わらず壁作ってるような印象は変わんねえんだけど。今はどういう主義主張でやってるんだ、あいつら?」
「昨日の練習では、『歯車になりきる』っての、一日目標とかいうのにしてました」
「うわあ。それはまた」
悠介が嫌そうな顔で天を仰ぐ。
「それと、千羽鶴置いてあったんですけど」
「ああ、それは毎年だな。何つーか、コンクールに命賭けましょうっていう」
「そういうのは、
さらりと前の中学の話をする慶奈に、小夜理があまり面白くなさそうな顔で、
「そりゃ、強豪校とかマジメ一筋の学校はどうか知らないけどさあ。うちの部は『のびのび、楽しく』がモットーなんだから」
「それ、ホルンだけでしょ?」
「パート全員で笑い転げてたサックスに言われたくないんだけどぉ」
なんだか会話が佳境に入ってきたようで、先輩たちは楽しそうだ。そして、すでに話は美緒のプレゼン対策から大きく外れている。
(これじゃわざわざ砥宮先輩の家に来た意味ないじゃん)
内心でため息をついて、美緒は先輩たちのおしゃべりが尽きるのを辛抱強く待った。クラの先輩たちだったら、こういう時にしゃきしゃきと先に用事を済ませてくれるのかなあとぼんやり想像しながら。
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